四阿山

増田 宏 

* 上信国境の四阿山(2354m)は信州側では四阿山、上州側では吾妻山と呼ばれている。『上野国郡村誌』吾妻郡大笹村には「吾妻山 頂上に吾妻神社アリ、日本武尊ヲ祀ル、養老年間創建スト云フ、信濃圀ニモ同様之ヲ奉ル、中古四阿山ト書シテ上野圀吾妻ト区別シ、当圀分ノ社ヲ上州宮ト称ス」とあり、上州側で吾妻山、信州側で四阿山と表記が異なることが記載されている。
 四阿(吾妻)山は山容が棟の形をしていることから名付けられた。東北の吾妻山、桐生の吾妻山、利根郡の吾妻耶山などいずれもあずまやに似た山の形が語源である。日本武尊が東征の帰途、妃の弟橘姫を偲んで「吾妻はや」と嘆いた伝説が山名の起源とされるが、他の吾妻山にも同じ伝説があり、付会に過ぎない。『信濃宝鑑』には「嶺上に日本武尊を斎ける東向南向きの両社あり、以って上信の国境とす、日本武尊の吾嬬者耶と宣ひしはこの地なりと云えど覚束なし」と書かれている。『信濃奇勝録』には「山頭は何方より見ても屋の棟の如し、故に四阿と名し、二祠あり、東は菊理媛命にて上州祠と云、西は伊弉冊尊を祀て信州祠と云」と記されている。祭神については日本武尊、橘姫、菊理媛、伊弉冊の諸説あり、はっきりしない。
 四阿山は約二十万年前に活動を終えた火山で、根子岳、四阿山、浦倉山を結ぶ稜線の北側がカルデラ地形になっており、爆発による山体崩壊が生じたのか北側が欠損している。的岩は四阿火山の割れ目にマグマが貫入した岩脈である。
 昔の登路は鳥居峠からの道だけで、『上野国郡村誌』には「両圀三郡ニ跨ル、大岳ニシテ登路一条、所謂鳥居峠ナル者ニシテ、麓ヨリ嶺上至ル二里十五町」と記されている。現在は四方から登路が通じている。信州側から3つ(根子岳、四阿高原別荘地、菅平牧場)、上州側のバラギ湖から2つ(茨木山及び浦倉山経由)、そして上信国境の鳥居峠から付いており、私はひととおり歩いている。
 私がこの山に惹かれるのはとりわけ冬である。白い衣装を纏った山頂は無雪期の喧噪と違って静寂で厳粛な雰囲気がする。上信の山は上越の山のように厳しい冬山ではなく、安定した天候の下で豊富な積雪の雪山歩きを楽しむことができる。初めて冬の四阿山に立ったのは三十年前のことで、2月に学生時代の仲間2人と根子岳の避難小屋に泊まって根子岳(2207㍍)から山頂を往復した。火の気のない避難小屋では寒さで一睡もできなかったが、輪かんを履いて純白の頂に立ち、冬山気分を満喫した。
 数年後の1月下旬、その時の仲間1人と四阿高原の別荘地からスキーで山頂を往復した。傾斜の緩い斜面が続くので登りではスキーが有効だったが、スキーができない私たちはシールを着けたまま下った。多少なりとも滑れたのは牧場内だけだった。
 1月下旬、嬬恋側のスキー場から二十年ぶりに冬の四阿山を訪れた。家族がスキーをしている間に1人で山頂を目指した。こちらから見る四阿山はゆったりした山容とは趣が少し異なり、痩せて鋭い山頂を覗かせている。スキー場のゴンドラが浦倉山頂(2091m)直下まで達していた。ここからスキーにシールを着けてゲレンデを西に向かい、少し登ると稜線に出た。山頂への踏跡は全くなかった。稜線はオオシラビソを主とした針葉樹林帯で、樹間が広く歩き易い。積雪は軟らかいがスキーを履いているので二、三十㌢沈むだけである。この稜線は樹林帯の上り下りでスキー滑降には適さないが、輪かんではラッセルが深く、一人では山頂まで到達できなかっただろう。スノーシューが最も効率的かもしれない。ところどころ樹木が密生している箇所があり、稜線を迂回する。最初の急斜面はスキーを履いていても膝近いラッセルで、電光型に登って切り抜けた。その後は歩き易い針葉樹林帯を快調に飛ばした。天気はしだいに悪くなり、やがて山頂が雲に包まれてしまった。風がなく帰途のシュプールが消える恐れがないので安心して進むことができた。出発が遅かったので休むことなくひたすら登り続けた。ぎりぎりまでスキーで進み、北峰直下の急斜面でスキーを脱いだ。痩せた稜線は風当たりがいいため、雪が締まっていて膝下のラッセルで済んだ。部分的に股まであったが、長くは続かなかった。北峰から先はラッセルが少なく、限界時刻の3時に頂上に辿り着いた。視界は殆どなく、上州側信州側の二つの祠が半分雪に埋もれていた。
 時間が遅いので懐かしさに浸る間もなく5分ほど休んだだけで早々に頂を辞した。下りはルート探しの苦労はなく、シュプールを辿るだけだ。シールを着けたまま下って午後5時前にゲレンデに出た。やれやれひと安心と思ったが、それから先のスキー滑降がかえって大変だった。初級コースといえども革の登山靴ではボーゲンしかできず、脚が痛くなって歩いた方がずっと早かった。誰もいなくなったスキー場を転びながら下っていたらゲレンデの巡視がやって来て訝しがった。山に登って遅くなったことを話すと、下までスノモービルで送ってくれると言う。せっかくスキーを履いているのだからと意地を張って断わり、真っ暗になる直前にやっとゲレンデを下りきった。ゴンドラ終点から登り3時間、ゲレンデ下部まで下り2時間半の強行山行だった。疲労のため脚が棒のようになってしまったが、冬の四阿山に登った充実感で心は満たされていた。 
 その後、4月に四阿牧場から山頂を往復した。すでに雪が解けており、スキーの時期ではなかった。この道が頂上に最も近いが、往復では変化が少ないので根子岳に縦走して一周することを勧めたい。秋に鳥居峠から花童子(けどうじ)を経て山頂に登り、的岩経由で周回したことがある。この道には花童子宮跡があり、花童子通りと呼ばれている。石祠を立てて道標としたことが上州・信州双方の地誌に記載されており、花童子通りが四阿山の旧参拝路(古道)だと考えられている。
 秋にバラギ湖方面から浦倉山を経由して山頂に立ち、茨木山を経由して周回したこともある。紅葉が見事で人が少なく深山の雰囲気を楽しんだが、現在は夏秋に浦倉山までゴンドラで行けるので賑わっているという。私はまだ浦倉山から先の上信国境を歩いていない。次回は積雪期に縦走してみたいと思っている。

的岩から四阿山 根子岳・四阿山の稜線を行く(2月)
山頂の痩せ尾根(4月中旬) 冬の四阿山頂

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