埋もれた日光修験の回峰行遺跡を探る
宿堂坊山の宿跡と石祠について
 日光白根山から袈裟丸山まで両毛国境周辺に連なる山域を足尾山塊という。その範囲は、金精峠以南の両毛国境を中心に、東を大谷川・渡良瀬川に、西を片品川によって挟まれる山域である。足尾山塊という名称は、足尾銅山根利林業所の存在に由来し、地域研究の対象としてこの山域に注目した市川学園山岳OB会の人たちによって広められた。
 白根・皇海・袈裟丸など一部の山を除いて足尾山塊主脈は登山道も整備されておらず、深い笹と薮に覆われて、縦走を試みる人は稀である。しかし、今から四百数十年以前の室町時代にこの主脈は日光山の修験者によって踏破されていた。近世の文献にはこれらの山々が修験者の回峰修行の対象になっていたことが記録されているが、このたび私達はこの事実を裏付ける遺跡を宿堂坊山周辺で確認することができた。
回峰行の歴史
 今から約1200年前、勝道上人は二度にわたる失敗の後、天応2年(西暦782年)3月、二荒山(現在の男体山)の初登頂を成し遂げ、念願の日光開山を果した。それ以後、上人の偉業を慕って修験者が日光に参集するようになり、鎌倉時代末頃までには日光修験の組織が成立し、室町時代にかけて全盛期を迎えた。
 当初は日光山(現在の日光表連峰)を舞台に心身の鍛練を行っていたが、修験の組織確立とともに単独の頂を目指すことからしだいに四季にわたって幾つかの峰を駆け巡る回峰行が行われるようになった。春の「華供峰(はなくのみね)」、夏の「夏峰」、冬の「冬峰」、秋の「惣禅頂」を合わせて日光では「三峰五禅頂(さんぷごぜんじょう)」という。華供峰・冬峰は開祖勝道上人ゆかりの霊地を辿り古峰ヶ原から日光南部の山々を踏破するものであり、惣禅頂は日光山の回峰行である。これら三つの回峰行経路を含み更に西方の足尾山塊にまで及ぶ大回峰行が夏峰である。後世の資料によると、この行は旧暦の5月12日から7月14日まで約二箇月に及ぶものであり、その経路は次のように考えられている。
 まず、神橋から大谷川南岸の峰伝いに中禅寺湖畔の歌ヶ浜に出て、中禅寺湖南岸から黒桧岳を登った後、千手ヶ浜から宿堂坊山に向かう。ここから主脈を北上し、錫ヶ岳・白根山・湯泉岳を経て日光表連峰を縦走し、女峰山から神橋に戻る。
 夏峰は大難行のため遭難者が続出し、天正年間に断絶したことを後世資料は伝えている。華供峰・冬峰の峰修行は継続され明治11年(1878年)に断絶するまで盛衰はあるものの以後数百年にわたり日光修験は命脈を保ってきたのである。
 近世以降も続行されてきた華供峰・冬峰・惣禅頂については、修行のため山中に設けられた「宿(しゅく)」の跡や遺物が現在も残っている。これに対して、中世末に断絶した夏峰については千手ヶ浜から湯泉岳までの経路上にはそれらの遺跡等は確認されていなかった。おそらく永い年月の間に深い笹と薮に埋もれてしまったのだろう。
新しい情報
 ここ20年、主に足尾山塊を登山の対象にしていた私は、三峰五禅頂のことを知ってからは夏峰の経路と宿に関心を持つようになった。しかし広大な山域で宿の遺跡を見付けるのは至難であり、何の手掛りもなかった。
 昨年、同じ足尾山塊を歩いていたOさんから根利山会の総会への誘いを受けた。残念ながら都合で総会には参加できなかったが、これを縁に同会の機関誌特集号「根利の歴象」を見せて貰った。この中に宿堂坊山に宿跡と石祠があり、修験者13人の名と弘治2年の年号が刻まれている青銅扉の記述があった。私は思いもかけない所で手掛りを見出し、早速事実関係を訊ねた。
 この石祠と青銅扉を見た人は、現在利根村平原に在住する延間の長さんである。長さんは戦前根利林業所が活動していた時、延間峠の鉄索中継所で仕事に就いていた。ある日延間の小屋に木曾御岳の行者が来て泊まり、その人から皇海山の剣のことや宿堂坊の石祠の話を聞き、休みに皇海山と宿堂坊山へ出かけたとの事である。宿堂坊については、昭和10年(1925年)8月末日に延間の小屋から三俣沢沿いに登り、源流で岩の間から水が湧き出している場所から少し登ると平地があり、カンバとツガの大木の根元に石祠を発見した。石祠には青銅の扉があり、修験者名と年号が刻まれていた。これを紙に書いてきたが、その後根利山の仕事が終わりになり、仕事の関係で足尾へ移住した。その際足尾の長屋にこの書付けを持っていったが、後に足尾から転居した時に置き忘れてしまったという。
石祠の発見
 この話を聞き、1986年10月にOさんと宿堂坊山に出掛けた。この時は、峰修行の経路を千手ヶ浜からと考えて、ネギト沢を遡行し、頂上から東に派生する尾根の上部と山頂を調査したが、見つけることはできなかった。
 その後、Oさんが再度長さんに照会したところ、場所は前述したように三俣沢から登った稜線上らしいことが分かった。そして翌年5月下旬、友人のAさんを加えた3人で再度調査に向かった。柳沢林道を少し行ってから宿堂坊の東尾根に取り付き、山頂に登ってから長さんに書いて貰った略図の通り南の主稜線上を探した。少しでも平坦な地形があると、片っ端から笹や薮をかき分けて探した。ヤジの頭との鞍部まで行ったが、結局見付けることはできなかった。
 地形と水の条件を考えると、どうやら宿の位置は南側ではなく山頂の西側鞍部が有力だということになった。ここは稜線縦走路中の泊場で平坦地になっており、ネギト沢の水場も近い。この日は雨が降ったり止んだりの生憎の天気だったが、西側に期待をかけて再び山頂を越えて西鞍部を目指した。
 西鞍部に着き、水場の銘板がある平坦地を、深い笹の中を三人で手分けして探し始めた。間も無く、Oさんが「あった!」と大声で叫んだ。慌てて駆けつけると、樹の根元に石祠があった。石祠は厚い苔に覆われ、台座部分が土に埋もれていた。周囲は深い笹が繁茂し、近年人が訪れた形跡は無かった。正面には長さんの言った通り青銅の扉がはめこんであった。石祠の位置は縦走路から北に僅か2〜3メートルしか離れていなかった。
 長さんの略図が参考になったが、図にあったカンバとツガの大木は既に枯れて無く、50年の歳月を感じた。周囲は深い笹に覆われており、長さんの話を聞かなかったならば、石祠を発見することは不可能であったと思う。
男嶽の宿
 青銅の扉には聞いていた通り、修験者名と弘治(こうじ)2年(1556年)の年号が刻まれていた。近世資料には、天正10年(1582年)に24年間中絶していた夏峠を再興するため真鏡房昌證という先達(せんだつ)が入峰(にゅうぶ)したことと、それ以後の記録を見ないことが記されている。天正10年の24年前は弘治4年(1558年)であり、青銅扉に刻まれていた弘治2年の年号はこの記述に符合するものであり、この石祠建立の僅か2年後には夏峰が中断してしまったことになる。
 青銅扉には、ここに男嶽の宿があり、金剛童子を祀ったことが記されている。元禄5年(1692年)に書き写された「補陀洛順峯入峯次第私記」は夏峰の入峯次第を記述したものだが、その中に男嶽宿の名が記されている。この石祠の確認によって夏峰の経路が足尾山塊を通っていたことを実証したとともに、男嶽宿の位置が確定した。足尾山塊で夏峰の宿の位置が分かったのはこれが初めてである。
 石祠の側には宿跡と考えられる平地があった。宿堂坊という山名はここに宿があったことを数百年間にわたり伝えてきたものであろう。この山を水源とするネギト沢はおそらく禰宜処(渡)(ねぎと)沢であり、回峰行に由来する名称であると考えられる。寂光の滝付近にも同名の沢があるという。
 なお、冬峰・華供峰にも守護神として同じく金剛童子が祀られていることを参考までに付け加える。
扉の碑文について
 次に今回確認した青銅扉に刻まれている銘文を列記する。旧字体・正字は一部新字体に改めた。当初、Aさんと共同で文字の解読と銘文の解釈を行ったが、一部確定できない文字と意味の不明な部分があったので、同年12月に日光修験の研究者N先生の御教示を受けた。
 表面には、修験者13人の名前と弘治2年に男嶽宿に金剛堂石社を新造したことが記されている。名前の冒頭にある「両」は「両峰」、「両先」は「両峰先達(りょうぶせんだつ)」、「正先(しょうせん)」は「正先達(しょうせんだつ)」の略で、修験者の位階を示すものと考えられる。たぶん、上に何もついていないのが新客、両を冠するのが度衆、先達の中では正先達が最上位であると思われる。
 裏面には旦那・助縁の氏名と願主が記されている。願主は文字通り発願者である。旦那は後援者であり、当時の寺社奉行のような日光山の有力者と考えられる。助縁は資金を出した協力者である。「両天三入伝」は、他で発見された銘文等と併せ考えると「両峰天台三昧入伝」の略であることが類推できる。
 「両峰」は冬峰と華供峰(春峰)で、両部法門の金剛界と胎蔵界を表す。「天台三昧」は密教の法流である天台宗の三昧流のことであり、「入伝」は「入峯伝法(伝灯)阿闍梨」の略である。天台三昧入伝については当初、全く意味を解せなかったが、Nさんの教示を受け漸く分かった部分である。伝法(でんぽう)、伝灯(でんとう)とは仏法を師から弟子へ伝えることであり、阿闍梨は天台宗の僧位である。
 願主の下に記載されている「甫一金三」等は寄進した田畑や金を示しているものと思われる。その左にある「●(写真参照)」は金石文に使用される仏語特有の略字で、菩薩のことである。次の「廿八」は二十八だが、具体的に何を示す数字なのかは分からない。二十八という数字自体に宗教的な意味があるのかもしれない。
 また、鏡徳房、深教房など房(坊)の幾つかは近世日光山八〇坊中に名前が見られ、真鏡房というのは天正10年に夏峰再興のため入峰した先達の属する房である。
今後の課題
 なお、石祠の中には一緒に釘が3本奉納されていたが、腐食の程度から考えると宿の建物に使われていたことも考えられる。釘の形状から年代を推定できるかもしれない。
 Nさんは、以前に千手ヶ浜の通称「仙人」からネギト沢を詰めた鞍部に石祠があることを聞いて、昭和30年代末の主脈縦走路伐開の頃から何回かここを探したが、見付からなかったという。「仙人」は熊狩りの際に祠を見付けたらしい。日光・足尾の山に詳しいK氏もこのことを伝聞で知っていたという。
 「補陀洛順峯入峯次第私記」によると、歌ヶ浜から寺ヶ崎・夕暮の宿を経て多和の宿に至り、ここから黒桧岳を往復した後に平地の宿・三ツ根の宿・柴宿・行者の宿を経て男嶽の宿に達している。このことから夏峰の経路は、中禅寺湖南岸を経て千手ヶ浜に至ったことが推測されるが、千手ヶ浜からどこを経由して男嶽宿へ達したのか記述からは分からない。この経路の解明は極めて困難な仕事だが、遺物等が発見できれば宿の位置が明らかになるので、地道な調査を続ける必要がある。
 また、Nさんによると、中禅寺の米屋旅館の主人が以前、沢を詰めた黒桧岳近くの尾根で石像を見たという。この場所が夕暮の宿か多和の宿である可能性があるので、見当を付けて重点的に調査すれば発見できるかもしれない。
 それから、足尾山塊主稜線上にあったと考えられる錫の宿・小池の宿・治田の宿など他の宿の位置についても、現在のところ全く分かっていない。これらの調査・発見も今後の課題である。

上記の文章は、1988年に回峯誌に掲載された桐生山野研究会の泙川さんの記事を表記その他、一部改め、個人名を伏せたうえ採録した。楚巒山楽会 代表幹事

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