寄稿

秋の日暮れの物語

 かあさんがどこかに行ってしまってからあたしは神楽岡で歌ったり、花を摘んだり、向かいに聳える如意が岳を眺めたり、ひとりで狩りをして暮らしている。瓜生山に住んでるおばさんが、変な節をつけて「新京楽平安楽土万年春」なんて唄いながらやって来たので、それはなんの唄って聞いたら、都の唄だという。都とは川の向うで随分前からどやどやと人が動いて、川の流れまで変えて造っている賑やかな所の名前らしい。おばさんはいつもふわふわしてて、言ってることがどこまでほんとかは判らないが、かあさんととうさんは昔は川の向こうにずっと住んでたそうで、都をあそこに造らなければあたしはこの山では生まれなかったそうだ。
 お月さまが出る頃にここは木々の葉っぱの影が重なりあい、尾花の匂いや、ふじばかまのいい匂い、かえでや櫟の葉っぱがぱらぱら落ちる音や、きりぎりすやくつわ虫の声が満ちて、胸がきゅっと痛いようなさみしい気持ちになるのだけど、川の向こうはたくさん建った家の窓にちらちら明るい灯が見えて、風に乗ってわやわやと騒がしい気配がやってくる。あそこにいればこんなに切なくて震えたりせず、眠れない夜もどこか浮かれて楽しいような気がする。

 暗い山道でぴょんぴょん木の影を踏んで遊んでいたら、かあさんがいた頃から時々魚を持って来てくれるおじさんが、あたしをじろじろ見ながら、おまえはまだ小ちゃいから子供は産めないかなぁ、なんて言うのだけど、あたしは子供なんか欲しくない。かあさんは歳をとってあたしを産んで身体がすっかり弱くなって、それでもいつもあたしにご飯を食べさせるために苦労して、どんどん痩せていったんだもの、そんな可哀相な目にはあいたくない。そんなつまんないことばかり言ってないでおじさん、あたしの化け方を見てよ。こうやって人間の女の人に化ければ都に行けるかしら。おまえはほんとに子供だな、かあさん譲りで化けるのは上手だが、ちらちら尻尾も見えてる。そんないい加減な化け方で都なんかに行ったらとうさんみたいに人間に殺されちゃうぞ、おじさんがもっといい呪文を教えてやるから早く大きくなって俺の子供を産めるようになれ。おじさんは難しい字が書いてある真っ赤な蔦の葉っぱと、小さな魚をくれた。
 字は無理に読んではいけない、ただじっと見つめているときっと声が出てそれが呪文だとかあさんが教えてくれていたのであたしは毎日字を眺めていた。ある日、細い月が茜色の空で白く光り始める日暮れに息が苦しくなるほど眺めていたら、思わず高い声が出た。そしたらあたしは今までで一番きれいな、唐花文の袿、萌黄の裏地の蘇芳の唐衣と濃い桔梗色の裳をつけた、人間の女になっていた。手のひらでそっと撫でてみると尖った鼻もすんなり伸びているし頬も唇もしなしなと柔らかで、義髻に結われた髪はさらさら肩にかかって少し伽羅の匂いがする。お尻に手をやってみたけど、勿論尻尾は消えている。
 浮き浮きして暗い山道をずんずん下りてどきどきしながら橋を渡った。川の側は家も小さく少し薄暗いのだけど、まっすぐ延びた道をそろそろ歩いて行くと大きな建物がたくさん囲われた場所があって、そこにはあまり人はいない。一番大きな門を背に広い通りのずっと向こうに篝がいくつも焚かれていて、空気がもやもや暖かそうなので、そちらへ歩く。広い通りには人がだんだん増えてきてなんだかわくわくする。

 少し歩いた所で後から柔らかな響きのいい声をかけられた。振り返ると藍の狩衣に身を包んだ若い男があたしをまじまじと見つめている。太い眉が凛々しくて細く切れた目が黒々と輝き、ちょっと厚めの唇がもの問いたげに窄まっている。その一生懸命見つめてくるまなざしにどぎまぎしながら、問われるままに名のり、男の名を告げられ、しばらく共に歩くことにする。
 冗談を言いあいながらあたしはころころと自分でも驚くほど笑う。たくさんの物売りが立っている市で男は紅い珠のついた髪飾りを求め、あたしの髪に挿してくれる。きらきらと空気まで輝いて何を見ても楽しく酔ったような気分であたしは少しのぼせている。住まいを聞かれ思わず神楽岡と答えると男は、あんな遠くて寂しいところにと眉を顰める。確かに都は賑やかで楽しいけど、山の中にも花の蕾が開く密やかな音や苔の匂い、月光に照らされて暗く輝く木の葉の一瞬の光沢とそよぎ、楽しく美しいことはたくさんある。あたしは少しむきになって次々と山のよさを語る。溢れてくる言葉にいちいち生真面目に頷く男が面白く、なんだか愛しい気持ちになる。
 月が中天にかかり、帰らねばと呟くと、そなたのような楽しい女は初めてじゃ、契ろうぞ、契りたしと男は熱く耳元で囁く。あたしはくらくらと目眩がするようで、頭がぱんぱんに膨れてゆく。でもかあさんはいつも言っていた。人に化けるのはいいけれどどんなことがあっても契ってはいけない、ましてや子を生してはいけない、相手がきっと命を落とす。
 君の情けはありがたけれど、契れば君は死んでしまいます。一夜の激情、仮初めの衝動で命を失ってはなりません。あたしは大人ぶって優しく男を諭す。なにを戯けたことを、男と女の間に理などない、この切なさに耐えることなどできはしない、もしや命を落とそうとそなたと契りたい。なんの今夜初めてお会いしたばかり、明日になれば君の心地も落ち着いて道理や自分の愚かさがきっとわかりましょう。いいやそなたと契るのはきっと前世からの決め事、いままで恋もしたけれどこんな気持ちは初めてじゃ、今宵一夜の契りとは言わぬ、この想いを哀れと思いでは明日もきっと朱雀門で逢おうぞ。男は橋まであたしを送りながらかき口説く。明日を約して幾度も振り返りながら戻る男に袖を振って、あたしはちょっと男の元に駈けていきたい気持ちになったのをじっと堪える。朝になれば男は醒めて今夜のことを恥じるだろう、それはなんだか切なく口惜しいけど、男のためにも我慢する。

 次の日暮れ昨日よりもっと心をこめて赤い蔦の葉と向き合ってまたあたしは人間の女に化けた。貰った髪飾りを挿し、男がいないことを半分祈り、男がいることも半分祈り、あたしの心は乱れている。とくとく高鳴る胸を押さえて小走りに橋を渡り、それが朱雀門だと教えられた大きな門に近づくと、男が駆け寄ってくる。約した時間まで千の秋が過ぎた思いぞ、来なければ神楽岡へ捜しに行こうと決めていた、また逢えて嬉しや。男はあたしの手を取って泣くような声で語りかける。あたしも胸が詰まってもう目がうるうると濡れ、男の腋に頭をぐいぐい押し付けて狩衣の日向くさい匂いを懐かしいような気分で嗅ぐ。
(続)

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