桐生山野研究会

石尊山・深高山、湯殿山

桐生みどり 

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石尊山概念図

 石尊山という名前の山は関東周辺に多い。石尊山は相模国大山(丹沢)の石尊大権現を勧請した山である。大山は雨降山(あふりさん)とも呼ばれ、雨乞祈願の山であり、関東における修験道の主要な山であった。桐生周辺でもこの山以外に川内の仁田山城址と広沢(八王子)丘陵の唐沢山が挙げられる。この山は桐生では小俣の石尊山と呼んでおり、江戸時代からの信仰の山である。
 江戸時代の絵図には鶏足山と記されている。山麓にある鶏足寺の由来を記した鶏足寺来略記には次のように記載されている。
 小鳴る事にして石仏湧出す。方七尺の鳴る石あり、鳴山の石仏を勧請し釈迦如来を造立し本尊とする。
 石尊山の北麓にある鳴石が昔は山頂にあって鳴動しており、猿が藤の蔓を掛けて引いたので現在の位置に落ちてきたという伝説がある。江戸時代後期に石尊山を訪れた高山彦九郎の記録があり、鶏足山が石尊山に変わった経緯が分かる。高山彦九郎は安永8(1788)年7月の「小股行」の紀行で「下野国小股村石尊神祠へ詣ツ」と記している。
 三十年以前石尊祠を山上に勧請せしより年々人信をまし今かくなれり、もとより鶏足寺の山なるゆえに険阻なるところ二三丁上り、石尊の石祠 也、小也、西に大天狗東に小天狗
 この記述から鶏足山と呼ばれていた山に18世紀半ばに石尊大権現を勧請し、石尊山と名付けられたことが分かる。
 鶏足寺は大同4(809)年の創建と伝えられる名刹で当初は世尊寺と称した。慈覚大師円仁が巡錫し、天慶3(940)年、藤原秀郷が平将門を討った際に将門調伏の功により寺号を鶏足寺と改めた。

 叶花から石尊山・深高山
 叶花(かのうげ)の石尊宮を起点に山頂まで丁石が設置されている。石尊宮が四丁、頂上の石尊宮が二十八丁であり、丁石には安政十年と刻まれている。石尊宮には「奉寄進大天狗小天狗不動尊常夜燈」と記された常夜灯がある。石尊宮から沢伝いに参道を行くと八丁の地点に水場があり、傍らに不動尊が祀られている。不動尊は石尊大権現の本地仏であり、石尊山と名付けられた山にはたいてい不動尊が祀られている。不動尊には「天保二(1831)辛卯二月吉祥日 願主當國都賀郡惟木村前福寺院院來啓立之」と記されている。ここから急な道を登ると十三丁に女人禁制の石柱が建っている。いかにも信仰の山を感じさせるが、実際に女人禁制が行われていたかは分からない。急な道を登り詰めると十三丁で尾根に出る。ここから岩が露出した尾根を行く。尾根上はツツジが多く、まるで刈り込みされたかのように整っている。二十一丁の丁石には桐生居館の奉納者が刻まれている。碁盤石など名前が付けられた岩がところどころあり、採石場奥の稜線には仏の立像形をした釈迦岩が遠望できる。
 山頂の石尊宮には赤青二つの天狗面と「石尊宮 桐生三省堂印房」と記された大きな扁額が奉納されており、石尊山は主に桐生の人によって信仰対象にされていたことが分かる。石尊宮の周囲に祀られていた石祠三基と灯篭一基全てが東日本大震災で倒壊してしまった。
 なお、山頂は石尊宮のある場所(461b)で三角点のある場所ではない。三角点(486b点名叶花)は山頂から深高山方面に向かって少し行った地点で以前は藪に覆われていたが、最近、藪を刈り払って石尊山と記された大きな指導標が建てられた。最高点か三角点が設置されている場所が山頂だと思っている人が大半であるが、昔は岩場などその山を代表する場所に神仏を祀って山の名を付けたものであり、石尊大権現を勧請した場所が石尊山である。
 石尊山から歩き易い道を稜線伝いに辿り、登り下りを繰り返すと深高山(506b)に立つ。頂には石祠があり、「宝暦六(1756)丙子天九月吉日」と記されている。造立年代からこの石祠は石尊山に石尊大権現を勧請した頃に造立されたことが分かる。ロープが固定された滑り易い急な稜線を下ると右に粟谷への道を分け、まもなく猪子峠に着く。松田側に下りて猪子トンネル東側に行く道もあるが、出発地に戻るなら旧峠道をトンネル西側に下る。ここから県道を歩いて仙人ヶ岳登山口の岩切まで10分ほどである。石尊山・深高山を周回する場合は叶花の石尊登山口まで車道を歩いて1時間ほどで戻れる。トンネル付近のバス停からバスを利用することもできるが、1日3本程度なので利用する場合はバス便に計画を合わせる必要がある。
 なお、猪子峠の手前から粟谷方面に下ると5分ほどで粟谷と松田を結ぶ林道に出る。粟谷方面に林道を下ると20〜30分で粟谷の山神社に着く。社殿のそばには数本の大杉があり、足利市の文化財になっている。

 石尊宮(40分)山頂(30分)深高山(30分)猪子峠(20分)岩切

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石尊山・深高山(籾山峠から) 叶花から石尊山
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不動尊 女人禁制の柱
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石尊宮の扁額 深高山頂

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湯殿山概念図

 湯殿山
 湯殿山の名は1820年に出羽三山の湯殿山を勧請して名付けられた。出羽三山は日本でも有数の修験道の霊場であり、羽黒山、湯殿山、月山からなる。出羽三山信仰の中心が湯殿山で、御神体は温泉が湧き出す巨岩である。庶民の尊崇を集め、各地に湯殿山講が組織され、毎年参詣していた。容易に参詣できるようにするため、地元に湯殿山大権現を勧請したのが各地の湯殿山である。栃木県内にはほかにも湯殿山がいくつかあり、周辺の小俣叶花や五十部にもある。
 彦谷から車道を川沿いに行くと一軒屋がある。ここは昔、高松館という鉱泉宿で前の沢には不動尊が祀られている。すぐ上に彦谷湯殿山神社里宮と神楽殿があり、ここから表参道が通じている。里宮に社殿はなく、石鳥居と出羽三山を祀った石祠が三基あるだけだ。参道は表土が流失して岩盤が露出しているので雨の後は滑り易い。南斜面で風当たりが弱いため榊が多く、冬枯れの時期には暖かい雰囲気がする。しばらく登ると左の岩場に梵天があり、峰不動と記された不動尊が祀られている。岩の露出した急坂を登り切ると湯殿山神社の社殿と鳥居がある山頂に着く。中央の湯殿山を祀った石祠には「昭和十年五月再建、彦谷中」とあり、彦谷村で祀ったことが分かる。右の石祠には葉鹿・粟谷村・板倉村など近隣五村の名が刻まれており、左の石祠には「丙慶応二(1866)年四月朔日」と記されている。
 山頂から東に延びる尾根に岩場があり、石祠が祀られている。山頂から351b三角点までの間に四基あり、そのうち三基は粟谷村で出羽三山を祀ったものである。三角点そばの石祠は三つの石祠とは形式が異なり、山神と思われる。岩場を過ぎると送電線の鉄塔となり、鞍部から送電線伝いに送電線巡視路を辿って元に戻る。

 湯殿山神社里宮(30分)山頂(30分)湯殿山神社里宮

 東登山口から西登山口
 表参道以外に山頂から東西に延びる西尾根と東尾根に道が付いており、尾根の末端付近にある彦谷自治会館から周回することができる。東尾根の岩場には出羽三山を祀った石祠が連続するので、東登山口から登って西登山口に戻ることを勧めたい。指導標に従って自治会館から東に向かい、沢を渡って作業道を辿って尾根に取り付く。作業道はやがて整備された歩道になる。稜線伝いに辿ると天池の道標がある。天池は猪のヌタ場のような泥の水溜りでその名に全くそぐわない。すぐ先で表登山口に下る道を分け、さらにその先の鞍部で表登山口と粟谷に下る道を分けると鉄塔に出る。表登山口までは十分ほどで下れる。鉄塔の先からは岩場が現れ、三角点の傍らに石祠が祀られている。尾根は松が散在する岩稜となり、三つの石祠が続けて祀られている。最初の石祠が羽黒山、次が湯殿山で粟谷村中と記されている。最後の石洞には月山と記されている。
 山頂から西登山口に向かう。岩の露出した尾根が361b峰を下った付近まで続き、学校林上から中山登山口に下る学校林道を分岐する。中山登山口までは十分ほどで下れる。やがて尾根伝いに鉄塔がいくつか続く道となる。この道は送電線巡視路のためよく整備されており、やがて車道に下り立つ。ここは慶路(けいじ)坂(経持坂)と呼ばれ、彦谷と上野田を結ぶ峠になっている。傍らには馬頭観音の文字塔が数基祀られており、地蔵菩薩の刻造塔には「念佛供養施主當村中 安永四乙未(1775)歳十二月十六日」と記されている。ここから車道を5分ほどで出発点の彦谷自治会館に戻れる。

 彦谷自治会館(1時間30分)山頂(1時間20分)彦谷自治会館

 粟谷から湯殿山
 粟谷奥の人家の先から砂利道に入るとすぐ送電線巡視路が左に分かれる。橋を渡って巡視路を登り詰めると稜線の鞍部に出て東尾根登山道と合流する。送電線鉄塔を過ぎると稜線に岩が露出し、岩場に祀られた出羽三山の石祠を巡って山頂に着く。なお、以前は湯殿山から深高山に縦走路が整備されていたが、残念なことに途中の稜線が採石場の区域に入り、廃道になってしまった。

 林道分岐(30分)山頂

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彦谷からの湯殿山 高松館前の不動尊
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峰不動 山頂の湯殿山神社
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羽黒山石祠 湯殿山石祠

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