根本沢道 その3  

 hisiyama

鉄梯子を登る この頃はもう梯子に彫られた字が読みにくかったと思う。昔は雨の日など番傘に下駄で登れたと聞くが今ではとんでもない。昔は常に整備してたのだろう。忍山の蕪町と枯松の集落でも矢張り番傘に高下駄で行ったり来たりのお付き合いがあったそうだ。今ではとても考えられないことだ。 昭和48年頃の鎖。今とは鎖が違う。 当時の山はこんな木綿の服装で充分だった。最近は着るものも良くなった。昭和48年頃。

石の階段。これは今でもあると思う。 供養塔も今でもあると思う。その他根本沢には数多の石造物がある。 荒廃してた神社。とても危なくて入れなかったと記憶してる。

当時の鐘楼。釣鐘が無かった。 再奉納された釣鐘 戦前の釣鐘。大東亜戦争の敗戦の日の数日前に供出したそうだ。桐生駅まで無傷でもって行ったそうだ。恐らく敗戦の日は桐生駅にあったかもと思う。

平成5年に再奉納された鐘を早速撞く。 平成5年に再奉納された鐘。根本神社復興に尽力されたお名前がみえる。ここの根本山神社の里宮は入飛駒の今倉にあったが桐生川ダムの完成で今は城山への林道沿いにある。 鎖場をのぼる。神社より上の鎖は雨の日や特に冬など危険だ。

十二山の根本神社 平成5年
彦馬の(飛駒)根古屋にある根本神社が里宮
十二山の根本山神社。昭和48年頃 昔はこんな服装で普段の着るものが普通だった。 氷室山神社

十二山の神社から足尾方面に行き30分くらいで氷室山神社。氷室山神社は旧氷室村に里宮があり領主は宗対馬守で十二山の根本山は彦根の井伊家の所領だった。桐生の天満宮から十二の根本までは梅田の侠客の縄張りだった。氷室山神社から足尾までは明治の中ごろは足尾の山越一家の縄張りだったが、神梅の侠客との出入(抗争)があり神梅一家の縄張りに変わった、少し桐生方へ来て東に伸びてる尾根(作原森林組合の山)を数分降りると越路館跡(コージヤカタ)でサイコロでの遊びがあったようだ。足尾銅山の明治の大ストライキには、東毛地方や全国の政府に動員された侠客や遊人は政府側に付いた、と言われてる。最終的には高崎連隊が出て鎮圧したようだ。

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