さんきょうさん/こうぜんじやま。「膨大な山の索引」では三境山の別名として高禪寺山を挙げていましたが訂正します。梅田村史に高禪寺山として、“大字山地村の西方にありて勢多郡に跨がる。形状西より東に突出して風折烏帽子の如し”とあります。梅田村史には三境山は登場しません。
山田郡誌には“三境山。高禪寺山 この二山はともに梅田村大字山地及び及び勢多郡東村大字座間及び草木との三大字に境に相並びて吃立す”と書かれていて、高禪寺山の名前が先にあったことがわかります。高禪寺山の尾根下には高禪寺平とも呼んでいいような平坦地があり、郡誌に書かれている高禪寺山の謂れとなった庵が建っていたと伝えられています。
屋敷山の位置も、現在は三境山の東に書いてありますが、屋敷沢の源頭のピークなので、「膨大な山の索引」2008年版では、現在の位置から残馬山〜三境山の尾根上のピークに訂正します。

訂正を二つしたところで、三境山、高禪寺山の紹介です。三境隧道から鞍部の馬道峠までは残馬山の項をご覧ください。この鞍部が石鴨から沢入に抜ける馬道峠の跡だということをhisiyamaさんに教えて頂きました。楚巒山楽会の会長を迎えての定例山行に参加して頂き、多々ご教授に与りました。石尊宮と山神宮と想像される二つの石祠はいかにもここが峠であると物語っています。
峠から急登をこなし、登りついたピークに下げられた見出標に『井上昌子』と書かれていました。井上昌子と書かれた落書きがあちこちに現れ、世の顰蹙をかったのは何年前だったでしょうか。まだ残っていたのか、まだ書いているのか。残念ながら、懐かしい思いもしてしまいました。見出し標にちょこっと書くくらいなら許してやってもいいような。当時は見る度に嫌な思いをしていたのですが、久々に見ると「いいよ、いいよ。そんなにこの山が良ければ井上昌子山と呼んでやるよ」って感じ。それが概念図の山名のない黒三角です。
屋敷山を越え(屋敷山ととりあえずテープに書いてあります)、屋敷沢の下降点を過ぎると、この道中で一番好きな場所、岩の庭園と呼んでいますが、大岩のゴロゴロとした明るい尾根に至ります。この場所は落葉期の時分が一番好きです。岩の中には球状安山岩と呼ばれるものが混じっています。岩の間を縫って登ると石祠と三角点のある三境山の山頂です。なかなか落ち着ける山頂です。
山頂からゆるく下って、ゆる〜く登り返したところが高禪寺山。左に平坦地。庵の跡です。

屋敷山は、屋敷沢から登って紹介します。

2007/12/1 三境山と高禪寺山の山名について桐生山野研究会の桐生みどりさんからご指摘がありました。以下
「昔、石鴨の人に聞いたところ、三境山と高禅寺山は同じ山の別称と言っていました。公図を調べたところ桐生側(梅田)の字名は高禅寺で、東村側の字名は三境でした。
これから考えると梅田では高禅寺山、東村では三境山と称していたようです。山田郡誌の記述「三境山の南西に連なるを高禅寺山という」は間違いで、同じ山だと明言していました。(石鴨若宮のΜさん)
この山は別名兜岩といい、三境山の三角点名は「兜岩」です。高禅寺のことを山田郡誌に載っていた高園寺(梅田三丁目)に調べに行きましたが、住職は全く知りませんでした。それ以来、三境山と高禅寺のことは手掛かりがなく、今日に至っています。」
楚巒山楽会の提案した高禪寺山のピークはピークと呼ぶのをちょっと憚るようなピークです。当然三境山の一部です。三境山の中のちょっとしたピークを高禪寺山と呼ぼうという出来心です。
2007/12/5 球状安山岩は「三境山の溶結凝灰岩中の球状塊」と呼ぶべきだと、桐生みどりさんが見解を寄せられました。桐生山野研究会の“三境山”をご覧ください。
高禪寺山の名称を使いたいと思った出来心が波紋を呼びました。屋敷山についても、桐生みどりさんは別の見解をお持ちです。この辺り続けたいと思います。

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