茂倉沢〜仙人ヶ岳〜朝日沢

*混世魔王と一丈青(ここのところ根気よく付き合って下さる桐生みどりご夫婦)とゆく仙人ヶ岳。代表幹事ならこれは三か月かけて、6本くらいの記事になるはず。書きたいことだらけ、見るもの満載の大ご馳走のフルコースです。従っていつもより長文御免。

一 岩窟の中に仏が微笑み
跳滝橋を過ぎてすぐ、山側に菱町かるたの「も」の看板と古い木の指導標があります。それに従って林道を入れば、すぐ小さな石祠と文化十年と側面に彫られた馬頭観音がいらっしゃる。そのまま進んで「これより1km」の指導標に従い沢筋に。

茂倉のお釈迦さまは昨年真夏に見損ないました。左手から最初に合わさる沢を伝ってすぐの3段の小さなナメの真中、つるつる滑る岩の上をあえなくずるずる落ちて、どうも「家族」は心から信頼できない、情けない場面も日常的に見ている訳で、伸ばされた手をつかもうものなら、一緒に落ちることは必須に思え、キリストだって生まれ故郷では単に大工の息子。相手は相手でこちらをひとりにしておくと何を仕出かすかわからず、ここで待つというのを聞き入れず代表幹事はその日は進むのを断念し、後日友人と再挑戦してお釈迦さまに会っています。

荒れた沢筋、今回は雑草も枯れて水量も少なく、時々魔王に助けられ登り切りました。指導標があるのは最初だけ、はっきりとした道形はありません。小さな沢を辿って苔むした灯籠の笠を左手に見たら、杉林の中、踏み跡と時々現われる赤いテープを頼りに、いくつかの岩の塊を右手に見て登り続けると、真中が抉れた一層大きな岩が正面に。その岩の中に大きな釈迦如来が鎮座しています。結跏趺坐で薄く微笑み、建立は江戸期とも、明治になってからとも言われ、はっきりしたことはわかりません。前にある笠のない灯籠には元文三年(1738)の日付があります。
清掃のための新しい箒や、前には花台や香炉が置かれ、燃えたお線香の灰がけっこうたくさんあるので、敬虔な登山者や地元の方が今でも時々訪れているようです。
右の岩棚に昔ここでお経を読んでいた僧の石のお位牌があり、まさかこのひとが伝説の、きれいなお姉さんについふらふらして身を持ち崩してしまったお坊さんではありますまい。
前に積もった枯葉を脇に掃き寄せて、仏に、というより綿々と手を合わせてきた数多のひとの心に手を合わせます。

この岩の右上に、こちらは賭場が開かれたというお話をもつもうひとつの岩窟があります。岩の節理がはっきりとした先のものよりいくらか狭い岩窟に、幾筋もの水滴が滴り落ち、どうもテラ銭という如く、お上の目を逃れるために賭けと仏は縁が深い。娯楽の少ない時代、急な山道を登ってでも博打に興じ、本当にここで丁だ半だと言っていたのかもしれません。

二 岩上で魔王快笑す
岩窟から正面の尾根に向かっての急斜面、一丈青さんの見立てでは斜度20度ちょい。前日も別の山でひとりついうろうろしてはぐれ、同行者に迷惑をかけたばかりの代行は、あっという間に腰にロープをつけられます。
昔奥多摩でちょろちょろしても大丈夫なように、扱きで繋がれた幼児を見たことがありますが、これは迷子防止ではなく、ずり落ちた時の確保のためのロープ。おふたりはもちろん直立して、周りの景色を楽しみながら登りますが、手がかりの木も岩もない石混じりの急斜面、代行は手も足の役目の四つん這いで息を切らし、50mほどの高度を途中休憩を入れてもらいながら、なんとか落ちてロープで引き上げられることなく登りました。

稜線に出てしばらく進むと、見るからに不安定、3人で押せば転がり落ちてしまうような大きな岩が天をめざして立っている。200年ほど前の文献でも奇妙な岩と紹介されているつなぎ石。
見ているだけで何か不安で、目眩がしそうなこの岩に魔王がロープなしで取り付きます。今にも岩ごと転げ落ちてしまいそうで正視に耐えない代行をよそに、おふたり足場を読み合って楽しそうなのは、さすがと言うか、!!!と言うか。何回か登ったという魔王、岩の上にすくっと立って会心の快笑。
岩のそばの小さな祠の山神もきっと驚き、呆れながらも拍手していることでしょう。とはいえ、危険ですから決して真似をしてはいけません。

三 頂に勤勉な現代あり
岩を振り返り振り返りしながら進み、急登すれば仙ヶ沢(前仙人)の頂上。
観音山から縦走して来た、前橋からのおふたりと入れ替りにお昼の用意をしていると、仙人ヶ岳方向から作業服のおふたりが。現在三角点にGPS用のチップを埋めるために、この辺一帯の山へ登ってらっしゃるとか。初めて知るそんな作業を興味津々で見守ります。すでに三等三角点までは作業を終え、只今四等三角点らしい。御影石の硬い標石を幾種類ものドリルで丁寧に削り、黄色いチップが埋め込まれてゆくのを、うるさく質問しながら見物しました。
そういえば前回三境山の頂上にも新しい白い標識が立っていましたが、この作業のためだったわけです。

魔王がずっと捜している鳴神山の三角点は、こちらのプロの方が捜してもやはり見つからないそうで、埋まっている部分が大きい標石がなくなるのは不思議ですが、北アルプスなどでは登山者が山の土を運んでしまうので、剥き出しになっているものも多いらしい。
明治の設置以来の大規模な作業、このチップのおかげでGPSの表示がより正確になり、世界標準になると聞けば、どんなに山が好きとはいえ、重い工具を背負って日曜でも仕事をされる方に頭が下がります。
どこかの三角点で黄色いチップを見かけたら、作業している方々をちょっと思って心の中でお礼をいいましょう。

お昼を済ませ仙人ヶ岳(朝日岳)をめざし出発。
ちいさなピークをいくつか巻いてなだらかな山道をゆったりと歩けば、あちらからの大パーティに出会いました。菱の公民館が主催する黒川からのハイキングの方々。先導する方が積もった落葉を掻いたり、ちょっとご年輩のメンバーに細かに気を配ったりしています。
黒川側は菱の公民館活動や「すみれ山好き会」さんのおかげでかなり整備された道だと聞きます。そのうち機会があれば一度参加してみよう。

気持ちのいい笹原を過ぎ少しの急登で仙人ヶ岳頂上。大きな、何枚もの写真でおなじみの看板があります。
遠くに白い日光白根をはじめ日光連山、あるいは根本からの稜線の眺めを楽しんでいると桐生みどりさんの読者の方と出会い、代表幹事のことも知っている方で、色々暖かいお言葉をいただきました。
この三角点にも埋め込んだばかりの黄色いチップが。

四 谷間には近代が静かに朽ちる
頂上を後に塩瀬をめざして朝日沢を下ります。
魔王と一丈青さんに挟んでもらわなければとても下りきれない道。ハイキング気分で辿ってはいけません。
斜面を時々現われるテープを頼りに急降下。沢に水が流れ始めると、沢筋を右に左に渡りながら、厚い落葉を踏んで下ります。鮮やかな緑に苔むした、昔はそこを鉱石を積んだ小さな橇(そり)が進んだだろう桟道の残骸が散らばり始め、錆びた機械が腐蝕しながら固まっているのが右手に見えて来ます。

山にふさわしくはないけれども何か心惹かれる場所です。茶色く錆びきった機械の一部、柔らかな曲線のパイプや歯車が、いかにも金属の時代だった前世紀、近代化に励んできたこの国の懐かしい景色にも思え、今ならきっと機械力でどんと立派な舗装道を造ってしまうだろうに、切り出した木を組み立てて桟道にし、かつてはたくさんの人がここで生計を立てていたのかと思うと、これはこれで切ない景観です。
今でもマンガン鉱石が出ないわけではなく、盗掘の話なども聞くので、いつか再びここが脚光を浴びることはないとは言えませんが、できればこのままゆっくりと時をかけて腐り続けてほしいような。

沢がどんどん広く、下に見えるようになり、高い所を歩いているうちに、先に行く魔王が戻って来て、ここからは3人ロープだと宣言。
聞いていたほど恐くないなどと後の一丈青さんと話していたばかりなので、いよいよかと緊張します。
真下に美しいけど深い谷、右手に高い崖の細い道は、谷の方に腐りきった桟道が張り出し、そちらに体重をかけようものなら踏み抜いて落下するのは一目瞭然。岩に張りつくように慎重に進みます。3カ所ほど、そんな場所を過ぎ、ガードレールが見えてきてもまだ安心してはいけません。
落石のせいかガードレールはねじ曲がり、そのうち山が崩れて道に覆い被さった所が。コンクリートや文明が脆いことは山を歩いて常々感じていますが、ここはまだ崩れ方が生々しい。細心の注意でトラバース。

これが最後の難関で、あとは塩宮神社まで綺麗な谷間を楽しみながら歩けます。所々残る人の暮らしの痕跡の間に小さな祠がふたつ並び、お酒が供えてある。一方は寛文七年(1667)と読め、だとしたらかなり古い祠です。
山の神さまはここで300年以上ひとの暮らしを眺めてきたのでしょうし、どの時代にもこうやってお酒を供えるひとたちがいた。自分がこの水と緑の国の歴史のひとつの微細な分子であることをしみじみ感じます。

最後の壊れた桟道があちらの岸に長く延びているのを見た後、最初の山小屋風の建物の前にすっかり摩滅した石仏が佇んでいます。文字はもちろん目鼻ももう定かではありません。
気の遠くなるような時の厚みの中で、あとどのくらい山道を辿れるのか柄にもなく少ししんみりすれば、沢はきらきら輝いて、山は静かに冬になりつつあります。


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