山の紀行

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*ひとつくらいは山の天辺へ立ちたいと思って予定していた黒味岳。
予定の日はこの季節には珍しいという雪と強風で、一日ずらした日は真っ白な霧の世界。愛子岳やモッチョム、あるいは太忠岳なども考えたのですががむしゃらに頂上を目指すより何といっても彷徨うように歩きたい。雪が残っていれば諦めることにしてとりあえず黒味岳に向けてまだ月の冴える明け方に宮之浦の宿を出発します。本日も一緒に歩いてくださるのは白谷雲水峡を案内してくれた若いお嬢さん。今日は大きな重そうなザックを担いでいて、借り物のハイキング用の小さなザックの自分が恥ずかしい。但し足元はやはりホテルで借りた高級登山靴です。
九州最高峰の宮之浦岳を筆頭に1000m超えの山が40座もある屋久島。宮之浦や安房の観光案内所や宿では雨具や登山靴やザックなどを貸してくれるので着替だけ用意すれば何とかなると聞いていましたが、毎日歩くには洗濯が忙しい。しかもぱっぱらぱ〜のお気楽筆者は南の島と甘く見て、半袖や薄いジャンバーを中心に持って来ているので慌てて登山用品屋さんに走って長袖シャツなど買い込みました。

安房から一時間ばかり山間の道を走って淀川登山口に着く頃にはすっかり夜は明けましたが雲が低く流れて、ときたま右手に太忠岳頂上にすっくりと塔の如く聳える天柱岩が見えたり隠れたり。薄い土が雨に流され風に吹かれ、この島のほとんどの山の天辺あたりは岩がむき出しで、荒々しい山の骨格を露にしてそれぞれ見応えがあります。
登山口には既に何台も車が停まり、宮之浦岳を目指すひと、永田岳へ縦走するひと、途中の黒味岳までのひとやもっと手前の花之江河湿原までのひとたちがストレッチなどをしていてなかなか賑やか。昨日は湿原あたりまで真っ白に雪が積もったそうで、地元のガイドの方たちにもこの季節としては珍しい光景だったようです。

山道は筆者好みの緩やかな登りで、両脇には鮮やかな新緑に交じって杉や檜や栂の大樹がどっしりと空へ向かって梢を伸ばしています。もう少し下のヤクスギランドの高度あたりが杉主体の森で、かつては伐採も盛んだったらしく切株がたくさんあるそうですが、神おわす奥岳に続くこの高さになると屋久杉の数は少なくなり、伐られることもなく長い時間に耐えていて、苔を纏い、枝に芽生えた他の植物の根を這わせ、どの樹もとても貫禄があります。
岩と根の間を縫う道はよく踏まれていて標識もいい具合につけられ、迷うことはなさそうですがひとりで歩くと緑と大樹の木肌に酔ってあらぬところへ誘われてしまいそうなほど静かで、下界とは別の甘やかな空気がさわさわと流れています。

ガイドのお嬢さんのしっかりした足取りについて大きな岩の間を抜け、その岩をがっちりと抱く杉の根の強さに感嘆し、見上げても視界に収まりきれない梢の高さを目で追い、小さな木苺の花に喜び、優雅に舞う黒揚羽に思わず声を上げ、一歩一歩飽きることがありません。
仕事でもこうやって山を歩き、お休みの日は少し道から逸れた森の中でコーヒーを淹れぼおっとしたり、カヌーを漕いだり、沢を登ったりして過ごすというこの方の暮らしが羨ましい。尤も筆者なら一度逸れたら道には戻れないし、カヌーはすぐ転覆するし、沢では滑って転ぶでしょうが。
軽いアップダウンを繰り返す内に道はいよいよ世界遺産の領域に入り、その標識を過ぎてすぐに澄みきった水が空を写す淀川のそばの淀川小屋へと。ちなみに屋久島では「川」や「河」は「ゴウ」あるいは単に「ゴ」と読むことが多いそうで、「ヨドゴウ」に「ハナノエゴウ」と発音します。水量が豊かで澄みきったこの沢を遡上するのはとても爽快で楽しいのだそうで、確かにYNACさんのビデオで見る沢登りは魅力的で、ああ、もう少し若い頃にちゃんと身体を鍛えておけばよかった。

小屋でひと休みの後歩き始める道は今までよりいくらか傾斜を強めますがそれでも筆者が大好きな緩やかなカーブが続くだらだらしたアップダウン。水が近いからか色鮮やかなヒメシャラの若木がくねくねと枝を伸ばしているのはわりと近い時期に斜面が崩れた場所だそうで、まず最初にこのヒメシャラや椿が根を張るのだとか。古木が倒れた後の明るい場所には杉の若木も沢山伸びていて、さてこの若い木のうちのどれが数千年の時間を重ねることができるのか。千年単位でカメラを据えて、それを早回しで見たい気がします。
木の階段や真黒な玄武岩が敷かれた道を歩く内に遠景はすっかり霧に包まれ、それでも一瞬左手に高盤岳頂上の豆腐岩が眺められて、この厳つい四角の大岩を頂く山から北東へ続く稜線が奥岳と呼ばれる1800m前後の屋久島の山岳の中心部になります。道の両脇や斜面の窪みには昨日の雪がいくらか残り、この奥岳の高さは北海道の気候とほぼ一緒で、麓の亜熱帯・中層の杉の森・高層の森林限界を越えた自然、小さな島に列島が全て詰まっているわけです。

次のピーク右手には本来なら北側に湿原とその向こうの黒味岳の眺めを楽しむ大岩があるのですが今回は真っ白な霧しか見えず、東側にほんの一瞬通称おにぎり岩の立つ小さなピークを眺められただけでしたが、踏ん張る大岩の高度感と霧の流れに見え隠れする真っ白に晒された大きなゴヨウマツたちの立ち枯れた姿だけで大満足。神秘的で玄妙な景色でした。
ひんやりした薄霧の中、灌木を縫って降り立つのは小花之江河。霧を写して淡々と光る水面と黒く滲む大樹の姿に思わずため息。言葉なんか出てきません。

もう一度緑の間を緩やかに登って下ればより広い湿原の花之江河。片隅に木道が作られた湿原は水を光らせながら霧の中に溶けています。水辺の淡い緑は地藻類の仲間かしら、鹿が一頭黙々と口を寄せていて、屋久島は驚きに充ちた島ですがこの鹿や猿と人間の距離感もそのひとつで、すぐ側でお昼の用意を始める筆者たちを一顧だにせず一時間近くこの鹿は地面の草や藻を食べていました。幾度か目にした猿たちも車を避けるでもなく、ましてやひとの食べ物を狙うこともなく、植物たち相互の関係も、動物とひととの関係も、そして里を歩いて実感したひとと神の関係も、共生というに相応しい円やかな形で残っている素敵な場所だと思います。
けれどもそんな七面倒なことよりまずはお昼!
案内してくださったお嬢さんのザックからはバーナーが現われ、うどんが取り出され、大きな掻き揚げが出現し、コーヒーセットが良い匂いを放ち、あげく特大のポットまで出て来て、寒くてお湯が沸騰しないかもしれないので用意したと聞けば少しの風の冷たさなど吹き飛んでしまいます。なによりも暖かいものの嬉しいこと!

霧の深さをよいことに深々と食後の煙草まで楽しんで、ゆったりとした時間が過ぎていくのが快い。下って来た方にお聞きすれば黒味岳への道はいくらか雪が残り、一面霧で視界は全く開けないとのこと。天辺看板に少し心は残りますが、この湿原にいただけですっかり満足もしていて、山頂はきっとまた登りに来ようと決めて来た道を戻ることにしました。
木道脇には小さな石祠と石塔があって、脇には「疱瘡退散」の文字が読めます。島では疱瘡が流行らなかったと聞いたので恐い病いを防いでくれた奥岳の神さまへの感謝のための祠かしら。錆びた鳥居と苔むした屋根を愛で、再訪問を誓って手を合わせます。

来るときには気づかなかった小さな苔の花や蛙の卵、肉厚なのに明るく陽を透かす花のようなヤマグルマの葉っぱ、特徴的な形をそれぞれに持つ大きな樹木たち、ひとつひとつを目に刻みながらゆるゆると帰る道は寂しいような切ないような。幾度も振り返って景色を惜しめば、樹影が霧に黒く溶けてだんだん道が閉ざされていく。きっと又来るとしても、この時間とは一期一会なんだと実感します。
これから登ってテント泊りという方幾人もとすれ違い、このコースもとても人気があるそうで、シーズンになれば淀川口から宮之浦岳を経て縄文杉を見て荒川口へ日帰り、なんて強行軍もあるそうだけど、やはり筆者はふわふわと夢見るように歩きたい。

道路脇の紀元杉にも寄ってぺたぺたと執拗く触り、仮にも一緒に歩いた仲、なんだかすっかり打ち解けたガイドのお嬢さんとお喋りにも耽り、宿に着く頃にはもう薄紫に夕暮れて、波の音が優しく耳に馴染んで今夜も月が綺麗です。

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淀川の登山口
歩き出しは緩やか
明るい緑の中大樹が点々と
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色んな木が着生している
淀川・美しい沢です
よく手入れされている道
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木の根の道を登る
水で崩れた場所もある
歩いても歩いても飽きず
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ヒメシャラは光と水を好む
一瞬見えた通称おにぎり岩
だんだん霧が
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小花之江河
前日の雪が残る
古樹と若木
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要所にはしっかりした標識
花之江河の石祠
すぐ近くにヤクジカがずっと
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振り返れば霧の中
白骨樹と呼ばれる朽木
どの樹にも表情がある
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おわかりだろうか、根元にいる人
可憐な苔の花
見飽きない樹木のそれぞれの形
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どれもが森の王
紀元杉・根元近く
紀元杉は縦でも収まりきれない高さ

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