山の紀行

*

*屋久島はほぼ円形をしていて、そのほとんどを占める山岳部と海の間の狭い平地に川ごとに境を持つ24の集落があります。現在は一周できる道路がありますが(バスでは西部の原生林のあたりは通らず一周できません)、わりと最近まではそれぞれの集落は徒歩や海を使っての行き来が主で、集落で言葉が違い喋るとどこのひとかすぐ判ったといいます。
桐生でも山の祠や石像が気になってしかたのない筆者としては、かつての信仰のかたちを色濃く残す里の神々も気になる。山歩き、森歩きの合間を縫って島の神々の姿の片鱗を眺めてきました。
案内してくださるのはずっとお世話になったYNACさんの、非常に物識りの若い男性で、島に暮らして子育てもし、お正月には宮之浦の神社で太鼓を叩き悪い神さま役もなさるのだとか。おまけに機械に強くて、筆者が何年も使っているカメラをちょちょいといじってもらったらあら不思議、花の接写も背景をぼかすのも自由自在になって頼もしいこと限りなし。


○宮之浦
一番人口の多い宮之浦の大きな神社や釈迦堂は自力で回れましたが、奥岳の神さま(彦火火出見尊あるいは一品法寿大権見と呼ばれる)の里側の詣所にお連れいただきました。岳参りに参加できない女性や老人が参詣したといい、また山から切り出した杉を置いておく場所でもあったようで、山の口で山口神社と呼ばれ、あるいは奥岳の前にある1000m級の山頂に分祀されている宮之浦岳の神を拝む詣所とも。
すっかり苔に覆われ蔦を絡ませた阿吽の仁王像が印象的です。
神名帳に名が残る益救神社の仁王像も石造りで、もう表情が風化してなんだか半魚人じみて可愛い。屋久島は非常に長い歴史を持つ島で早くから仏教も神道も入って、それに古くからの民俗神が混淆して、ダイナミックでなつかしい祭や行事が残っていて話を聞いても本を見ても興味が尽きません。
またどの集落も海へ向かってえびす神が祀られ、この神は漁の神さまであると共に外からやってくる訪問神でもあり、いまでもお供えがあげられて周囲は綺麗に保たれています。
そういえば屋久島では命日やお彼岸・お盆でなくとも毎日お墓参りするのが当たり前だそうで、小山の中腹、海を見下ろす集合墓地には花が絶えず、こちらも美しく整えられています。

○志戸子
ここでは別の日にガジュマル公園に寄ったついでに漁港脇の高台にあるえびすさまを拝見。強風の日で周囲の樹木がわさわさと騒いで、新しそうな祠の中にちんまりと祀られた自然石のえびす神は味がありました。
ガジュマルとアコウが巻き付く大杉があるという住吉神社はバスの時間が合わず未見で残念。
律宗と日蓮宗が盛んだったという島ですがここには浄土真宗のお寺があります。

○一湊
県道沿いの千亀の井戸を見ました。同名の鉱泉もありますが、こちらの湧水は江戸時代末期から明治にかけての「かくれ念仏」の布教者、是枝千亀女の教えで掘られたといい、南の小さな島にもかかわらず歴史の激動がすぐに伝わる要所であったのだと実感します。
一湊の海へ突き出す岬には矢筈岳が優美な裾を伸ばし、その麓の矢筈岳神社の赤い鳥居に惹かれました。県道から少し外れていてお寄りできなかったのも少し残念。

○永田
島では唯一奥岳が見える集落で、永田岳への登り口横河渓谷の美しい流れが永田川になります。渓谷が川と名を変えるあたりからこの島では珍しい水田風景が広がります。真っ白な砂浜は前日貝拾いに興じた浜。
三つに分かれた方限毎に神社を持ちどの社も鳥居の足元や境内に白い海砂を盛っていて清らか。地区全体の神社である永田嶽神社の巨石には髭文字でお題目が彫られていて明暦3(1657)年の文字が見え、神社なのにと思いますがもともとは山岳信仰の聖地であったのだとか。
他に小山神社という巨石を祀る神社があり、出発前に読んでいた下野敏見さんの本の写真でぜひ行きたかった神社で、がっしりした胸筋と素足を持つ石の仁王さまは廃仏毀釈によって頭部を失っていますが趣があります。巨石は形通り安産の神さまで、勝手ながら案内していただいている若者に二人目をお願いしておきました。

○栗生
昨日歩いた原生林を右手に見ながら県道を走り到着する集落は栗生。
手前に大川の滝があり、前日の雨で水量豊富な二条の流れは見事で、来るまでの神々に手を合わせた功徳でしょうか、晴れた日が続くと見る影もないそうでラッキー。
広々とした座敷で蕎麦と魚飯を味わい、浜辺で一服の後向かうのは甲ヶ峯山中にある満丸神社。ここまで落ちて来た平家の落人が壇ノ浦で入水した二位の尼を偲んで祀ったといわれ、緑深い山道を辿った先の赤く塗られた屋根をもつ小さな神社はなんだかひっそりとして寂しげですが、少しも荒れた様子はなく、今でも崇敬されているようです。
ちなみにここの浜神さまは崇徳天皇で、今では自然だけが美しい離れ小島のようにいわれていますがかつてはずっと都に近かったのだと思います。

○平内
モッチョム岳の特徴的なごつい岩峰を左手に見ながら着く小さな港の岬には綺麗に彩色されたえびすさまと大黒さまが海を眺めてらして、素焼きの素敵な壷には緑の枝が供えられ、お供えを盛る小さな白い磁器が並んで、ほんとうに屋久島は神さまが溢れている。
後日民俗資料館でも十五夜の縄を見ましたが、島の注連縄は一種独特で、竜神信仰・蛇信仰が残っているのがよく判ります。どの神社にもある素朴で本来的な注連縄がとても印象的。
椰子の茂る境内をもつ安産神の赤い鳥居を脇神とする八幡神社の裏には通称イノンコロンと呼ばれる石塔があります。この一帯を治めていた岩川一族の氏神とかで、石塔の両脇に控える狛犬が「インノコ(いぬのこ)」。そういえば今までの神域には阿吽の仁王さまはいても狛犬がいなかった!
神仏混淆というか、大らかな南方性というか、なんでもかんでも八百神として祀ってしまう私たちの信仰のいい加減さの素型というか、なんにしろ里歩きも面白いものです。

○小島
太宰治に「地球図」という短編があり、筆者、幼少の砌に読んでいるはずなのですが既に忘却の彼方。その小説の主人公の伴天連シドロチが上陸したのがこのあたり。江戸中期の鎖国時代、敬虔なイタリアの司祭は日本の風俗に溶け込もうと日本語を学び月代を剃って刀を差し上陸を果たしたものの、学んだ言語は通じずにあえなく江戸へ送られ牢死してしまいました。訊問にあたった新井白石はこのとき得た知識を基に「西洋紀聞」を纏めています。
小さな教会脇のレリーフが埋められた上陸碑を眺めて彼我の信仰の違いについてちょっと思いを巡らせました。

○尾の間
ここは温泉の湧く島でも一番温暖な土地。
こちらは鑑真が上陸した場所と伝えられています。さすがに海流の島、訪問神が多いこと。
なだらかな石段を登る保食神社は穀物や畜産の女神を祀ります。縁起書ではこの地のひとたちが伊勢へ参詣した折直接分祀を受けたとあり、案外今の時代の方が島は遠くなったのかもしれません。

○原
縄文〜弥生にかけての石器が出土するのだとか。縄文杉が若木の頃をちょっと想像。そのときにだって既に老樹が枝を伸ばしていたんでしょうね。
こちらの森山にも益救神社が鎮座します。
立派な石碑や古い五輪塔を過ぎて一の鳥居を潜ると緑の木々の中に鮮やかな赤い二の鳥居。ここにもがっしりした仁王さまが立ちますが残念ながらお顔がない。漆喰の白と屋根の赤がいかにも南らしい大きな羊歯や葵のような葉の緑に映えて、横手には古い石塔が立ち並びます。

駆け足で巡った島内、里歩きも実に楽しゅうございました。ほんの一部だけれど里の信仰の多様さ、素朴さ、それぞれの神が兼ね合い敬虔な祭が続けられていることを知れば知るほど興味が湧きます。
葬儀のとき使われた先島丸のことやホテルの方たちに伺った妖怪話、十五夜の夜の縄を大蛇に見立てるお祭り、お正月の訪問神のこと、医療神としてのたくさんの民俗神、舟霊さまのこと、見切れなかった集落の岡えびすや村えびすや海えびすや山えびす。もうわたしたちが忘れたようなものがまだ鮮やかに息づいていて、まだまだ見たいもの、知りたいことは多い。魅力に溢れた南の島です。

* * *
宮之浦の益救神社
仁王さまはちょっと半魚人ぽい
山口神社
* * *
石祠の中にはまん丸な石
牛床詣所
すっかり苔むした仁王・吽
* * *
こちらは蔦まで絡む仁王・阿
宮之浦港側の岬上のえびすさま
ホテル庭の化石のある海岸
* * *
屋久島高校裏の釈迦堂
川向神社社殿
石敢当がたくさん残る
* * *
志戸子のえびすさまは自然石
永田の方限社・海砂が敷かれている
今回のお目当てのひとつ、注連縄
"
"
"
永田嶽神社裏の石に彫られたお題目
永田・方限社のひとつ
小山神社
"
"
"
小山神社のご神体
大川の滝
満丸神社は静かな山中にある
"
"
"
モッチョム岳
平内のえびすさま
どの注連縄も素朴
"
"
"
民俗資料館で・十五夜の縄
保食神社
原の益救神社

* 楚巒山楽会トップへ * やまの町 桐生トップへ

inserted by FC2 system