桐生山野研究会

経塚山稜

桐生みどり 

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 萱野山から経塚山に連なる稜線について山田郡誌では經塚山脈とし、次のように記されている。
 經塚山脈は萱野山より岐れ、これ亦西南に延び、川内村大字山田、小倉の分水嶺をなす。先端に近く經塚山峙立す。
 山脈は大袈裟なので他の稜線と同じく私は経塚山稜と呼んでいる。山稜末端にある経塚山について郡誌では240bと記載されているが、桐生市の五千分の一地図では338bである。経塚山の名は荒船山など各地にあり、経を入れた筒を埋納した山に名付けられるが、ここではそのような伝説を聞かない。

 経塚山から自然観察の森
 地元の人によって麓の赤城神社から立派な道が整備されている。神社の東にある民家の下から墓地の脇を抜けて尾根に取り付く。尾根伝いに登ればやがて山頂に着く。三角点はないが、小倉川の対岸に吾妻山が大きく、その南には桐生の市街地が広がっている。
 ここから尾根伝いに小倉山に向かう。少し行くと尾根が切り通しで断絶しているように見えるが、右に回り込んで尾根はつながっている。不思議な地形である。335bの突起を南側山腹から巻くと鞍部になる。ここは小倉川と山田川の集落を結ぶ昔の峠で山麓の地名を取って花柄峠と呼ばれている。今は通る人はいないが、道形はしっかりしている。急斜面を登り詰めると小倉山(342b)に着く。ここから南に下れば崇禅寺に着く。経塚山稜をそのまま辿ると電波塔の立つ笹久保山(仮称361b)に着く。山頂東の三角点を過ぎると北斗七星を刻んだ霊符尊神の石塔がある。ここから下った鞍部が名久木坂だ。名久木坂は小倉と名久木を結ぶ峠道を指し、名久木峠とは呼ばなかったようだ。峠からに南に下ると2〜3分で自然観察の森内の遊歩道に出て、そのまま遊歩道を下ればビジターセンターに出る。近くに桐生駅前行きのバス停があるが、自家用車の場合は山麓を歩いて出発点の赤城神社に戻る。

 赤城神社(30分)経塚山(30分)小倉山(30分)名久木坂(15分)自然観察の森(40分)赤城神社 

 丸山から名久木坂
 大形山・萱野山間から西に派生する尾根の末端に丸山(372b)があり、ここは赤萩城址の一つといわれている。赤萩城は桐生城の出城で石尊山にあった仁田山城を中心とする砦の総称である。丸山は大形山を経て桐生城(柄杓山城)につながっているが、城址は丸山の山上ではなく、山麓にあったという説もある。なお、赤萩は丸山南麓の地名である。
 名久木と柳原の分岐に古い道標があり、右庚申道、左御嶽山三峯山道と刻まれている。右の庚申道が丸山に登る道であり、丸山の円頂が見える。橋を渡ると人家の裏に庚申塔がいくつかあり、その中に青面金剛の刻造塔があり、宝永三戌天(1706年)十一月と記されている。ここから丸山への道が付いており、道沿いに庚申塔が多く立てられている。登り切った平坦地には金毘羅宮の石祠があり、ここからか細くなった踏跡を登り詰めると丸山の山頂に着く。四等三角点と主図根点の標石があるだけで城址の痕跡は全く判らない。本格的な砦ではなく、物見台程度に過ぎなかったのかもしれない。
 ここから大形山に連なる主稜線までかすかな踏跡を辿る。この稜線上には白い岩がところどころ露出している。これは石灰岩で古生代末期から中生代初期にかけて暖かい遠洋の海底に堆積したものがプレートの移動ではるばる日本列島にやって来たのだという。足尾山地において石灰岩や玄武岩・チャートが砂岩や泥岩中に層状に分布していることはプレート理論によって初めて理解できる。
 大形山の西で主稜線上に出てからは関東ふれあいの道を辿り、岡平、萱野山を経由して名久木坂を下って元に周回することができる。道は萱野山を西側から巻いているので山頂に立ち寄る。藪に囲まれて展望は得られないが、四等三角点がある。名久木坂から電光形に付けられた峠道を笹久保の集落に下り、赤萩に戻る。名久木坂を南に自然観察の森に下ってもよい。どちらからも桐生駅前行きのバスがある。

 赤萩(35分 )丸山(2時間)主稜線(30分)萱野山(40分)名久木坂(20分)赤萩

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赤城神社 経塚山の登り
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経塚山頂 経塚山・小倉山間の稜線断絶箇所
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花柄峠 小倉山頂
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霊符尊の北斗七星 名久木の道標(右庚申道左三峯山道)
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丸山 赤萩の青面金剛
宝永(1706)三戌天十一月

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