石尊山(仁田山城址)〜駒見山

*大器小用といいますが、桐生みどりさんに里山に付き合ってもらうなんてぇのはその典型、しかもまだ松の内、こんな贅沢なことが許されるのでしょうか。もっとも河海は細流を択ばずとも言うわけで、ご本人は今年は雪山はお休みで低い山は滅多に歩かないからなどと言いながら至って機嫌良く、川内の古い城址を歩いて来ました。

駒形大間々線の三堂坂の路肩に駐車。昔は仁田山城の居館だったといわれる広場の石碑や石仏を拝見し、無礼にも不動堂にカメラを差し入れてお不動さまを写したあと、立派な石尊宮の燈籠を眺めていたら、行けるけど道は荒れている、夏にはお祭りがありその時は結構たくさんの方が行くのだと、すぐ上のお宅の方が教えてくださいました。別のちょっとお年を召したご婦人も、二日前少し登ったけどそりゃぁあなた大変です、と忠告して下さる。
舗装道を登ってすぐ右に石畳の道が山へ向かっています。しばらく薄い道形を辿ると右によく踏まれた道が岐れ、山神さまの石祠、頂上へはこの石祠には寄らずに直進です。すぐ今度は二基の石祠があり、白い幣束は新しそう。たぶんここへいらっしゃったのでしょう、確かに落葉が重なった急な登り、上へはともかく下るのはあのご婦人は大変だったかもしれません(と下りは別の道を通るつもりの代行は身の程知らずな余裕で気の毒がる)。
代表幹事はやはり冬、道形ははっきりしていると書いていましたが、それから3年経っているせいか、同行者がいなければ代行などすぐに心折れる倒木の続くほとんど道なき急登です。着込んだ上着を脱いでふうふう言いながらかなり登り続けると、やっと赤い金属の鳥居が見えてきます。お祭りが真夏なんて、きっと薮だらけで準備する方も登るひとも大汗の連続のはず。

鳥居をくぐっても急登はまだまだ続きます。一度空が近づいてからあともうひと汗かけば、突然金属で組まれた櫓に嘉永四年と刻まれている鐘が吊られているのに出会います。手入れされていない木立の中に青銅色の鐘が吊られているのはかなり不思議な景色です。小さいとはいえ戦時の供出をどうやって逃れたのか、撞けば山中にいい音が鳴り響く。下で会った方、きっと聞こえて笑っているんじゃないかしら。
鐘のすぐ後にちょっとお相撲さん風の不動明王、文政十年六月と台座に彫られていますが、摩滅もなくそんなに古いようには見えない。そのすぐ後に四本の松に囲まれて八幡宮の石祠があり、これも文政十年六月。八幡宮の神さまは応神天皇、八幡大菩薩とも言われ仏法の守り神であったり、戦の神であったりで、戦国の時代のお城にふさわしい神さまです。
少し進めば今度は祠が三つ現われます。真中奥に石尊大権現、右前に大天狗、左前に小天狗。石尊さまが主役、他のふたつより大ぶりでこの三つともやはり文政十年六月吉祥日と日付がある。
ということは石祠を台座を含めて四基分、不動尊も3重の台座に載っていましたから、同じ日か数日かけてかは判りませんが、この年、上仁田山村は大騒ぎ、連日のお祭り騒ぎだったに違いない。大きな石の塊を二十近く、運ぶための人手を考えただけで大変です。女連中は食べ物・飲み物の用意に駆り出されたでしょうし、子供は浮き浮きと浮かれたでしょう。下で聞いた八月のお祭りは、中世の里見氏の悲劇を偲んでではなく、この江戸もそろそろ末期のお祭り騒ぎを記念しているのだと思えます。
石祠が置かれた文政といえば化政文化、町人文化の花盛りと教科書に書いてあったような。それにしても上仁田山村の財力、たいしたものです。この頃、江戸時代の川内にとても興味が湧いてきて、織物が盛んだったと聞きますが、色んな山の石像を見ても寺社を見ても単なる桐生の奥の織物の供給地だけとは思えません。なにかもっと独立したひとつの文化圏だったような気がします。
この文政十年(1827)は河井継之助、ジョン万次郎、小栗上野介が生まれ、翌年は西郷隆盛が生まれます。江戸時代の窮屈な所もたくさんあるとはいえ、それまでの戦乱の世から比べれば、平和で豊かな時代の最終期を庶民は民俗信仰という形で楽しんでいたのではないかしら。
この三基の石祠がある開けた場所が仁田山城の本丸で、下から辿った道が追手道だそうです。

堀切の跡をいくつか越えて、BS放送の新しいアンテナの手前の道を下り、こちらの道はお城の搦め手の道だとか。この堀切の上と下で弓や刀や槍で戦った男たちに軽く瞑目。少し登って赤柴山脈の主稜線へ出ればすぐ、杉の大木に小さく駒見峠の標識があります。
稜線歩きは明るくて、右手に梅田の山なみ、左手に冠雪した赤城がちらちら見えて楽しく歩けるので好き、とるんるんしていると時々急登が続いて駒見山山頂。山頂看板に手書きで「ニセ」と加えてあり、確かに地図上では誤植されたままの814,4m、印刷物の威力は大きい、つい信じてしまいたくなる。
ちょっと早いお昼の用意。超々スローペースなので桐生みどりさんは汗もかけず、赤城からの冷たい風に震えています。いただいた奥さま手作りの甘酒のおいしいこと。正面に大形山と三峰山を眺めて、自分の歩いた山をこうやって眺めながらおにぎりを食べるのは嬉しいものです。

駒見峠に戻り下り始めて見返ると、実に峠のいい雰囲気。実際は峠からの展望はそんなに良くないのですが、なんだかあの向うに何かがありそうなわくわくする景色です。少し荒れ気味の斜面を下り、沢沿いにだんだん道形がはっきりして、沢の水量が増してくれば左側に赤い鳥居の山神さま。ここからはしっかりした道が県道まで続きます。
車の少ない駒形大間々線を下に、車まで戻る途中にのこぎり屋根の旧家があり、赤城神社の脇には石仏に混じって回国の記念碑のような古い石塔。この山間から江戸時代に四国や坂東の札所を回り、尚かつこんな立派なものを作れるのですから、やはり川内は徒者ではないと思います。
この赤城神社からも仁田山城に道が続き城の側面口だったとか。ちょっとだけ上がってみたけれど、これは追手口より手強そうです。

降りて来てから参考にさせていただいたHP。(どうしても帰ってから読むことになって我ながら間抜けだとは思うのですが)

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