十二山の由来について、十二神将からきていることは予備知識として持っていました。十二山から熊鷹山に向かう山道に「丁石」がありますが、それは根本山神社のものではなく、旧田沼町から十二山に参拝する人への目安としておかれたものだという知識も持ち合わせていました。
何年か振りにこの辺りを歩いて(十二山の項)、とんでもない所に十二山の山名プレートが付けられているのに、驚き、あきれ、このサイトの任ではないのですが、何か書いておかなければと思い資料を漁ったところ、燈台もと暗し。下記の記事がありました。
その前に、まず、この地には大山祇命(おおやまづみのみこと)が祀られていて、その本地仏(ほんじぶつ・神道の神様と仏教の仏様はイコールだという神仏習合による)である薬師如来を守護するために十二神将が祀られるようになり、その後、十二山と呼ばれるようになった。と、境内の十二山根本山神社の沿革を刻んだ碑にあります。十二山は神社のある辺りです。ついでに書いておくと、根本山の山頂は山岳信仰とは全く縁のない場所で本来、根本山は根本山神社のある辺りです。
この地を、神社跡と書かれているガイドブックなどもありますが、神社跡では十二山根本山神社は廃神社のようです。拝殿や本殿は消失したので、その意味では“跡”といえなくもありませんが、神社としてはいまだに信仰を集めています。例祭も行なわれているようです。神社の跡ではありません。神社です。十二山根本山神社の奥宮が根本山神社ということもありません。

桐生山野研究会の会報「回峯」の第2号(昭和63年5月31日発行)に掲載された記事です。当サイトの決まりごとに反して、実名をそのまま使用していますが、実名は写真欄右の写真の碑文にも書かれているので、そのまま使用しました。執筆者であるAHさんに掲載の許可を得てから山野研究会のページにのせるべきかとも思いましたが、引用という形で「やまの町 桐生」のほうに。
引用文中の十日夜は“とおかんや”で子どもたちのお祭りです。藁鉄砲(藁を固く束ねたもの)で田や畑のまわりの地面を叩きまわり、地中の虫やもぐらの退治や田の神が山に帰るのを送るなどの意味があるといわれています。桐生市の菱町などでは一時復活したような新聞記事がありましたが、どうなりましたか。

 桐生近辺の山のお祭りは、鳴神山(5月第一日曜日)、熊鷹山(11月3日)の二つが一般登山者も登拝することで知られている。今年の秋からは、十二山根本山神社の例祭もその一つとして数えられるようになるだろう。
 昭和61年10月17日付けの上毛新聞に十二山根本山神社の石祠奉納祭の記事があったのを記憶している方もあると思うが、その後の経過も合わせて、概略を説明しよう。
 昭和3年までは十二山根本山神社の社殿、拝殿等があったが、火災(心無い人の火の不始末)で、それらが消失してしまった。昭和4年に飛駒黒沢の人達が木製の祠と上屋を奉納、昭和16年に修復した。
 十二山根本山神社の社務所で生まれ育った永澤種次さん(栃木県下都賀群都賀町在住、72才)が、昭和61年4月に登拝。永年風雪にさらされた祠の傷みが激しいので、石祠奉納を決意。黒沢の人達も遷座に快く同意。また、賛同者も多く、同年9月に石祠が奉納された。同10月、佐野朝日森天満宮宮司の永澤瑞碩さん(永澤種次さんの甥)が神官を勤め奉納祭が執り行われた。
 昭和62年10月、遷座一年祭。同11月、鳥居再建。昭和63年4月、春祭と鳥居奉納奉告祭が執り行われた。そして、春祭の日に、石祠奉納時から計画されていた例祭を、毎年秋に執り行うことが正式決定された。
 いろいろな事情で例祭日は決定していない。かつて、十二山根本山神社のお祭りは、旧暦の10月10日(十日夜)だった。これからのお祭りは新暦の10月に決まりそうだ。お山が色付き始めたころに例祭を執り行うということは、素晴らしいことだ。
 また、十二山根本山神社は国有林内にある関係もあり、石祠奉納、鳥居(檜)原木伐採等すべてのことに関して、大間々営林署石鴨担当区事務所の主任馬場宣義さんをはじめ、作業員の皆さんの全面協力があった。鳥居の笠木の反り具合は以前の物と同じだ。原木を探すだけでも大変だったと思う。このこと一つを見てもいかに石鴨担当区事務所の皆さんが協力を惜しまないかがうかがい知れる。
 最後に、山歩きを楽しむ方々に十二山のお祭りを知ってもらい、例祭日には登拝していただきたいと思う。そして、根本山の一面を知ってもらいたいと思う。

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