寄稿

夏の夜の物語2

なぜ暗い夜道をヘッドランプの光を頼りに降りているのか。どうも我ながら腑に落ちない話である。登り道の峠への分岐で犬の死骸を見た時からなんだか嫌な予感はしていた。

休みのはずの土曜日に急な仕事が入って、計画していた山行が半日ずれた。何度も色んなルートで登った山だし、上には山小屋が何軒もあるのでそのどれかに泊まることにして、昼過ぎの新宿駅から列車に飛び乗り、登山口へのバスに乗る。
幾組かいた登山姿の人達は明日の朝登るのだろう、道の左右の民宿にそれぞれ吸い込まれて行き、それでもまだ陽は明るい。計画通り峠まで登り明け方の写真を撮りたい。散り残りの紅葉を見ながら道を急いだ。
沢の水音が響く山道はさして急なところもなくゆったりと尾根を巻く。展望台と名付けられた尾根への取り付きから落葉したブナの間を歩くうちに、だんだん影が長くなる。空の深い青に落葉松が甘く黄金色に光って、薄の白い穂はもう固くなっている。時々鮮やかに混じる赤い色はつつじの紅葉だろうか。1時間半ばかり山道を登り、一度車道に出てしばらく行くと峠への分岐に出た。道の端に犬の死骸がある。ちょっとぎょっとしたが、車が通る道がすぐそこにある。撥ねられたのか可哀想にと思いながら通り過ぎ、沢を渡って再び登り出してしばらく、なんでもないところでうっかり石を踏み損なって転んだ。

慌てて立ち上がる。誰もいない山道なのに自分が転ぶ、などとは考えたこともなかったのでなんだか恥ずかしい気分でぐるりを見回して汚れた手を払った。落したものがないのを確認して、歩き始めるとすぐ右の足首が痛み出した。挫いたかと思ったがここから10分少し登れば泊まる予定の山小屋がある。ハンカチで強く足首を縛って歩くしかない。若い頃一緒に山登りした先輩が、もし足を挫いても歩けるなら休まず歩け、と言っていたのを思い出す。休んで様子をみているうちに、ひどい捻挫だと腫れ上がって歩けなくなってしまう、休まずゆっくり歩いていればなんとか足は動くものだ、という体験談で、ひとの身体というのはそんなものかもしれないと納得した覚えがある。
我慢できない痛みではない。ゆっくりと小刻みに歩を進めて小屋に着いたら、ぴったりと戸が閉まっていて人の気配がない。玄関の張り紙に一昨日で冬期休業に入ったと書いてあるのを唖然として読んだ。慣れている山域だけに確かめるのを忘れていたが、そういえばここは冬は閉める小屋だった。

足首のハンカチを水で濡らしてよりきつく縛る。来た道を戻って車道に出れば他の小屋がある。茜色に染まり出した空の向うに明日登るはずだった山が大きなシルエットになり、遠く富士山が薔薇色に輝く。慎重に足を運び登るのと同じくらいの時間をかけて車道に戻って、最初の小屋はここも冬期休業の張り紙。次の小屋も人の気配はない。はて、ここは通年営業ではなかったかと思いながら、車道を進めば。次の小屋には改修工事の張り紙があり、周りは薄暗くなってきた。
こんなことがあるのだろうか。途方にくれながら次の小屋へ向かう。幾度か泊まったことがある小屋だし来る時はさほど気にしなかったが人がいたような気がする。舗装された道をとぼとぼ歩くうちに陽が落ちて足元が確認できなくなったのでヘッドランプを取り出す。とはいえまだ7時にはならない。

頂上で日の出を撮るために暗い山道を登ったことは幾度もあるが、夜の山から下りた経験はない。登る時の暗さと違って、ますます濃くなるだろう闇になんだか心細い気分になる。この山域は下山路を間違えて谷に入るとかなりやっかいだが、幸いこの車道は大回りしているとはいえ下の町まで一本で続く。
小屋の灯を探して先を眺めてもヘッドランプに照らされる樹木と白いガードレールが光るだけだ。空気がだんだん冷えてくる。たいした捻挫でもなかったようだが、暖かいよりはこの冷たさの方が足首のためにはいいのだろうと、なるべく楽観的に考えるが、なにかおかしい。道はあきらかに下り続け、これではあてにしていた最後の小屋がある峠は既に通り過ぎたことになるのだが、あった筈の大きな駐車場にも気がつかなかったし、登って来た山道への分岐も、側にある小屋もなかった。

下を眺めれば時々登山口のある町の灯がちらちらと見えるし、そこに着きさえすれば民宿が何軒もある。大きく歩を踏まないよう、山陰の水たまりで滑らないよう気をつけながら足を進める。風もない夜で時々小動物が立てる音と自分の靴音や着ているものが擦れあう音が耳に響く。
いや、自分の靴音に微妙に重なってもうひとつの足音が後からついて来る。立ち止まると聞こえなくなるのだから、山の地形に跳ね返る自分の靴音の残響のようなものか。足首は痛いというより痺れたような鈍い感覚で、といって大股に体重を乗せると疼く。この調子では下まで1時間で着かないかもしれない。
一度気になり始めると後からの足音、というのは耳について気持ちが悪い。捻挫しても歩け、といっていた先輩が小屋泊まりの夜の話でこういう足音のことを話していたのを思い出す。なんといったか名前を忘れた妖怪で、○○さんお先にどうぞ、と名指しで言うと追い抜いてゆくのだとか。しかしどうしてもその名前が思い出せない。耳を澄ませば自分のたてる音や息づかいに混じってたしかに後からの足音がついて来る。

いい加減歩き疲れたところでひと休みして、しんとした背後に向かって冗談半分自分の名前を呼んでみた。○○さん、お先にどうぞ。
と、暗い中から不意に後ろ向きの男が現われ右足を少し引きずりながらこちらへ向かって来る。後ろ向きのくせに危なげはない。驚いてただ見つめていると横をすり抜けながら、軽く挨拶するように片手を挙げて男はそのまま暗い道の先へ消えていった。ずっと見えていたその顔は懐かしいような見知った顔、鏡の中でいつも見ている自分の顔だったことに、ぼおっと立ったまま、しばらく経ってから気がついた。

もう20年も前の話である。

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