ただやま。赤堀小学校の校歌に「緑の松の多田山」と唱われ、1978年発行の赤堀村誌には“毒島城趾には毒臼あり、蛇越原あり、首級をうめ供養したと思われる首塚あり、戦場となったことが考えられる。この一帯すばらしい景観であり、赤堀全体が一望にしてながめられる。すばらしい多田山の風景を史跡名勝として永く保存していきたいものである。”と書かれています。
それが、2004年の赤堀町「ふるさとメール」23号では、他人事のように“北関東自動車道の建設用盛り土の採取が進む多田山丘陵で、小高かった山の上部と北側が削り取られ、奇妙な形の丘が出現している。同丘陵は前橋市と赤堀町にまたがる三十三ヘクタール。以前は山林や桑畑などが広がる農村地帯で、〈後略〉”と書かれてしまいました。
四半世紀が、永いか永くないかは意見の別れるところでしょうが、永く(長く)を使った以上、永久に保存していただきたかったところです。

多田山の山頂には三角点と荒砥史談会が建てた首塚の標柱があります。赤堀村誌に“多田山山頂に首塚というところがある。明治九年の測量で三角点を立てるため掘りおこすと、川原石をしきつめその上に無数の首級が発見され以後首塚という。”とあります。
1999年には、赤堀小学校の児童達が多田山の土を小学校に持ち帰って校庭に小さな多田山を作らされたようですが、“永く保存”できなかったことに忸怩たる思いがあったのでしょうか。

写真の欄の5枚目と6枚目は赤堀町誌からの転載です。多田山は登って楽しい山ではありません。お勧めしません。崩された原野には住宅団地や公園が作られるようです。幾つもの山、自然を取り崩して作られる北関東道って。

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