御嶽山〜吾妻山〜白龍神社

*どうも石像探しにはずみがついてしまいました。
吾妻公園のそばに200mほどの御嶽山があり、吾妻山から青葉台に続く稜線を中程で堤に下れば御嶽白龍神社がある。今回はこの御嶽をふたつハシゴして、ついでに吾妻山にもちょいと登ってみました。
今年最後の山行なので、コースの短さのわりに長い記事になりそうな予感。

一 岩山を攀じれば神仏犇めき
吾妻公園の駐車場であにねこさん、桐生みどりご夫妻と合流して御嶽神社の石段を目指します。石段下で敬虔な信者の方でしょうか、深く礼をして柏手を打つ方がいて、無作法な登山者は恥ずかしいのでしばらく待つ。この方、石段途中から現われる数々の石像・石碑に丁寧に礼を尽くしながら登って行かれるのでひたすら感心しながら見守ります。上の社殿前でも常住の管理の方が落葉を掃いていて、この御嶽神社はまだまだ篤く信仰されているのだとわかります。

石段途中に大山祇命などの石碑、千手観音像、稲荷社、小さな祠、霊神碑の数々。登り着いたところに10本の手をもつ菩薩像、右手の高い所には三十六童子の石碑が整然と並び、その先に二童子を従えた不動明王が真っ赤な炎を背負って立っています。見上げれば、これも赤く塗られた炎を背負った愛染明王や三座神、衣冠束帯の座王大権現の右に八海山大頭羅神王、左が三笠山刀利天宮でしょう。
最初はメモ片手に刻まれた年号や寄進の人名など読んでいたのですが、神仏の余りの多さに早々に書き記すのは諦めて、神社に手を合わせた後右手の岩に登りたくさん並んだ石像を拝見します。
愛染明王は愛の神、「結婚成就」などの立て札があり、少し長めに手を合わせて来世のこともお願いしましょう。裏には紺屋職人中と彫られ、ここでは「愛」より「染」の方に重きがおかれていたのでしょう。安政の年号が読み取れ、藍壷にリボンを結んだような台座の上の憤怒相、織物で栄えた桐生にふさわしい石像です。

頂上を目指して道のない岩の急斜面を枯葉に埋もれながらよじ登れば、岩屋の先の岩上に大きな不動明王、その右手には普寛行者が落葉に温々と埋まって微笑みながら端座している。他にも石碑があちこちに散らばり、見下ろせばすぐ下に町並みが霞み、八王子丘陵が煙っていて高度感もなかなかの面白い山です。
町のすぐ裏山に古くからのこんな信仰の場があることは、信者の方以外ほとんど知らないのじゃないかしら。頂上には二つの石祠があり、余り踏まれていない道を下へ辿れば吾妻山の登山道に合わさります。

二 吾妻山に人の往来頻繁なり
代表幹事は書かないと宣言していましたが、吾妻山には幾度も登っています。
ただこのメインの登山道は余り好きでなかったようで、下山に使うことはあっても登路にしたことはなかった。
なにしろ行き交う人が多い。本町通りよりひとが歩いているような気がします。歩くだけでなく、走っているひともいる。トンビ岩のあたりと頂上直下はかなり急登ですが、まあ健康志向の方には町からすぐ登れてもってこいのコースかもしれません。固く踏まれた道、本日も前からも後からもたくさんの人に出会いました。

頂上にはどっしりした石祠があり、吾妻耶神社だとか。ご祭神は日本武尊と桐生市史にあるけれど、鳴神山では古事記の倭建命を使い、こちらでは日本書紀の日本武尊を使うのは何か深い意味があるのかしら。
この神社は上野国志に採録された桐生の神社五つの内のひとつ(東権現と呼ばれていたそうな)だということで、江戸の昔は参詣人が下の雷電山から並んだというのだから、確かに桐生市民の山と呼ばれるのも宜なるかな、です。けれども鳴神山もそうですがここにも川内側の社と桐生側の社があったらしく、川内の繁栄と意気の盛んなこと、今ではちょっと想像できません。
ちなみに今ある祠は川内側を向いています。

山頂からの眺めを楽しんだ後、青葉台方面に向かって稜線を辿ります。こちらは歩くひとが少ないのでしょう、急降下の山道には厚く落葉が積もっています。走って下る同行者に呆れながら、大人はゆったりと余裕をもって歩きましょう。
少し登り返せば423,5mのピーク、町の方向が小広く開けていて静かな見晴らしの良い場所です。吾妻山の頂上よりずっと落ち着けるお薦めのお休み処。風のない小春日和、インディアン・サマーの今日は遠くは展望できませんが、渡良瀬川が緩やかな帯のように輝き、手前の丸山がちょこんと可愛らしく、阿左美の沼がふたつ太陽を反射して、のんびりゆったりと日向ぼっこしながら山談義。

三 枯葉を踏み行けば天狗に出会い
再び枯葉の中を下り、ふたつの石祠が見えたらそこを左折、ますます深くなる枯葉を踏み分けて歩きます。この石祠、元禄の年号があり梵字が刻んであるけど、残念ながらなんの神さまが浅学の身にはわかりません。寄進者も年号も同じなので間違いなく別の神さまだとは思うのだけど。
途中大きな土管(?)が埋められ水がたっぷり溜まっていて、かなり深い。あにねこさんが木を差し入れれば1mを優に越え、子供なら溺れること必至です。何のための溜まり水なのか、空を写してなかなか綺麗な景色ですが、お子さま連れは気をつけましょう。

不意に開けた場所に出て、廃屋と生活の残骸が散らばる小さな平地の山際に蓮華を持った観音さまの像があります。「桐生の石仏」シリーズで紹介されている場所からここに移されたのでしょう、前面にやはりどこかから移された墓石のようなものが並び、写真には撮りにくいけれど柔らかな表情の石像で「御月待供養塔」の文字と享保の年号ははっきりと読み取れました。

さらに下れば猪が牙を磨くのかまるで石の塑像のようになった木株があり、すぐに御嶽白龍神社が見えて来ます。
昔代表幹事とやはり下山の途中寄って、その余りの怪しさにもう一度訪れたいと今年の夏2度挑戦したのですが、下からは行き着けなかった神社です。地図にも神社記号は記されていません。個人的な神社、とでも申しましょうか。天狗はいる、新しい白衣観音はいる、お稲荷さまの狐はひどい悪相、なにしろ不思議な神社です。ただ手作りの(!)滝の下の御嶽三座神の石碑はけっこう古そうで、多分かつては篤志家が信仰していたけれど、今は信者が減少してしまった信仰施設ではないかしら。
大きな天狗を写真に収めて少し下ればもう住宅街です。

四 忠なる霊は深く眠る乎
住宅街を旅行者気分で彷徨い、古い庚申塔が集められた一角を見物したり、豪壮なN氏邸を外から拝見して溜息をついたり、猿田彦大神の塞神碑をみつけたりした後、水道山への急坂を登ります。かつては自動車の登攀試験に使われたほどの坂道、今なら肉体年齢試験に良さそう。勿論代行は一番の年長者ですから最後を気息奄々で登ります。

知ってはいてもあまり馴染みのない水道山記念館を眺めて、年の暮れだし思いきって、という訳のわからない理由をつけて雷電山の山頂の忠霊塔に向かいます。
縦横にある木の階段をとことこ登り、駐車場を抜ければ立派な忠霊塔が白く光る。桐生市全体の戦死者のための慰霊碑なのか、桐生市のマークが中央についています。川内にも梅田にも菱にも忠霊塔があるのですから、戦死者の霊も忙しいかも。後には満州開拓団として中国で亡くなった桐生出身の方々の慰霊碑もあり、雷電さまの祠が見つからなくても、やはりここは昔から市街一望の手を合わせるための山頂です。

この後哲学の小径とやらを歩いて出発地の駐車場へ。
最後に村松沢に向かう途中の八坂神社にもお寄りして、神社裏に集められた如意輪観音像や庚申塔、月待塔などをじっくり観察し、石仏三昧の一日を終えました。
三峰山から始まった石像推理にも自分なりに一応の結論を得て、はてさて来年はどんな年になりますことやら。

* * *
* * *
* * *
* * *
* * *
* * *
* * *

* 楚巒山楽会トップへ * やまの町 桐生トップへ

inserted by FC2 system