茂倉(もぐら)のお釈迦様。長閑な菱町かるたに誘われてフラフラ入っていくと酷い目にあうというお話です。釈迦の窪の奥におわすという禅定印釈迦如来をめざすこと三度(みたび)。三度目にしてやっと辿り着くことができました。

藤井龍人さんの「桐生の石仏」第1回に『悟り開いた姿』として、茂倉のお釈迦様のことが書かれています。“お釈迦さまは、仏教を開いた仏さまの祖である。本名は釈迦牟尼(しゃかむに)。インド釈迦族中の優れた智者を意味している。苦行して悟りを開き、八十年の生涯を閉じるまで、その姿は絵画や仏像として伝えられて来ている。菱町上菱茂倉沢の奥にあるこの禅定印釈迦如来(ぜんじょういんしゃかにょらい)は、三十五歳で悟りを開いた時の姿であるという。〈中略〉仙人窟とも呼ばれる岩壁に達する。奥行きはあまりないが、高い間口の洞窟の中、反花(かえりばな)座・敷茄子(しきなす)を重ねた蓮台の上に、座禅姿の端正な顔をした釈尊が鎮座している。台座部分はこけむしているが、上半身は風雨にさらされぬためにか新しい感じさえ受ける。石造に年代は刻まれていないが、かたわらの灯籠に元文三戊午年三月十二日(一七三八)とあり、像も同時に造られたと推測される。昔は五〇メートルほど離れた別の洞窟内に庵を結び、修行かたがた釈迦をお守りしていた僧のいたことがあると伝えられている。”

引用文中、略した部分が禅定印釈迦如来への道程です。2〜30年位前までは、三段の滑滝(なめたき)の下まで林業用のトラックが入っていたそうです。実際に歩いてみるととても信じられないことです。お釈迦様への参道が沢に浸食されたのではなく、茂倉沢林道支線と呼ばれていたものが、手入れされることもなく、人も歩けなくなるほど朽ち果ててしまったということです。荒れだした川内の赤芝林道も須臾のうちにこんな風になってしまうのでしょうか。いい忘れました。この項大作です。禅定印釈迦如来にあいたいという奇特な人がいないとも限りません。写真も通常より多く掲載します。文章が長いとお叱りを受けることがたまさかありますが、あえて冗長な文章を作成している場合もありますので、ご寛恕願います。

やっと前置きが終りました。桐生川左岸の市道を穴切方面に向います。上流から下流を見て左が左岸、右が右岸です。為念。菱町かるたの案内板が目立つ道路です。“切りだした天然氷の土の倉”の氷倉跡を過ぎ、“跳滝に落城の悲運姫の影”の跳滝(はねたき)の手前の広い路肩に駐車します。右にお釈迦様のかるたが見えています。鉄の階段の上の山神様、階段脇の馬頭観音にお参りして林道を進むと、道がダートになり、左に道標があります。道標に従って、左折し、沢に絡んで登って行きます。コンクリートの橋の跡や土がけずられむき出しになった土管などが、かつて林道だったことを表わしています。
左右から岩が迫って来た所で、かろうじてあった踏み跡が沢に消えています。沢の右岸を高巻きます。(ちょっと山のガイドっぽい、向って左の岩場です。)沢身におりると、このコース一番の難所、三段の滑滝です。滑滝の手前でチョッと一服。下段は滑滝の左の階段状の沢を登ります。中段は水流のすぐ右を登ります。上段は右岸に巻き道があります。滑りやすいので注意が必要です。滑っても短い滝ですが。脚下照覧、watch your step! ですね。
沢身を進み、岩上の石灯籠の笠(10年程前、hisiyamaさんが沢から拾い上げた)、沢の中の石灯籠の笠(足場になっています。畏れ多いことです。)を過ぎると再び踏み跡が出て来ます。沢から離れ、踏み跡を行くと、右からおりてくる沢に出合います。三つ又のような二又ですが、中央の沢のようなものが参道の末端です。沢を離れ、正面に見える大きな岩をめがけての急登です。岩に近付くと踏み跡がしっかりとしたものになり、進んで行くと岩窟が見えて来ます。目の前には岩壁が立ちはだかります。右には風呂の跡とも跡ともいえそうな一枚岩が(何故風呂かは「釈迦の湯と女」をご覧ください。)、左の岩尾根の頂部に座禅岩、落葉の参道を直進して、禅定印釈迦如来とご対面です。小広い釈迦の窪の源頭です。通り抜ける風。岩からしみ出す甘露水。お釈迦様がおわすに相応しい場所です。が、ここまで全く未整備の難路です。ご参拝を企図される善男善女は心して登ってください。

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