うかうか記1

あかね


某月某日  産泰神社の石灯籠−異形のもの

山で出会う神さま仏さまは実に好ましい。
山頂の石祠、山道の石像や祠、ときには岩そのもの、あるいは石に刻まれた文字。ついつい手を合わせてお祈りするのだけど、もちろん世界平和や国家安泰を願うなんてことはなく、蛇や蜂に会いませんよーにとか、怪我などしませんよーにとか、風邪が治りますよーにとか、悪漢追い剥ぎが出ませんよーにとか、猟に出かけた夫が無事戻りますよーにとか、きっと昔々からつつましく手を合わせて心の中でみんなが呟いたに違いないささかやなお願いを私も繰り返してる。その祈りのつつましさにふさわしく、どの石祠も石像もちんまりと景色の中に溶け込んで、静かに古びている。そこに神仏が鎮座するというより、あたりを気ままに徘徊してる神仏が時たま休みに来る神さまの巣箱といった風情で、信心も向上心も持ち合わせない者でも、人の力など大したことないと実感できる山中だと、いるかいないかと問う前にどこかにおわす何かに向けて心が開いていく、その回路のドアのような気がする。
ところが山を降りて人中に戻るととたんに神や仏はもったいぶる。日常で神の力を演出するため凝った建物や造物で神々しさを作り上げ、神に関する物語を造り出し、序列をつくり、経済活動にも権力機構にも組み込まれるのは理の当然ではあるけれど、そのぶん神仏はなんだかよそよそしく、祈りは儀式じみて白々しくなる。要するに神さまも社会化されるとめんどくさい。
たまに神社に寄っても手を合わせるのも早々に本殿の裏に回り、かつては辻や村境にあった名前も定かではない古い石祠を拝見する。それらはきっと昔の人達が慎ましい祈りを捧げていた土地の古い神さまの住処であり、今では立派な本殿におわす必ず名のある神様に併合されてしまったのだろう。その古い神さまとちょっと変わった狛犬くらいしか神社で心を惹かれるものがなかった。

産泰神社は赤城から流れて来たという大きな岩の群れがご神体で、平地に突然積み重なった巨岩は確かに人ではないもの、日常ではないものの力を感じさせて、麗々しく拝殿や本殿を設けなくても充分だと思うけど、そうもゆかないのが人の習い。岩の積み重なりに驚いたあとは、よく手入れされた立派な神社に、いつものようにふーん立派だっちゃ、神々しいっちゃ、と言ってあとは敬して遠ざけておけばすむはずだったのに、大きな石灯籠に彫られた顔にすっかり心を奪われてしまったのだ。

「それ」は猿のようでもあり、豚のようでもあり、神のようでもあり、魔物のようでもあり、異人のようでもある。大きな火口と屋根を腕と肩、頭で支えて、全力を使っているように見えるけど、俯きながらニタリと笑みを浮かべている。四面それぞれ表情も姿も違う「それ」は皆、布袋腹を晒して腕逞しく、なんだかとても太々しくて下卑ている。なんなんだこいつら。ご神体の岩に押しつぶされた荒ぶる土地神か、あるいはそもそも荒ぶってるご神体の随神か、あるいは赤城の神の式神か。といって「それ」の正体がぜひとも知りたいというわけでもなく、ましてや「それ」を彫った理由や彫った職人が知りたいわけでもなくて、ただただ「それ」が気になる、「それ」に感情移入してみたり「それ」について話したい気分になってしまった 、なんでだろう。不気味であるが愛嬌もあり、力強いが圧迫されてて、苦しみながら喜びも感じ、みじんも神々しくないが生々しい存在感があり、なんだかとても近しいような気になる「それ」。不信心者がこれだけ興味を持てるのだしなんといっても悪人相、きっと悪い奴に違いないのだが、こんな力技を黙々とこなしてるのは案外いい奴かもしれないし、いい悪いは別にしてこの有様は気の毒だし、本殿の神さまを強く清くするためには悪や不正義も強く生々しくしなきゃならないからこれはこれで必要だろうし、それにしても対立概念のためにこの悪相とこの苦行はあんまりだわと思っても、本人たちは少しも気にしていなさそうだし。だいたい今までいろんな灯籠を見たけど初めて「それ」に気付いたのは果たしてここだけにあるからなのか、謎と興味は深まるばかり。

楚巒山楽会は読むだけだと思っていたけど、産泰さまの異形の「それ」が余りに異形だったのでついうかうかと投稿してみました。しばらくは山行の行き帰りに神社仏閣を探索し「支えるという苦行」をテーマに続けてもいいかしら?

あかねさん、投稿大歓迎です。面白いテーマです。これからもよろしくお願いします。 楚巒山楽会代表幹事

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