燧ヶ岳

増田 宏 

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燧ヶ岳周辺概念図

 燧ヶ岳(2356㍍)を背景にした尾瀬沼の景観は尾瀬を代表する景色である。燧ヶ岳の噴火により只見川が堰止められて尾瀬ヶ原と尾瀬沼ができた。燧ヶ岳は尾瀬の生みの親である。現在は活動していないが、過去1万年以内に活動した痕跡があり、分類の見直しで活火山に数えられるようになった。名称の由来は鍛冶鋏(火打)の雪形から来ており、頸城の火打山と同じである。端麗な山容なので古代に開山されたと推測されるが、近代登山は長蔵小屋の開設者平野長蔵に始まる。彼は明治22(1889)年頂上に石祠を建立し、燧ヶ岳の開山者を自称していた。
 私が初めて登ったのは大学を卒業してまもなくの頃で、6月末に仲間と2人で大清水から尾瀬沼を経て燧新道を登り、ナデックボを下った。次は十年後の5月連休に尾瀬沼畔に幕営して燧新道を登り、ナデックボを下った。その後、十数年訪ねていなかったが、9月に1人で尾瀬沼から登って御池に下り、会津駒ヶ岳に縦走した。沼田駅からバスに乗ったが、私以外の乗客は全員が高校生だった。彼らは尾瀬高校で下り、その先大清水までは一人で貸し切りになった。こんな状況ではバスはいずれ廃止になってしまわないか心配だ。桐生駅を6時前に出発したが、大清水に着いたのは9時になっていた。混雑を考えるとなかなか尾瀬には出かける気がしないが、平日だったので静寂な尾瀬を初めて味わうことができた。ビジターセンター前で山頂に向けて据え付けられた望遠鏡を覗いたところ、山頂を行き来する人が鮮明に見えた。燧新道を登りだしたのは11時過ぎで、俎ー(2346㍍)頂上に到着した時にはすでに誰もいなかった。霧が去来し視界は殆どない。もう一つの山頂柴安ー(2356㍍)を往復してから御池を目指して下った。熊沢田代と広沢田代は誰もおらず、夕暮れの湿原にゆっくり浸りたい気がしたが、日没に追い立てられて足早に通り過ぎた。御池は幕営禁止なので大杉岳方面に少し登った登山道上にかろうじてテントを張った。暗くならないうちに寝袋に入ったが、薮が被さった薄気味の悪い場所のせいで殆ど眠れなかった。翌日、駒ヶ岳に縦走し桧枝岐に下った。
 その年に富士見峠経由尾瀬ヶ原から1人で山頂を目指した。他に交通手段がないので車で富士見下に向かった。富士見峠越えは尾瀬への主要な経路だったが、今はバスも通わず富士見下の山荘もない。車も他に2台だけですっかり忘れ去られた入山路だ。ブナの森の中、車両通行止めの林道を歩く。富士見小屋は立ち寄る人も少なく、ひっそりしていた。富士見峠からアヤメ平を往復したが、破壊された湿原の修復工事が行われていた。峠から長沢新道を竜宮に下り、見晴の野営場で幕営した。テントは十張に満たなかったが、山小屋は連休のため混んでいた。翌朝、明るくなると同時に見晴新道から燧ヶ岳を目指す。樹林帯の単調な登りが続く道だ。早朝のため殆ど人は見かけない。温泉小屋からの道を合わせると間もなく柴安ー山頂だ。山頂には他に誰もおらず、霧が去来する合間に尾瀬ヶ原が見渡せた。下山は温泉小屋への道を採った。この道は更に歩き難く、下の方はまるで沢の中を歩いているようだ。テントを撤収し、帰路は八木沢新道を経由して富士見峠に登った。油断して気が緩んだのか、林道を下っていてちょっとよそ見をした瞬間に横断側溝につまずいて転倒し、右手を側溝の鋭利な縁でざっくり切ってしまった。傷が深いのでなかなか血が止まらないうえに易しい山と甘く考えて救急用具を持っていなかったのは失敗だった。なんとか車を運転して桐生に帰り、医者に駆けつけたが、縫い合わせなければならない傷だった。
 その後、大清水まで道路が開通した直後の4月下旬に1人で山頂を目指した。三平峠の登りは残雪で夏道が判らないので冬路沢を登った。まだ凍っている尾瀬沼をまっすぐ横断して斜面に取り付き、燧新道を目指した。尾根上は一面残雪が覆っており、道は出ていない。ミノブチ岳を過ぎたあたりで登山者数人に追い付いた。俎ー山頂に着いたのは午後2時近くになっており、休む間もなく慌てて下山した。大清水に戻ったのは夕闇が迫る頃で、残雪期の日帰りはかなりの強行軍だった。残雪期の尾瀬沼から望む燧ヶ岳の姿は実に美しい。次回は沼に幕営して朝夕の荘厳な姿を見たいと思っている。

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尾瀬沼から
沼尻付近から
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大清水平から
柴安ーから俎ー
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俎ーから柴安ー
山頂の石祠(明治22年建立)
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御池からの登山道
俎ーの登り(5月上旬)
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俎ー山頂 後方は柴安ー(5月上旬)
春の尾瀬沼(4月中旬)
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尾瀬沼から燧ヶ岳(4月中旬)
燧ヶ岳山頂から尾瀬沼(4月下旬)

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