根本山

桐生みどり

根本山(1199m)は桐生川源流に聳え、流域の最高峰である。根本山について地誌には以下のとおり記載されている。

下野國誌(嘉永元年)

根本山神、下野國安蘇郡彦間村の山奥にあり、大山祇神なるべし、近年参詣のもの多し、先達大学院、大正院ともに本山の修験なり

安蘇郡誌(明治42年)

根本山神社 飛駒村の奥根本山上に在り、海面より直立四千七百尺、山上の祠は奥の宮にて拝殿は井戸の谷合とし、黒澤に在り、田沼より黒澤まで里程五里、山神は所謂五色天狗の一なる黒兵衛天狗にして、其霊験顕著しと伝へられ、上州口より参拝する者の為に、群馬県山田郡方面にも拝殿を建立せり

田沼町誌

大字飛駒字十二山、主祭神大山祇大神、配神薬師大神、明治一九、三九年二回の火災により社殿消失

山田郡誌(昭和14年)

根本山は本郡及接壤地に於ける最高峯にして、海抜一一九七米、北は十二山より氷室山を以て足尾の諸山に、南は熊鷹、丸岩、野峯を以して栃木縣の諸山に連る。山巓を行者山といふ。その下方約百米桐生川の溪谷に臨む岩頭に根本山神社を祀る、社域方四間許り側壁は硅岩の岩塊削立鐵梯子鐵鎖の外登降至難なり、社殿方一間四方破風入造上屋附にて建造頗精巧を極む、社側に鐘樓あり中に徑一尺九寸厚二寸高約三尺五寸左記記銘の釣鐘を掛く。登路に本縣及栃木縣よりする二條あり。この中本縣は梅田村大字山地より桐生川の溪谷を傅はりて登る。

開山と根本山信仰

「安蘇史」によると、役の行者がこの地に来て根本山と命名し、後に弘法大師が関東廻錫の際に登ってこの地が将来神爾の霊場になると言い、その後、良西行者が開山したことが記載されている。
根本山神社大正院の神官藤倉家の記録によると、根本山神社は天正年間(十六世紀末)に天台宗派の修験者良西行者によって開山され、麓に別当として大正院がおかれた。天正元年(1573)開山の伝承があるが、確かな記録はなく、それ以前のことも記録にはない。各地にある霊山と同様、役の行者と弘法大師の来山は権威付けのために作られた開山伝説であろう。
神仏習合で祭神は大山祇神、本地仏薬師如来である。その後、江戸時代に彦根藩の領地になり、江戸を始め関東一円に根本山の講が組織された。安政7年(1860)には根本山神社の江戸での開帳が許可され、根本山から江戸に向けて神輿の行列が出発したが、熊谷に到着した33日、領主井伊掃部頭直弼が桜田門外の変で暗殺され、江戸開帳は中止になった。明治時代になり、神仏分離により僅かな境内地を除いて社地を没収され、現在に至っている。

根本山の参詣路

安政6年(1859)に根本山参詣用に「根本山参詣路飛渡里(ひとり)安内」が出版されている。江戸日本橋から根本山まで旅籠を主に木版刷で描いたものである。江戸から熊谷宿まで中仙道を進み、熊谷から脇往還に入って妻沼宿・太田宿・桐生新町を通って根本山神社に参詣し、帰路は桐生新町から小俣宿・足利を経て北猿田河岸から舟で江戸に帰る行程になっている。
「湯澤観音橋」の図にある「名物根本煎餅」、「二タ渡り」の図にある「白幣宮一の鳥居」は現在見られないものであり、興味をそそられる。その先「山地村」、「根本山本坊入口」、「根本山本坊大正院」、「根本山御本社一の鳥居」、「津久原」の図がある。最後に「根本山御山惣絵図面之写」が掲載されており、「下野國安蘇郡根本山御山之圖」及び「根本山神社全景」(明治35年)とともに当時の神社の隆盛を伝える貴重な資料となっている。 

根本山の道標

桐生市内から根本山神社まで「丁石」と呼ばれる道標がある。根本山信仰が盛んだった江戸時代の末に設置されたもので、起点から根本山神社までの距離を標した四角柱の里程標である。起点が現在の本町二丁目、一丁が本町一丁目、二丁が天満宮境内、三丁が群大工学部脇にある。三丁は最近、歩道工事の際に群大側に移転されたものである。
石鴨天満宮前には「是ヨリ三十六丁」と刻まれた文政11年(1828)の道標がある。ここから先は根本山神社までの距離を示しており、神社に近づくにつれて数字が小さくなっていく。根本沢の登山道には「十三丁」、「十丁」、「九丁」、「六丁」などの道標が残っている。
また、下野側の参詣路にも同じような道標(丁石)がある。飛駒の黒沢から丸岩岳を経て十二山の根本山神社までの距離を示しており、「十三丁目」、「二丁目」、「壹一丁目」などの丁石が確認できる。田沼町誌に記載されている社殿は十二山の根本山神社のことである。 

行政区域と根本山信仰

地誌にあるように歴史的に根本山は根本山神社を指す。本社は根本沢の奥で、桐生にあると思っている人が多いが、行政的には栃木県(旧安蘇郡、現在は佐野市)にある。上州と野州の国境(群馬・栃木境界)は古来、桐生川になっていた。源流では根本沢が境界であり、登山道は途中から栃木県側の右俣に入るので神社は栃木県にある。地図を見れば山頂部も大半が栃木県に属することが分かる。一方で根本沢に至る道は上州側であり、根本山周辺だけが飛び地のようになっている。1968年に人の居住地だけ境界変更が行われたものの、根本山周辺は現状維持で手が付けられず、桐生川の源流部だけが栃木県という不自然な状態になっている。稜線を境界とする通例に倣い、皆沢から野峰・十二山を結ぶ稜線を境界にすればすっきりするのだが、県境変更は利害調整と手続が難しく、簡単に実現しそうにない。

根本山信仰については上州側と野州側、別々の参詣路がある。昔は双方から根本山神社本社を参詣していたと思われるが、十二山に根本山神社が祀られてから野州側の信仰対象が十二山根本山神社に変わったらしい。飛駒からの参詣路にある道標(丁石)が十二山根本山神社を起点にしていることからもそれが窺える。

根本山の登路

根本山の登路としてかつての参詣路が挙げられる。上州側から根本山神社への参道であった根本沢の道、野州側からは飛駒の黒沢から丸岩岳を経由して十二山神社への道である。
その他、桐生側からは直接山頂に登る中尾根の道、十二沢から十二山神社の東に登る道がある。飛駒から丸岩岳経由の参詣路については丸岩岳の登路に譲り、三つの登路を紹介する。

根本沢の道

根本沢は根本山周辺で唯一自然林が残っており、自然環境保全地域に指定されている。桐生川流域では珍しいシオジの自然林が沢沿いに分布している。道路終点の不死熊橋まで車が入れるが、数台しか駐車できないので時間が遅い場合は林道三境線分岐に駐車する。ここから歩いて数分で不死熊橋に着く。林道入口には遮断器があり、車は入れない。橋を渡って左の固定ロープを登るのが根本沢の道である。左岸(右側)に付けられた道をいったん沢に下り、再び左岸を高巻く。沢伝いに道は付いていないので見逃さないよう注意しよう。かなり高く登ってから沢に下りる。その先は右岸(左側)山腹を進む。山腹の道は足場が悪く、最近死亡事故が起こっているので注意が必要だ。沢に下りるとすぐ左から支流が合流する。この付近に十三丁の丁石がある。沢沿いに行くと六丁の丁石があり、そばに「川講中」と刻まれた石柱がある。近くには石祠二つが対になって祀られている山神様がある。
やがて、「根本山神宮」と刻まれた石灯篭、「弘化四丁未年四月吉日」と刻まれた石階供養塔を過ぎ、石段を登る。ここは明治35年発行の「根本山神社全景」図に記載されている石段の一部だ。石柱や石灯篭を除けば図にある隆盛時代の面影は全くない。その先に「天保七申年十二月吉日」と刻まれた石灯篭がある。沢が二俣になっている平が篭堂(殿)跡である。右俣に入り、鉄梯子を登る。ここが絵図にある不動滝だろう。まもなく根本山神社本社(奥の院)である。岩尾根上に鐘楼と本社が建っている。本社は岩を支点に固定されている。本社には立派な彫り物があるが、床が朽ちかけているので踏み抜く可能性があり、落ち着いて見ていられない。
ここから上は鎖場を登る。岩質はチャートだ。足場があるので木の根を手掛りにすれば鎖に頼らなくても登れるが、険しさを際立たせて霊験を高めるために付けられている。修験の山に鎖場は不可欠である。鎖場を登り切り、岩の露出した尾根を行くと石祠がある。絵図に載っている奥社だと思う。ここから雑木の尾根を登り切り、小さな頂を越える。ここが絵図にある「行者山」だとする説があるが、私は現在の根本山頂が行者山だと思っている。いったん下って登り返し、三境山・黒坂石方面の分岐を過ぎると三分ほどで中尾根十字路に着く。ここから10分ほどで山頂に着く。
山頂は樹林に囲まれて展望はない。根本山信仰の対象ではなかったが、現在の登山者にとってはここが目的地になっている。地元の人は青龍山と呼んでいた。ここを中心に尾根が三方に分かれている。東は十二山方面、北は三境山、南西が中尾根で、それぞれに道や踏跡が付いている。

  不死熊橋(2時間40分)根本山神社(30分)中尾根十字路 

中尾根

中尾根は根本山頂から根本沢・十二沢合流点に延びる尾根である。起点の不死熊橋から山頂まで標高差六百m、根本沢に比べて距離が短く登り易いので山頂まで短時間で登ることができる。以前は根本沢の道と途中まで一緒だったが、現在は取り付きまで林道を辿る。十二沢林道を行き、すぐ左に分岐する根本沢林道に入る。登山道入口まで15分ほどである。
檜の植林の中を電光形に登り、植林帯から雑木林の尾根道になると石祠に着く。丁度一休みするのにいい時間だ。石祠には「明和八辛卯年九月吉日」と刻まれている。1771年の造立で根本山周辺の石造物では最も古いものだ。中尾根は根本山の参詣路から外れており、この石祠は根本山信仰とは関係がなく、山仕事の安全のために祀られた山神様だと思う。
道は所々で尾根の右(東)側を小さく巻いている。植林帯を抜けて再びミズナラの雑木林になるとまもなく中尾根十字路に着く。東に十二山方面への巻き道、西に根本沢・三境山への道を分け、そのまま尾根を登れば山頂である。

  不死熊橋(40分)石祠(50分)中尾根十字路(10分)山頂

十二沢

不死熊橋から十二沢に沿って林道(通称十二沢林道)が延びており、この林道が十二沢を離れる標高九百m付近から沢に沿って歩道が付けられている。この道は通称十二沢登山道と呼ばれており、十二山の東方、氷室山と熊鷹山分岐のすぐ南に出る。林道歩きが長いので、根本沢や中尾根から登った際の下山道として利用されることが多い。ここでは根本山からの下山道として紹介する。

根本山から十二山には山頂から尾根伝いに行く道と中尾根十字路から稜線のすぐ下を巻く道がある。二つの道が合流するとすぐ十二山根本山神社に着く。ここには昭和61年(1986)に建てられた石宮があり、碑文に神社の沿革が記されている。それによると、祭神は大山祇神、本地仏薬師如来で、明和8年(1771)に石祠が建立され、寛政元年(1789)に本殿と拝殿が建立された。文化3年(1806)に薬師如来を護る十二神将が納められ、以後、十二山と呼ばれるようになった。傍らに篭堂が建てられ、明治29年(1896)から昭和2年(1927)まで神職が居住した。昭和3年(1928)に社殿が全焼し、その後、飛駒黒沢の有志により小宮と上屋が設置された。最近までその上屋は残っていた。
神社から尾根伝いに行くと氷室山方面と熊鷹山方面の分岐になる。いずれの道も山腹を巻いている。まっすぐ登れば尾根の分岐点に出る。地形図ではここを十二山と記載しているが、十二山は十二山神社を指す名称である。分岐から右の巻き道を行くとすぐ十二沢下山道の分岐になる。カラマツ林を下ると数分で水流が現れ、杉林になる。左岸沿いの道を下り、沢に下り立つとやがて林道に出る。

  中尾根十字路(20分)十二山根本山神社(15分)十二沢分岐(30分)林道(40分)不死熊橋

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