針ノ木岳

増田 宏 

 雄峰が連なる北アルプスにあって針ノ木岳(2821b)は山容・知名度とも近くの白馬岳や鹿島槍ヶ岳に及ばないが、その尖峰は時として槍ヶ岳に間違えられることもある。私も常念岳から針ノ木岳を遠望して剱岳の一部と見誤ったことがある。
 針ノ木岳の名は針ノ木峠に起因する。針ノ木峠は越中富山城主の佐々成政による積雪期の峠越えで名高い。東を越後の上杉、西を加賀の前田に挟まれていた越中の佐々成政は密かに同盟していた徳川家康に会うため、天正12(1584)年11月下旬(新暦12月下旬)に敵方の領地を避けて「さらさら峠」を越えて遠州の浜松城に行った。記録にある「さらさら峠」は立山の南にあるザラ峠であり、黒部川を渡って針ノ木峠を越え信州に出て遠州に向かったというのが定説になっている。近年、成政が越えた「さらさら峠」はザラ峠とは別の場所だという異説が唱えられており、積雪期の針ノ木峠越えが史実か定かではない。
 後立山連峰は針ノ木岳、蓮華岳を南端とし、稜線はいったん高度を大きく減じて再び高度を上げ烏帽子岳から槍ヶ岳に連なっている。私が初めて針ノ木岳に登ったのは二十代の頃で、白馬岳から後立山連峰を縦走して笠ヶ岳に向かった時である。この時は蓮華岳から大下りを経て北葛岳を越えて登り返した七倉岳で挫折して船窪小屋から下山した。この時なぜ計画の中間点で断念したのかは覚えていない。登り下りが激しく地味な蓮華岳・烏帽子岳間の稜線に嫌気が差したのか、日数不足だったのかのいずれかだと思う。その際に針ノ木峠から針ノ木雪渓を見下ろして次回は針ノ木雪渓を登って針ノ木岳に立ちたいと思った。それから三十年以上経ったこの6月上旬に山仲間のIさんの同行を得てようやくその計画を実現することができた。

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 大町から見る初夏の後立山連峰は目映いばかりの美しさで、田植えが終わったばかりの田園を背景に残雪に覆われた山々が高く聳えている。特に鹿島槍ヶ岳と爺ヶ岳の山容は登高意欲をそそる。爺ヶ岳からいったん高度を減じた稜線が再び高まり、大きな山容の蓮華岳を起こしているが、針ノ木岳は蓮華岳に隠れて見えない。黒部立山アルペンルートの入口である扇沢まで車で行き、針ノ木雪渓に向かう。自然歩道を大沢小屋方面に行くつもりだったが、道を誤り籠川沿いの作業道に入ってしまった。堰堤を越えるとすぐ雪渓が現れ、結果的には山腹を迂回する登山道より近道を取ったことになる。
 真夏の雪渓は痩せ細って中間にある狭い部分(のど)と上部が消失してしまうが、初夏のこの時期は長大な雪渓が峠まで続いている。殆どの登山者が本格的なアイゼンを装着していたが、私はハイキング靴の土踏まずに4本爪の軽アイゼンを着けた。雪渓の傾斜は緩いが、雪渓上には大きな石が点々と転がっており、落石には注意が必要だ。マヤクボ沢出合を過ぎると雪渓は急になり、慣れない人にはアイゼンが欲しい傾斜だ。雪渓を登り切って針ノ木峠に着いたが、4本爪アイゼンは雪が詰まって使い物にならなかった。峠の小屋(針ノ木山荘)はまだ開いておらず、小屋の前にテントを張った。
 昼食後、山頂に向かう。登った人から山頂へは急な雪面の横断があり、アイゼンなしでは危険だと脅かされたが、ハイキング靴でも雪山経験者なら全く問題のない斜面だった。峠から山頂まで殆ど雪の上を行く。4本爪アイゼンはないより多少ましな程度だったが、北海道でヒグマ対策に持参している護身用の夏山用ピッケルが役に立った。急斜面で雪面下に空洞ができている箇所があり、踏み抜いて危うく中に落ちそうになった。山頂手前で斜面を横断し、最後に急な雪面を登って山頂に着いた。雪山経験に乏しい人は針ノ木雪渓上部で分岐するマヤクボ沢雪渓を登り、スバリ岳と針ノ木岳の鞍部(マヤクボのコル)に出て夏道伝いに山頂に登るのが安全だという。往路を下って峠に戻ったが、ほかに2組のテントがあるだけでこの日は静かな夜を過ごすことができた。雲が多く、山稜が見え隠れする天気だったが、夕方から好天になって夜半は星空が美しかった。

 翌朝、起きると外に出していた靴が凍っており、鍋の水に氷が張っていた。初夏とはいえ標高2500bでは氷点下の気温になる。針ノ木岳が朝焼けに染まって素晴らしい。朝食後、蓮華岳(2799b)を目指した。蓮華岳の稜線には雪がなく、山頂まで夏道が出ている。砂礫の斜面を登ると剱岳が姿を現した。雪と岩の鎧をまとった厳つい山容は本場のアルプスを髣髴させる。水晶岳から赤牛岳、薬師岳など山脈の最奥にある山々は豊富な残雪に覆われてまだ春山の様相である。白銀に輝く立山も室堂方面から見た優しい山容と異なり、黒部峡谷から屏風のように屹立している。山頂には若一王子神社の奥宮が祀られ、昔から山麓の人々によって尊崇の対象とされてきたことが判る。
 峠に戻ってテントを撤収し、針ノ木雪渓を下る。朝は表面が凍っているので最初の急な部分は4本アイゼンを着けた。傾斜が緩くなり始めた地点でアイゼンを外してグリセードを試みたが、傾斜が緩くて滑れなかった。グリセードができるのは峠直下に限定される。雪渓を一気に下り、1時間弱で末端近くに着いた。帰りは雪渓の末端手前から踏跡に従って登山道に出て大沢小屋を経由して扇沢に下った。

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登山口から針ノ木岳遠望 籠川から針ノ木雪渓
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針ノ木雪渓 針ノ木山荘
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山頂の登り 針ノ木岳から蓮華岳
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急斜面の下り 峠から朝焼けの針ノ木岳
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朝焼けのスバリ岳 剱岳遠望
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蓮華岳の登りから針ノ木岳 蓮華岳山頂の若一王子神社奥宮
後方は立山、剱岳
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薬師岳遠望
立山遠望

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