羊蹄山(マッカリヌプリ)

増田 宏 

 羊蹄山(1898㍍)は北海道南部に聳える成層火山の独立峰で別名蝦夷富士とも呼ばれ、端正な円錐形の山容をしている。日本各地の○○富士と呼ばれている山の中で最も本家の冨士山に似た麗峰であり、雪をまとった積雪期はとりわけ美しい。
 1万年以内の活動実績があることから最近、活火山に指定された。山頂部には主たる火口のほかに小さな火口が2つあり、それぞれ父釜・母釜・小釜と名付けられている。この山の名称について羊蹄山は略称で正式には後方羊蹄山(しりべしやま)というのが通説になっている。その内容を要約すると次のとおりである。
 本来の名称はシリベツ山であり、その宛字として『日本書紀』記載の地名「後方羊蹄(しりへし)」を用い、その後、後方羊蹄山の後方を省略してヨウテイと音読みした。後方を「しりへ」(後ろの意)、羊蹄を「し」と読む。羊蹄とはぎしぎしという草の漢名で、日本では昔はぎしぎしのことを単に「し」と呼んだ。そこで羊蹄と書いて「し」と読ませた。
 結論から言うと、この通説は誤りである。後方羊蹄(しりべし)の後方を省略してヨウテイと音読みしたのは正しいが、本来の名称シリベツは誤りである。本来の名称はマッカリヌプリであり、シリベツは隣接する尻別岳の名称である。また、シリベツに日本書紀の「後方羊蹄」を宛てたのも誤りである。以下にその論拠を示す。
 羊蹄山麓には尻別川が流れ、尻別岳や尻別の地名があり、江戸時代には尻別川河口部一帯をシリベツと呼んでいた。このシリベツを日本書紀にある後方羊蹄と考えたのは新井白石である。白石は1720(享保5年)年発刊の『蝦夷志』で『日本書紀巻第二十六斉明天皇』(7世紀半ば)記載の阿倍比羅夫による蝦夷征討の地を北海道と考え、地名の「後方羊蹄」を羊蹄山麓のシリベツとした。そして、後世になってシリベツ山が後方羊蹄山と表記された。
 日本書紀の研究者によれば後方羊蹄はアイヌ語のシリペツ(シリベツ)から来ているらしい。ペツ(ベツ)は川で東北・北海道にはこれに語源を持つと見られる「○○ベツ」の地名が数多くある。七世紀後半のヤマト王権(大和政権)と蝦夷支配地域との境界は宮城県北部から山形・新潟県境を結ぶ線付近と考えられており、阿倍比羅夫の遠征は隣接する東北地方北部がその対象であると考えるのが自然である。蝦夷地(北海道)が文献・記録に明確に登場するのは中世以降であり、阿倍比羅夫は北海道まで行っていないと思う。単にシリベツを『日本書紀』に記載されている後方羊蹄に新井白石が附会したに過ぎない。
 アイヌの人々はこの山をマッカリヌプリと呼んでいた。この名称は羊蹄山麓を流れる真狩川や真狩の地名に今も名を留どめている。それではなぜマッカリヌプリがシリベツになったのだろうか。
 幕末の蝦夷地探検家松浦武四郎が1857年(安政4年)に蝦夷地を踏査した際の日誌『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』中の第十九巻「報志利邊津日誌」にシリベツ岳の記述がある。それによると、シリベツ岳を発音が似ている後方羊蹄(シリヘシ)へ附会したと明記している。アイヌがシリベツ岳と呼んでいるのはピンネシリ(雄岳)であり、羊蹄山についてはマッカリヌプリ又はマチネシリ(雌岳)と呼んでおり、和人が尻別(シリベツ)岳の名をマッカリヌプリに移して呼んでいたと記載している。
 江戸時代後期の旅行家である菅江真澄の紀行『えぞのてぶり』の中にも同様の記述がある。この紀行は1791(寛政3)年のものである。同紀行中に「しりべつのたけごんげん」と彫ってある円空仏の記述がある。円空が蝦夷地に渡ったのは1665(寛文5)年頃とされているのでこの頃すでに和人がシリベツ岳の名を用いていたことが分かる。
 以上、シリベツが日本書紀にある後方羊蹄だとして尻別岳の名をマッカリヌプリに移して後方羊蹄山と表記した経緯を記した。
 マッカリヌプリこそこの山の正式な名前である。因みに山頂にある一等三角点の点名は真狩岳であり、マッカリヌプリに当て字をしたものだろう。繰り返すが、羊蹄山は後方羊蹄山と誤記されたことから生じた名前だが、シリベシ山は古来の由緒正しい名前ではなく、通説の後方羊蹄山(しりべしやま)は誤りである。
 しかし、羊蹄山(ようていざん)の名は定着しており、いまさら元の名(マッカリヌプリ)に戻すのは難しいだろう。羊蹄山は仕方ないにしても後方羊蹄山(しりべしやま)と呼ぶのは最低限やめるべきである。
 羊蹄山の登頂記録は松浦武四郎によるものが最初だとされていた。彼は登山家としても知られ、諸国の名山を踏破している。蝦夷地探検の際にもいくつかの山に挑み、登頂記を残している。蝦夷地探検記録として公刊された「東西蝦夷山川地理取調紀行」には羊蹄山、阿寒岳、石狩岳(現在の大雪山)などの登頂記が載っており、これまで事実とされてきた。近年になって武四郎の調査記録「東西蝦夷山川地理取調日誌」の存在が判り、この日誌から武四郎の研究家秋葉実氏により羊蹄山には登っていないことが明らかにされた。
 公刊本の「後方羊蹄日誌」では安政5(1858)年2月4日(新暦3月18日)に羊蹄山に登っている。後方羊蹄日誌の登山記を要約すると以下のとおりである。
 2月2日に雄岳(尻別岳)の下に達してそこに祠を置き、木幣を捧げてから雌岳(羊蹄山)の登攀にかかった。3日は二合目に泊まったが、寒さで巨樹が凍裂して地震のようで終夜眠れなかった。翌4日の未明に出発して四合目で日の出となった。風は刀のように顔面を打った。六合目で樹林帯を抜け、八合目からいよいよ険しくなり、午後ようやく頂上に達した。頂上は富士山のように窪んでいて周囲が一里半ばかりある。冬はその凹地に熊が冬眠しており、現地人は春を待って熊を獲るという。自分が登った時は帰りを急がされたので1頭も獲ることができなかった。
 この記述から武四郎は積雪期の羊蹄山に登頂したと考えられていたが、後に存在が明らかになった調査日誌の行程からこの登頂記は真実でないことが判明した。安政5年の調査記録戊午東西蝦夷山川地理取調日誌第一巻「東部作発呂留宇知之誌」によると、武四郎は2月3日にウス(有珠)会所に泊まり、4日にアブタ(虻田)へ向かっている。このことから羊蹄山登山は創作であることが判る。また、登山紀行の部分のみ漢文で書体が異なっており、頂上の凹地に冬眠している熊を時間がなくて獲れなかったなど荒唐無稽な記述からも事実でないことは明白である。武四郎は登山家として羊蹄山に興味を持ったが、おそらく冬期の登頂が困難で果たせなかったので伝聞から登頂記を創作したのだと思う。登路の描写や頂上の地形、熊の話などはアイヌの人からの聞き書きだと推測される。
 また、日本にスキーを伝えたオーストリアの軍人フォン・レルヒ少佐が積雪期に登頂した記録がある。レルヒ少佐は1910年に交換将校として来日し、高田滞在中にスキーを伝授した後、旭川師団に派遣され、1912年4月に羊蹄山に登頂し、スキーで滑降している。
 登山道は比羅夫・真狩・喜茂別・京極の四方から付いている。山頂付近には小屋があり、夏季は小屋に泊まって日の出を見る登山者が多い。

 私が初めて登ったのは二十数年前のことで夏に1人で真狩口から往復したが、中腹から上は霧で何も見えなかった。次に登ったのは5月連休で、半月湖畔で幕営し、翌日、妻と2人で比羅夫口から往復した。強風が吹き付けて雪面が硬く凍結し、アイゼンが効いて爽快な登高だった。それ以来この時ほど快適なアイゼン歩行は経験していない。ほかには誰もおらず、真狩口の山頂に1組見えただけだった。強風のため休む間もなく下山した。3回目は5月連休に1人で真狩口から往復した。この時は雪が腐って潜り、快適な登高にはほど遠かったが、スキー登山の人が多いのが意外だった。真狩口は南面に位置するため季節風の影響が少なく、積雪期では最も登り易いという。
 4回目は5月連休に1人で京極口から往復した。この時はフリーベンチャーという短いスキーを履いて登った。通常のスキーの半分ほどの長さで昔流に言えばゾンメルシー(夏スキー)である。七合目付近まで着けて登ったが、下る自信がなかったので途中に置いて登った。頂上には誰もおらず、お鉢(火口)の中は一面の雪原になっていたが、火口縁の岩稜は出ていた。京極口頂上近くに三角点(1893㍍)がある。ここから喜茂別口頂上近くの最高点(1898㍍)を往復してから下山した。雪が柔らかくなっているのでアイゼンの必要はなかったが、私の実力では頂上直下の急斜面をスキーで下るなどとうてい不可能だった。七合目で回収したスキーを背負って下り、斜面がようやく緩くなった六合目付近からスキーを履いて下った。斜滑降とキックターンを繰り返して下ったが、スキーなしで直下降した方がよほど早い。下山後、登山口から見上げた山頂はつい先ほどまでそこにいたのが信じられないほど高く聳えていた。

羊蹄山遠望(右は尻別岳) 羊蹄自然公園(真狩口)から
京極方面から 真狩方面から
急風が吹き荒れる山頂 強風が吹き付ける御鉢
京極口から山頂 最高点から三角点方面
春の御鉢(京極口山頂から) 羊蹄山最高点

 5回目は唯一足跡を記していない喜茂別口から登り、山頂近くの小屋で一夜を過ごした。喜茂別口の道は最も登る人が少なく、夏の最盛期にもかかわらず、往復で2〜3組の登山者に会っただけだった。ほかの3つの道は通行が多いため、道が抉れて岩が剥き出しになっているが、この道は表土が削られていないので歩き易い。九合目まで標識が全くなく、どこを歩いているのか判からなかったが、九合目で森林限界を抜けると視界が開けた。色とりどりの高山植物の花が咲き乱れ、今までにない羊蹄山の魅力を知った。過去4回は日帰りで山頂を往復したが、初めて小屋に泊まり、小屋番の近藤さんや同宿の人たちと歓談し、山の明け暮れを楽しんだ。一夜を過ごしたことによってこれまでになく羊蹄山の魅力を味わうことができた。

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夏の御鉢(父釜) 御鉢を囲む稜線(夏)
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九合目にある羊蹄山避難小屋 羊蹄山避難小屋

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