わが心のふるさと、足尾山塊

増田 宏

関東平野の北の端に私の住む桐生市がある。市街地を渡良瀬川が流れ、三方を山に囲まれた山紫水明の街である。小学生時代、友達と周辺の山によく登ったが、市街地の上に聳える吾妻山の頂上から足尾・日光に連なる山並みを見て、その先がどうなっているのかいつも気になっていた。中学生になって吾妻山から峰伝いに鳴神山まで縦走し、私は新しい世界に一歩踏み出した。

そんな時、父が足尾の庚申山に誘ってくれた。中学二年の時である。父は戦中から戦後にかけての一時期、足尾銅山に勤めていたことがあり、庚申山には何回か登っていた。バイクに二人乗りして桐生を夕方に出発し、暗くなって銀山平に着いた。そこから懐中電灯を手に歩き始めたが、月明かりもない真の闇で、沢を渡るごとに道を見付けるのに苦労して、やっとの思いで庚申山荘に辿り着いた。翌朝、雨の中を山頂に立ったが、雨具を持っていなかった私達はずぶ濡れになってしまった。雨の中をバイクでは帰れず、その日は足尾銅山の元同僚宅に泊めてもらい、翌朝、学校に間に合うよう帰宅した。

少年の日のこの体験が私の人生を方向付けた。亜高山帯針葉樹林に覆われた二千m級の山は桐生の里山とは全く景観が異なり、山頂から見た鋸山や皇海山の姿に強い印象を受けた。それ以来、山は私の人生に不可分の存在になった。これを機に私は渡良瀬川源流の山に登り始めた。仲間がいなかったので同行者はもっぱら弟だった。桐生は足尾への入り口に位置し、渡良瀬川に沿って桐生から国鉄足尾線(現在のわたらせ渓谷鐵道)が通じており、交通の便に恵まれていた。当時、桐生でも皇海山の名は殆ど知られておらず、渡良瀬川上流の山を単に「足尾の山」と呼んでいた。銅山によって渡良瀬川が汚染され、下流が大きな被害を受け続けてきた公害(足尾鉱毒事件)の記憶から足尾には負の印象しかなく、源流の自然にまで関心が及ばなかったのかもしれない。

初めて皇海山の頂を踏むことができたのは中学三年の晩秋である。土曜の午前中授業が終わるとすぐ小学生の弟と二人で足尾線に乗り、その日は庚申山荘で泊まり、夜明けとともに出発して憧れの山頂に立った。朝靄の中に浮かんだ皇海山の秀麗な姿は今も鮮明に脳裏に刻まれている。

次は高校一年の時、父と二人で渡良瀬川を遡って皇海山を目指した。渡良瀬川が足尾から流れて来ることを父から聞かされていた私は、その水源がどんなところか小さい頃から興味を持っていた。製錬所の煙害で森林を失って岩壁が剥き出しになった松木谷の異様な景観に圧倒されつつ、徒渉を繰り返して沢を遡り、ニゴリ小屋に着いた。小屋は高台にあり、父と焚火を囲み、日が暮れるまで水源に聳える皇海山の雄姿を眺めていた。翌日モミジ尾根から山頂に登り、遥かなる渡良瀬川の源流に立ったことに深い感動を覚えた。

大学も地元桐生だったので登山対象はもっぱら足尾の山だった。その頃、地域研究として各地の渓谷遡行が発表され、それに刺激を受けた私は当時殆ど顧みられなかった足尾の山の渓谷遡行を思い立ち、小中川・餅ヶ瀬川・松木川など渡良瀬川流域の渓谷を学生仲間と遡行し始めた。大半の渓谷は中下流が単調な河原、上流は脆い火山性の急斜面で快適な沢登りではなかったが、足尾の山には未知の魅力があり、探検的登山を楽しんだ。

渡良瀬川流域の渓谷遡行をしているうちに上州側の泙(たに)川・栗原川流域に関心を持つようになった。上州側からの登山道はなく、それらの渓谷は殆ど登山の対象になっていなかった。1973年の秋に初めて泙川に入ったが、意外なことに未開と思っていた流域に市川学園山岳OB会の人達が入谷していることを知った。人跡稀なこの流域もかつては「根利山」と呼ばれ、足尾銅山に用材を供給するために根利林業所が設置され、各地に集落が築かれ、1898年から1939年まで約40年にわたり事業が続けられた。同会はこの山域を「足尾山塊」と名付け、数々の記録を発表していた。この山行では泙川本流(三俣沢)から宿堂坊山に登り日光側に下りた。これを機に私の登山対象は渡良瀬川源流の「足尾の山」から片品川流域を含む「足尾山塊」に拡大した。

 戦前の足尾勤務時代、父は友人と二人で足尾から六林班峠を越えて根利山を訪れている。根利山閉山の翌年のことであり、ただ一人管理人が残っていた源公平で泊めてもらい、翌日友人と別れて足尾に戻った。帰り道、廃墟となった砥沢の集落を通るのが不気味で怖かったという。父は半月峠も何回か越えている。戦後の食糧難の時代、中禅寺湖に出かけた同僚が忘れた食糧を届けに一人で夜の峠を越えたが、マッチが湿気て使えなくなり、坑内用カンテラの火を消さないよう必死で歩いたという。これらの話は小さい頃から何回となく聞かされていたが、今は亡き父を偲ぶ懐かしい想い出である。

大学卒業後、東京に就職したが、山が遠くなったこともあって一年と経たずに桐生に戻り、泙川流域の渓谷遡行に精力を注いだ。泙川流域で最も情熱を傾けたのは三重泉(さんじゅうぜん)沢である。「ぜん」は滝のことであり、その名のとおり多くの滝と函を秘めた険谷である。初めての挑戦は八丁クラガリの函に阻まれて逃げ帰った。この時は懸垂下降した崖が登り返せず、雨の中で苦しいビヴァークを強いられた。釜に落ちて全身ずぶ濡れになりながらも二回目に八丁クラガリを突破し、滝ノ沢から稜線に立った。この山行で偶然岡田敏夫さんと出会い、行を共にしたことも忘れ難い。

 一方、渓谷と並んで積雪期登山にも力を注いだ。足尾山塊は高度と規模において奥秩父の山に匹敵するが、北にあるので積雪は奥秩父を凌ぐ。最初に目標にしたのは皇海山である。積雪期は林道が閉ざされるので皇海山に登るのは庚申山から鋸山を経由するしかない。積雪は少ないが踏跡が期待できないので、簡単に山頂を踏ませてはくれない。最初は鋸山までが精一杯で、二回目に岡田敏夫さんとようやく山頂に辿り着いた。松木沢からは更に困難であり、厳冬期の身を切るような徒渉に阻まれ、三回目にしてようやく山頂に立つことができた。

これまでに40年間、桐生から足尾山塊に通い続け、山行回数は400回を超える。その間に山は大きく変貌した。奥深くまで林道が通じ、伐採で丸裸になった山肌や堰堤の連続する渓流が至る所で見られる。中高年登山ブームで袈裟丸山や皇海山の登山口には車が溢れており、今では半日で山頂を往復できる。秘境といわれた両毛国境縦走路さえ登山地図に記載されている。

車が溢れ、人がひしめく栗原川林道からの皇海山や数百人の人で賑わう春の袈裟丸山は少年の日に憧れた山とは全く別の山のように見える。私にとって皇海山は渡良瀬川源流に仰ぎ見る遙かな山であり、餅ヶ瀬川源頭に屏風のような懸崖を連ねる袈裟丸連峰や函を連ね、大滝を秘める険谷三重泉沢こそが私にとって足尾山塊の原風景である。これまで山域に一通り足跡を印したが、隅々まで探り尽くしてはいない。足尾山塊はわが心のふるさとであり、少年の日の原風景を求めてこれからも歩き続けるつもりである。

                     (白山書房 山の本2008年春号より)

 

 袈裟丸山・皇海山と足尾山塊目次

  ◎袈裟丸山目次

  ◎皇海山ギャラリー1   増田宏
  ◎皇海山と足尾山塊(増田宏著)出版のご案内
  ◎想い出の六林班峠  増田武豊
  ◎松木沢から皇海山・庚申山  増田宏

  ◎袈裟丸山(書評)
  ◎皇海山と足尾山塊(書評)
  ◎袈裟丸山の秘境・餅ヶ瀬川源流
  ◎残雪期の石塔尾根
  ◎二子山と大難峠、小難峠
  ◎袈裟丸山南面の尾根
  ◎前日光ヒノキガタア沢
  ◎餅ヶ瀬川源流・ハンノキクボ沢とリュウゴヤ沢
  ◎蕗平沢

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