青蔵高原

増田 宏 

 青蔵高原はヒマラヤ山脈の北側から塔里木(タリム)盆地にかけて広がる広大な地域で、西蔵(シーゾン)自治区・新疆維吾爾(シンチャンウィグル)自治区・青海(チンハイ)省に跨る。今夏、山仲間の大谷さんに同行して青海省の青蔵高原を訪れた。青海省の面積は日本の約2倍あるが、青蔵高原と沙漠が大半を占め、人口は五百万人しかない。漢族、チベット族、回族、モンゴル族など多民族の居住地域であり、蔵区(チベット文化圏)に属する。旧ソ連領キルギス・タジクを訪れて以来、私には三十年ぶりの中央アジアだった。両者は二千`以上離れているが、草原に放牧された羊が草を食む光景を見て同じような印象を受けた。

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 西寧まで
 早朝、熊谷から籠原始発の列車に乗って日暮里まで行き、京成線のスカイライナーで成田空港に着いた。朝の便で上海浦東(プードン)空港に行き、半日待って青海省の省都西寧(シーニン)に向かった。飛行機は1時間ほど遅れて午後11時頃、西寧に着いた。空港には青海省登山協会の呉(ウー)さん(44歳)が出迎えてくれた。呉さんは前年大谷さんが青海を訪れた時に同行した人だった。呉さんの車で空港から市街地のホテル西百賓館に到着。西寧は人口120万の大都市であるが、標高2200bの高原にあるため真夏でも涼しく快適な気候である。

 西寧から格尓木
 翌朝、呉さんの車で西蔵高原入口の格尓(爾)木(ゴルム)に向かう。西寧から格尓木まで800`、一般道を行くので相当の強行軍である。呉さんの親戚が経営する市街地のラーメン屋で朝食の牛肉ラーメンを食べてから出発した。まず日月峠(3520b)に登る。唐の皇女文政公主が吐蕃(チベット)王に嫁ぐ際にここを越え、故郷との別れを惜しむ情景を詠んだ漢詩を習った記憶がある。日月峠を越えると青海湖畔に出る。青海湖は標高3200bにある塩湖で中国最大の湖であることは高校の地理で習った。ここは青海省を代表する風光明媚な観光地で道端ではヤクの背に観光客が跨っていた。ヤクはウシ科の動物で、昔読んだ中央アジアの探検記では荷物運搬用に必ず登場する馴染みの家畜であるが、実際に見たのは今回が初めてだった。
 橡皮山の峠(3800b)を越えた先で昼食を食べ、もうひとつ3670bの峠を越えると都蘭(ドゥーラン)だ。ここまでは半乾燥地帯のステップで草原が続き、羊や牛・ヤクが放牧されていた。都蘭の南で柴達木(ツァイダム)盆地に出ると沙漠が延々と続く。変化のない真直ぐな道を車は時速100`以上で疾走し、うんざりする頃道端に街路樹が現れ、格尓木の街に入った。この日は市街地にある華星飯店に泊まった。夜は青海登山協会の馬(マ)さん、呉さんと4人で会食した。馬さんも大谷さんが前年訪れたときに同行した人で、2人とも西寧から私たちの旅に随行して来た。

 崑崙山脈
 今回の旅は崑崙(クンルン)山脈にある玉虚峰(ユースファン5933b)を南側の可可西里(ココシリ)から登ることが目的で、青海と西蔵を結 ぶ青蔵公路を辿り崑崙山脈を越えて南面から山に登る計画だった。
 翌朝、運転手兼料理担当の杜さん、案内人の冰冰(ビンビン22歳)と四輪駆動車(三菱パジェロ)で出発し、青蔵公路を南下して崑崙山脈を目指す。青蔵公路は片側一車線の舗装道路で大型貨物車が多く、時速100`以上で対向車線に出て追い越すのでそのたびにヒヤヒヤした。途中綺麗な泉が湧き出している崑崙霊泉を見てから岩山に囲まれた沙漠の中を川沿いに南下する。予定では崑崙山脈を越えるはずだったが、青蔵公路から突然西に分かれて砂利道に入った。行き交う車は殆どなく、沙漠の両岸に岩山が立ち並ぶ谷沿いに進む。後で地図を見てこの川が崑崙川であることを知った。1時間ほど行くとバラックのような木造建物が現れ、傍らには玉虚峰と刻まれた石碑と祠(廟)が3つ立っていた。玉虚峰は信仰(道教)の対象になっているらしい。ここに立ち寄って道を訊ねて崑崙川から南の支流沿いに進路を変えた。道のない河原を走り、川を渡る。車でのこのような悪路走行は初めての経験だ。標高4200b地点でこれ以上進めなくなったのでここを大本営(ベースキャンプ)とし、炊事用のテント1張と居住用テント2張を設営した。ここは半乾燥の草原でヤクの糞が多く、ナキウサギに似たマーモットが盛んに巣穴を出入りしていた。
 標高が高いので多少動悸がしたものの、昼食・夕食は普通に食べられた。昼間は空一面に雲が覆って遠望が効かなかったが、夕方には雲が切れて雪を纏った崑崙山脈の主脈が見えた。南面に比べるとかなり遠く、一抹の不安を覚えた。夜になると高度障害による頭痛が現れた。頭痛のため殆ど眠れず、朝方になって多少眠った。
 当初南側から登る計画だったが、なぜ北面に変わったのか説明はなく、運転手・案内者とも事情を知らないようだ。案内者の冰冰は登山ルートを知らず、地図も持っていない。翌日午前に冰冰が偵察に行って来た。その結果、川の対岸を車で奥に入ることにしたが、車の進入はできなかった。川は氷河の雪解け水で濁流となり、対岸への渡渉は困難である。そこで私の提案で川の右(西)側伝いに遡ることにした。午後出発し、2時間ほど歩き、川の右を少し登った標高4400bの尾根上で幕営した。流れていた水を煮沸して飲用したが、2人とも翌日下痢になった。ヤクの糞で水が汚染されていたようだ。 
 この幕営地に着いた頃から私は頭痛が激しくなり、寝ていても苦しく、上半身を起こして横になっているのが精一杯だった。何も食べられず、水を飲んだだけで寝袋に入った。大谷さんも食欲がなく、水を飲んだだけで寝てしまった。眠ると呼吸数が減るので忽ち苦しくなる。上半身を起こしたまま眠らないように頑張って朝を迎えた。
 私の症状が重いので大谷さんは冰冰と話をして下山することを決めていたが、朝になって若干回復したので私は前進を主張した。氷河に覆われた崑崙山脈を見たら前進以外の選択肢はありえない。玉虚峰から流下する氷河末端は氷瀑(アイスフォール)になっており、その下まで行ければ翌日山頂を狙うことは十分可能だと思えた。荷物を軽減するためテントを一つにして出発した。行く手には白い山波の左端に雪を纏った玉虚峰が聳えており、氷河末端の氷瀑を巻いて氷河上に出れば緩い傾斜なので難なく登れそうだ。途中野生のヤク3頭がこちらに向かって歩いて来たが、私たちに気付いて慌てて逃げ去った。ヤクは狩猟の対象になっており、生命の危険を感じたのだろう。
 しかし、なかなか氷河は近づかず、高度障害がある中で氷河末端まで行き着くのは困難なことが分かり、2時間ほど歩いた地点(標高4580b)で撤退を決めた。この日は大本営に戻ってそのままテントを撤収し、一気に格尓木に下った。そもそも南側からの当初計画でさえ3日間の日程で6000b近い高峰に登るのは困難であった。最低3、4日の高所順応期間が必要であり、まして変更になった北側からのルートは氷河に取り付くまでが長いのでなおさらである。

 格尓木
 格尓木は青海省の西北部を占める海西蒙古族蔵族自治州に属している。青海省は青海湖を境に6つの州からなり、海西とは青海湖の西を意味する。格尓木市は人口13万人、その民族構成は蒙古(モンゴル)族3割、イスラム教徒(カザフ族)3割、蔵(チベット)族2割で少数民族が8割を占める。漢族は2割に過ぎず、中国というより中央アジアの都市である。予定より早く戻ってきたので、2日間格尓木に滞在した。青蔵鉄道に乗って西蔵(チベット)に行こうと考えたが、西蔵に入るには事前許可が必要であり、青蔵鉄道に乗るのにも事前の予約が必要らしく、思い付きの旅は困難であった。格尓木駅に行ってみたが、列車は夜中しか運行しておらず、短区間の乗車さえ困難なことが分かった。駅で切符を買う行列を見たが、身分証明書を提示して航空機搭乗時のような安全検査を受けなければならない。私たちは駅舎の中にさえ入れなかった。
 格尓木滞在中、農民市場とイスラム寺院を訊ねた。歩道上で農民が野菜・果物・肉・魚を商っているのが農民市場で、野菜・果物は実に豊富である。市場の先に西清真大寺という寺があるので訪ねたところ、イスラムの大きな寺院だった。この付近は白い帽子を被ったカザフ人が多い。格尓木は標高2800bあり、朝晩は寒いので長袖長ズボンがほしい。
 街に滞在中は毎晩、会食が続いた。私は下痢が治らず、2日間欠席したが、大谷さんは毎回出席して青海特産の強い酒を飲まされて帰って来た。中国の人は会食が大好きで食べる量も多い。会食には青海省山岳協会の2人に加えて呉さんの友人や親戚も加わり、賑やかだ。大谷さんは仕事で中国に3年ほど赴任していたので日常会話程度は話せるが、複雑な話になると双方とも筆記して確認せざるを得ない。呉さんの友人馮(フォン)さん(43歳)を除き、英語が話せる人はいなかった。22歳の冰冰さえ殆ど話せず、山での意思疎通は十分できなかった。中国語をある程度話せる人がいないとこのような個人旅行は難しいと感じた。

 中国の登山手続
 中国の山に登るのには許可を要する。今回は大谷さんが中国で旅行社を営んでいる知人のゾウさんを通じて青海省登山協会に依頼し、同協会が西寧から先の移動・宿泊・食事の手配と案内者の配置など一切を受託する形で実行した。登山協会は登山許可の取得と旅行業務を受託する営利団体で今回の登山許可も同協会が手続きを代行してくれた。中国での登山は通常このような形態で行われている。旅行費用に比べて登山関係の費用が割高であり、ヨーロッパアルプスなどよりもずっと割高になるが、中国の山には未知の魅力がある。山に登る人は少なく、特に外国人は殆ど入っていない。青海登山協会は青海省の山を宣伝しているが、過去に登ったのは新潟県山岳協会くらいしかなく、来年も仲間を連れて来てほしいと再三依頼された。毎晩会食を催すのも観光宣伝活動の一環かもしれない。青海省は外国人観光客が少なく、日本人は殆どいない。格尓木の街を歩いていると同じアジア系なのにすぐ外国人と判るらしく、好奇の目を向けられることがしばしばあった。

 帰途
 帰りは格尓木在住の馮さんも同乗して車で西寧に向かう。途中で警察の検問があり、かなり待たされた。中国では一般道の走行も有料で都市の出入口に料金所がある。往路と同じ場所で昼食を食べたが、ここでは別の車で来た馬さんと冰冰も同席した。西寧では呉・馬・馮の3人のほかに呉さんの親戚の人を加えて6人で最後の会食をした。翌日ホテルに馬さんが迎えに来て市内で昼食をともにしてから空港に送ってくれた。上海で泊まり、翌日所要のある大谷さんを残して私だけ先に上海から帰国した。上海では空港と市内の往復に磁気浮上式の高速鉄道(リニアモーター鉄道)に乗った。ドイツの常温伝導磁気浮上式鉄道を導入したものである。中国の高速鉄道は日本・ドイツ・フランスの技術を導入したものであるが、技術導入の事実を伝えないため、一般の人は中国の先進技術だと思っているという。上海では地下鉄に乗る際にも荷物の透視検査がある。上海浦東空港で離陸が遅れ、朝上海市街を発ったにもかかわらず、この日自宅に帰ったのは夜10時になってしまった。
 格尓木滞在中に香港活動家の尖閣諸島上陸事件が起き、テレビは愛国主義的報道を繰り返し流していたが、漢族が2割の中央アジアの都市では領土問題など殆ど関心がないように見えた。漢民族以外の民族にとって中国人意識は殆どないのではなかろうか。
 なお、地名については文章作成上の都合から格尓(爾)木を除き、中国の簡体字を使用せず、日本の字体を用いた。中国の簡体字は極端な省略と音による字の置き換えで元の字(繁体字)との乖離が甚だしく、慣れない私には簡体字は風格に欠けると感じた。

 行 程
2012年8月12日〜20日
1日目   成田―上海―西寧
2日目   西寧―格尓木
3日目   格尓木―大本営(BC)
4日目   大本営―4400b地点
5日目   4400b地点―4580b地点―大本営―格尓木
6〜7日目 格尓木滞在
8日目   格尓木―西寧
9日目   西寧―上海
10日目  上海―成田

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青海湖畔の羊 青海湖畔 放牧のヤク
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西寧・格尓木間の道 大本営(4200b)
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大本営での食事 崑崙主脈
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4400bの幕営地 玉虚峰
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雲湧く玉虚峰 草原に生息するマーモット
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格尓木での会食 格尓木の朝市
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ムスリム(カザフ民族)の人々 西寧での会食(最終日)

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