残間山(サン)を歩く

 hisiyama


余談だが皆沢の中川(なかっかわ)の現在の遮断機より1キロくらい先の今では考えられない源氏屋敷と言う字(地名)に今風なら温泉センターがあったそうだ。二階建ての建物で花木(黒澤の)や後沢(トゾロリの)などからも峠越えで来たようだ。20数年前桐山研のメンバーでA氏、M氏、我が家のカミさんと自分とで野峰からおりて来たとき中川のあるお宅のお年寄りから聞いた話で桐生の町からも見える岩峰上のお宮は鍋岩山神とかお聞きした。明治、大正、昭和の戦前は奥地が栄えていたようだ。
柏久保からの残間登山口の景色 梅田ふるさとセンター手前の源五郎橋を渡ってカーブが終わって間もなくの広場。ここはS30年前後に梅田温泉のあった処と思うがハッキリとした記憶が無い。この頃は忍山の山光館とここ梅田温泉の二ヵ所が桐生市内からバスでお客を送迎してた。駐車はふるさとセンターから2、3分なので。 ワイヤーロープを使われる前からの橇道跡
寄日(よっぴ)峠の赤城さま ここの椿の森が桐生では一番だが、なにせ山の中なので誰にも騒がれずにある。余談だが昭和三十年代にバイク(ホンダの)が普及するまでは梅田の郵便配達は歩きで桐生川沿いの集落や上藤生などの山中の村が終わるとこの峠を越えて忍山へ行き忍山川沿いの集落や蕪丁、唐松、赤粉などの山中の配達が終わると現在の山光館の脇の大茂(だいもん)峠で高沢へ行き山中や川沿いを配って帰ったそうだ。大州から唐松、蕪丁へも行ったときもあったようだ。 このお宮の集落の名 
平(てーら)、寄日、中尾、とある 嘉永4年?
残間山脈(郡誌)の上から見えた米沢(よのさわ、とも、よさわ、とも言われる)米沢など今では完全に忘れられた邑だが昔は大いに賑わい酒でも米でもなんでもTELひとつで足尾から鉄索の帰りのハコで来たそうだ。また未だ桐生市内にTELが無い時代に電話や照明もあったそうだ。そして山で稼ぐ人は金回りは良いし又いつ事故に遇うか判らないのだろう芸人やゴゼ(茨城のゴゼさんが多かったようだ)さんが来て山で働く人を慰めて行ったようだ。また戦後の困難な時代、鉄索の残骸の金属を山で拾ってスクラップで売れたようだ。山に住む人に恩恵を与えた企業でその御子孫は川内に居られる。なお鉱山での殉難碑などもお参りしながら見るのも良いと思う。
稜線上から忍山の風景(高沢山脈の東面) 稜線上から鳴神山(たけさん)を見る 川内で聞いた方には(おたけさん)と言われる方もいた。 忍山林道の遮断機手前の景色
まだまだ先の残間山頂 残間山の小松山神 残間山で一番展望の良い地点だが岩峰上の狭いところにある。残間山神社のお祭りの時は米沢周辺の集落の人は米沢を遡行し小松さまへ行き、そこから稜線にでて少し南方向へ下り、残間山の白平さんへ行き、鎖場と鉄梯子で神社へ行ってまた戻ったそうだ、 皇海山と足尾山塊を書かれた桐山研のM氏
小松さまから見る桐生市と関東平野 見え始めた白樺 残間山頂 北は三境山、西は座間峠
この辺には熊棚はいくらでも見られる。糞を見るならガクラクボへどうぞお出でくださいと熊さんは言ってました。 稜線から見る忍山上流のガクラクボの岩場 この岩の上に白幣さんのお宮がある。 山頂でのhisiyama
山頂でのM氏 次は桐生周辺の深山でも書かれるのかな。hisiyamaが元気な中に桐生の山やって下されることお願いします。それにしても懐かしい場所。最初にM氏に遇ったのがこの先だった。それ以来二十数年ぶりにM氏と此処へきた。 去年おととしと伐採された国有林 広大な面積、次はどの辺を伐採するのか?持丸山の鋭鋒がワイヤーロープの下に左奥は鳴神山 ぽつんと残った白樺の木  

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