三境山(高禅寺山)

桐生みどり

山名について 

 三境山について山田郡誌には以下のとおり記載されている。(一部略字体に訂正)

三境山 高禅寺山 此の二山は共に梅田村大字山地及び勢多郡東村大字座間及び草木との三大字の境に相並びて屹立す、北部の最高峰を三境山、西南に連るを高禅寺山といふ。

高禅寺山の名は山腹の旧字高禅寺より起こりしならん。三境山は高さ一〇八八米、実に本郡第二の高峰なり。この二山共登路三條、一は字馬道より藤生山を経て登る。一は石鴨より屋敷山を経、一は大瀧より上藤生を経て登る。山中楢樹蓊蔚渓水一條藤生川と称す、流れて桐生川に入る。

 三境山と高禅寺山の二つの山があると記載されているが、以前地元石鴨の人に聞いたところ、三境山と高禅寺山は同一の山だという。山頂近くに三境山高禅寺という修行寺があったことから三境山とも高禅寺山とも称するという。郡誌の記述どおり梅田地内の字名は高禅寺である。一方、座間地内に字三境がある。寺の山号はその地の山名を使うことが多いことから考えると元の山名は三境山であり、寺の名が山名に転じて高禅寺山とも称するようになったと考えるのが自然である。字名から座間側で三境山、梅田側で高禅寺山と呼んでいた可能性もある。

 明治の大合併以前は山田郡山地村、勢多郡座間村、同草木村の三村の境であり、三境山(さんさかいやま又はみさかいやま)と呼ばれていたのが音読みになって三境山(さんきょうさん)となったのだろう。昔、梅田地区では主に高禅寺山と呼んでいたが、地形図に記されたことにより、近年は年寄りを除き三境山と呼ぶ人が大半だという。いずれ高禅寺山の名はなくなってしまうだろう。それを裏付ける資料として上野国郡村誌山田郡山地村(明治十一年)の項には次のように記載されている。

高禅寺山 高三百五拾丈、村ノ北方ニアリ、嶺上三分シ、北方勢多郡草木村ニ属シ西方坐間村ニ属シ東南本村ニ属ス、山脈西方坐間村ニ属シ北方沢入村ニ亘ル、登路一條、字馬道ヨリス、凡十町、山中樹木蓊蔚、渓水壱條、流レテ桐生川ニ入ル

これにより明治初期には三境山ではなく、高禅寺山と呼んでいたことが分かる。

 なお、この山には兜岩という別称があり、梅田地区では兜岩と呼んでいる人が多くいる。国土地理院が付けた三角点の点名も兜岩である。 
なお、隣接する座間村、草木村の項には三境山、高禅寺山いずれの山名も記載されておらず、字名が記載されているのみである。
上野国郡村誌勢多郡草木村
字横川山
本村ノ東方ニアリ、山田郡山地村ニ接ス登路嶮ニシテ一里三町嶺上ヨリ渓水アリ細流ニシテ字栗生野至ッテ渡良瀬川ニ入ル
字横川山の地名は横川集落の奥を漠然と指す呼称である。
上野国郡村誌勢多郡座間村
山の欄には記載なく、疆域の欄に字名が記載されているのみである。
 東ハ同郡草木村及山田郡山地村ト字大久保山峯ヲ界トシ  

三境山の伝説(白大蛇伝説) 

 山田郡誌には次のような伝説が記載されている。(一部略字体に訂正)

 梅田村大字山地と勢多郡座間村の村境に三境山といふ山あり、この邊に昔白色の大蛇棲み居て兎角に地方人の憂いの種なりき、二渡村の高園寺の出張寺なる高禅寺の僧に三境坊といふ山伏ありて、その話を聞き、白大蛇を退治して地方民の憂いを除かんとして魔術を以てこの白大蛇を駆り出し、既にこれを追ひし所、白大蛇は山を下りて桐生川の蛇留淵に入りて遂にその姿を隠したり、よって三境坊は二度といでこぬ様に、その場所に見張所をおきてこれを監視し魔法をかけたり、白大蛇もその術に恐れをなせしか、淵に入りてより姿を現さざりき、これによって民大いに喜び厚く三境坊に感謝する所あり、これよりこの処を蛇留淵と称し、法かけ橋切かけ橋の名今も尚存すといふ、三境山の名もこの三境坊に因めりといふ。

 地元では高禅寺のあった場所を高禅寺平と呼んでいる。高禅寺平と考えられる場所として私は山頂や山頂西側の平坦地を調べたが、痕跡を発見することはできなかった。高禅寺は梅田三丁目の高園寺の出張寺と伝説にあるので高園寺を訪ねてみたが、何の手掛かりも得られなかった。

 なお、山田郡誌には峠の項に三境峠が記載されている。
三境峠 梅田村大字山地字石鴨より勢多郡東村大字下草木に通ず
 峠道は地図に記載されているとおり屋敷山沢沿いを登り、三境山の南で稜線に出て山頂部西側を巻いて山頂北側から横川に下ったらしい。通行が途絶えて久しく、道型すら残っていない区間があり、峠の位置も不明である。三境峠は屋敷山沢を登り詰めて稜線に出た地点なのか、三境山の北で草木に下り始める地点なのか、あるいは特定の地点ではなく峠道を漠然と指す呼称なのかよく分からない。石鴨で聞いたところ、昭和二十年代までは徒歩による往来があり、峠を介して梅田地区と草木地区の婚姻がなされ、両地区には親戚関係が多かったという。

地質について

 地質調査所発行の五万分の一地質図幅足尾では三境山の山頂部は石英安山岩と記載されていた。近くにある地蔵岳・石倉山の山頂部も同様であり、非火山性の足尾山地でなぜ火山岩が分布しているのか私には不思議だった。地質学の進展に伴い今日では溶結凝灰岩と改められ、やっと私にも意味が判った。即ち大規模な火山活動で吹き上げられた火山灰が堆積し、熱で再び溶けて再固結し形成された岩石である。地蔵岳の溶結凝灰岩については約一千万年前との年代測定がなされ、三境山もその頃の形成と考えられている。この岩は硬く侵食に強いため、侵食に耐えて三境山や地蔵岳の山頂部が残ったものである。群馬県内でも利根郡の三峰山や大峰山・吾妻耶山などは同じ溶結凝灰岩だという。

 石英安山岩は岩質を指すので正しく表記すると石英安山岩質溶結凝灰岩となるらしい。最近は石英安山岩を使わないでデイサイトと呼ぶので、正しくはデイサイト質溶結凝灰岩である。デイサイトは安山岩と流紋岩の中間に位置する岩石である。デイサイトなどというカタカナ語では分かり難いので、流紋安山岩とか流安岩など適当な和名を考えてほしいと思う。

「球状化安山岩」について

 山頂南の肩に球状の塊を含む溶結凝灰岩が分布している。桐生ではこの岩を球状化安山岩と呼ぶ人がいるが、調査した知人の専門家の見解を要約すると次のとおりである。

 この岩は岩質的にはデイサイトであるが、溶岩ではなく火砕岩なので溶結凝灰岩と正さねばならない。成因はよくわからないが、球状の塊があることから「三境山の溶結凝灰岩中の球状塊」と呼んだらどうか。球状部と母岩はほぼ同質であり、外来岩質でないことは明らかである。他の火山でよく見られるような角張った類質岩塊とも異なる。一種の火山弾のようなもので完全に冷却固結しないまま火砕流の構成物質の一つとして一緒に流走してきたのではないかと思ったが、溶結構造が明瞭なので違う成因を考えなければならない。一連の噴火の初め頃、火口周辺に火砕物の集積によって溶結凝灰岩が形成され、それが冷却固化しきらないうちに巨大噴火に移行し火砕流の中に半固結のまま取り込まれたことも考えられる。逆に火砕流定着後又は定着中にできた構造であるかも検討しなければならない。

 知人の説のとおり、溶岩ではないので安山岩を止めて溶結凝灰岩とするのが私も適当だと思う。球状塊溶結凝灰岩でもいいと思う。

三境山の登路

 現在、三境山への一般的な登路は三境トンネルの座間側から馬道峠を経るものだけだが、以前は山田郡誌にあるとおり桐生側から三境山の登路は三つあった。馬道から馬道峠を経るもの、石鴨から屋敷山を経るもの、石鴨から上藤生を経て登るものであるが、現在は馬道峠と山頂間を除いて大半が藪に被われてしまった。三境林道から下部は殆ど歩かれていないが、林道から上部は藪を漕げば辿れる。藪が深い上藤生沢沿いの道よりも屋敷山沢経由の道の方が興味深いだろう。

屋敷山沢から三境山

 私が初めて三境山に登ったのは屋敷山沢経由の道である。石鴨集落の北(若宮という)から屋敷山沢沿いの道を登り、屋敷山集落跡を経て山頂に立った。集落跡には家屋の石積と石灰岩を切り出した跡が残っていた。足尾線開通以前はここから索道で足尾銅山に石灰岩を運んでいたという。

 現在は三境林道が屋敷山沢を横断する地点から登り始める。標高710m付近の屋敷山沢が二俣になった地点で左の沢沿いに入る。始めは左岸沿いに作業道が付いている。まもなく作業道はなくなり、沢沿いに進む。昔の道は殆ど残っていない。沢の源頭で右の斜面を登って尾根上に出ると道がはっきりする。尾根を登り詰めると大きな岩が積み重なっている箇所で主稜線に出る。ここから山頂まではすぐである。

 山頂には古い石祠があり、次のような銘文が刻まれている。(判読できた文字のみ記載した)

  安永二癸巳 十一月吉日 桐生山地 世話人

 1773年に桐生領山地村の人が造立したものである。山地(やまち)村は明治の合併で梅田村になり、梅田村は昭和の合併で桐生市になって現在に至っている。

 屋敷山沢の分岐から主稜線をそのまま数10m下ると球状塊を含む溶結凝灰岩の分布地点に着く。溶結凝灰岩が散在し、その殆どが球状塊を含んでいる。球状塊が脱落して穴が開いている岩も幾つかある。屋敷山沢にも球状塊が脱落して穴が開いた大きな岩がある。三境林道から沢沿いに少し下ると屋敷山集落跡に行くことができる。

 林道から山頂まで1時間半、下り50分ほどである。

三境トンネルから三境山

 三境山への明瞭な道は三境トンネルからの道だけである。トンネルの座間側に指導標があり、2〜3台の駐車余地がある。窪地から急な斜面に取り付いて稜線に出る。稜線を北に向かい突起を越え、屋敷山沢への分岐を過ぎるとまもなく山頂である。山頂まで標高差250mほどに過ぎず、登り40〜50分、下り30分ほどである。 

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