有子山(出石)

*少し遠出をした折にいくつか西の里山を歩いてきました。しばらく上州を離れた記事が続きます。
まずは兵庫県豊岡市出石の有子山。戦国時代に勢力を誇った山名氏の城があり、秀吉に攻められて落城しましたが今も広範囲に石垣が残って国の史跡になっています。山名氏の最初の城があった此隅山が”子盗み”に通じるところから、新たに城を設けるこの山は有子(ありこ)山と名づけられたといい、ほんとにわが国は言霊の国というか駄洒落の国というか。

出石川のほとりから見上げる山容はなかなか険しく大きくて、秀吉、けっこう攻めあぐねたのではないかしら。戦国の世が終ればそれまでの平地の居館が出石城となり、その平城城址脇、稲荷神社の鳥居が続く石段から登り始めます。
石段が尽き登山口の標識に従って入る山道は広々と踏み固められ、山城のあった頃の本来の登城路は右側の谷沿いにあって急峻なため現在は通行不可ですが、こちらの尾根通しの道もけっこう急傾斜で、木枠の階段がずっと続く脇にはロープが張られています。鬱蒼と茂る古樹は常緑樹が多く、冬は雪が多いせいか張り出す根や幹もがっしりして根本が曲がっているものが見られます。
すぐに小さなお地蔵さまの石像を過ぎ、出石にはなぜか地蔵菩薩がたくさんあって谷山川沿いでも城下町の名残濃い下の道脇でもこの登山口にも大切に祀られていました。白く塗られているものも多くこれは化粧地蔵と呼ぶそうです。

木枠段の道は真直ぐに延々と続き、最初の堀切の先は”獅子の逆落とし”なんて凄い名があり、筆者は旅するときは実に貧乏性で常になく早朝から登り出したので誰もいない山道で思わず口汚く急傾斜を呪ってしまいました。
ところどころに標識はありますが、しっかりした道が続くので迷いようはありません。道は緩やかに右に折れ、尾根から外れれば楓の若葉を縫って一気に明るくなり、眼下には小さくなったかつての城下町の屋根がちらちらと覗きます。

水の手を過ぎて谷沿いの登城路と合わされば空が広がり、道は葛籠に折れて、山城ファンならたまらないだろう古い石垣の曲り輪を右に左に登ります。そのそれぞれに説明板がないのが、まあたくさんあるので煩雑なんでしょうがいっそ潔い。もっとも無知の筆者にはどれも同じに見え、後でパンフレットを眺めて矢穴に気づかなかったのを悔しがったりもいたします。
踏み跡を少し大回りして大堀切から右手千畳敷に寄って、左の頂上部へ到着。どちらも広々と平坦で葉を広げた蕨に覆われているのに驚きます。こちらのみなさんは余り食べないのかしら、勿体なや。
土塁と大きな石垣が残る山頂には案内板と三角点、鯉のぼりが風を孕み、東屋では小さなお子さんを連れた若いお母さんがお弁当を広げてらして、車で上がれる道があるのでお天気のいい日曜日にはときどきここで朝ご飯を食べるのだとか。まあなんと優雅で羨ましいこと。お子さんに下から歩いて来て凄〜い、なんて誉められましたがこんな風に吹かれて朝食を摂るあなたの方が凄いです。

水分だけの携行を憐れまれたのかお裾分けをいただき、見下ろす出石は中央に青々と出石川が空を写し、水を引いた田も空の色、正面遠くに来日岳の三角錐を頂点に山影が黒く翳って、手前には小さな里山が層をなし、直下の出石の町は碁盤目に瓦を揃え、おふたりを見送ってからも見飽きずに長々と寛いでしまいました。
桐生はもちろんそうですが、日本全国きっとほとんどの町がやまの町、どの山もどの道もこうやって歩かれて天辺に佇むひとがいると思えばなんだかしみじみとするじゃありませんか。とはいえ本日はもうひと山歩く予定。重い腰を上げて下山にかかります。

登った道は下れば早い。特に急登だったあたりはロープを掴んで一気呵成。途中何組か上がってくるハイキング姿の方々と挨拶を交わし、下の城址と諸杉神社をそぞろ歩いてもまだ午前で、旅の筆者は普段の筆者とは別人でござるのでござる。
ほほほ、次へ参るぞよ。

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出石川から見る有子山(手前)
お稲荷さまの鳥居を次々に潜って
石段が終れば登山口
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一直線に登る お地蔵さまがいらっしゃる 急登です
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たくさんの石垣が残る 三角点・正面遠くに来日岳 見下ろす出石の町並

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