寄稿

夏の夜の物語

 休日返上でしばらく専念していた仕事が一段落つき、ふと思いついて10数年ぶりに北八ッに出かける。長いブランクを考えれば池の側の小屋に泊まり、あちこちに足を延ばせるこの山域が今の自分にはちょうど手頃だ。
 1日目、高見石からニュウを廻り。2日目茶臼、縞枯を歩く。天気のいい日で学生時代仲間と登っていたアルプスや乗鞍の眺めを堪能する。足も思っていたよりしっかりしたもので、さして疲れを感じない。まだまだ若い部類かもしれないと、朝食を共にした中高年のグループが足の痛さを競っていたのを思い出し、少し安心する。そのまま帰ってもよかったのだが、高山の小屋とは違って小綺麗な小屋の雰囲気と食事の旨さにもう一泊を決める。代休をとった平日なので空いているし、池の畔で仕事を考えずにだらだらと夜を過ごすのも、次はいつ来れるかわからないのだからいいだろう。妻に電話を入れその旨を伝えるとあっさり、ごゆっくり、晩ご飯を作らなくていいから助かるわ、と浮き浮きした調子で返された。

 翌日、足が攣って早朝に目覚めた。若いなどと自惚れていたが、時間をおいて疲れが出るのは歳をとった証拠か、触ってみると脹脛が固く、筋が痛い。早い時間に発つつもりだったが、少し足をほぐしてから帰った方がいいかもしれない。地図を見ると車道からほとんど高低差がない原生林の中に小さな山への一本道がある。ここを歩けばいくらか楽になるだろう。
 北八ッ特有の羊歯と、厚い苔に覆われた倒木と岩の、緩やかにカーブが続く道を荷物は車に置いてゆっくりと歩く。鳥の囀りと風に吹かれて木の葉がそよぐかすかなざわめき。仕事に追われる毎日だったとはいえ、この感覚を忘れていたのがもったいなく思える。小一時間歩いて少し汗ばんできたところで南八ッへの展望が少し開けている小さな山票のある頂上に着き、小休止して車に戻り始める。
 さすがに平日こんな遊歩道じみた道では誰にも会わず、空気まで淡い緑色のような山を独り占めしている気分でいたら、向うから小学生低学年にみえる白い帽子をかぶった少女が弾んだ足取りで歩いてきた。こんにちは、子供特有の澄んだ声で挨拶してすれ違う。こんにちは。ザックに鈴をつけているのかちりん、ちりんと可愛い音がする。うちの娘も小さい頃はよく山に連れて行ったことを思い出す。妻もあの頃は一人前に大きなザックを背負って一緒に歩いたものだった。娘も、熊の顔が描かれた赤いザックなど背負い、急にはしゃいで親など置いて駆け出したり、可愛いものだった。

 しばらく歩いても少女の親に出会わない。一本道だったようだがどこか横道があったのだろうか。首を傾げていると、前からさっきの少女が歩いてくる。白い帽子の影で顔はよく見えないが口元が笑っている。足取りは軽く、弾んで、ちりん、ちりん、ちりん。こんにちは。
 こんにちはと低く返す。自分の声がかすれているのがわかった。すれ違う時、横目でそっとうかがうと背負っているのはザックではない。きらきら陽光を跳ね返す新しい赤いランドセルだ。振り返りたい気持ちを必死で押さえて、前を見たまま早足で歩いた。しばらくすると長く伸びた羊歯と苔の、緩やかなカーブの向うからちりん、ちりん。ちりん、ちりん。
 白い帽子の少女が口元だけ笑いながら、こちらへ向かって歩いてくる。

楚巒山楽会トップへ やまの町 桐生トップへ
inserted by FC2 system