桐生山野研究会

赤柴山稜

桐生みどり 

 鳴神山北方から桐生と大間々の境界を連なり、渡良瀬川の高津戸峡に至る稜線について山田郡誌では赤芝山脈とし、次のように記されている。

赤芝山脈は、川内村の西北にて鳴神山脈と岐れ、川内福岡両村界を西南に走り、川内村大字高津戸要害山に至りて盡く。長凡十二粁。赤芝山・石尊山・駒見山・三本木山・雷電山・角山・岩久保山・要害山等之に屬す。

 また、山脈中の主な峠として長尾根峠、櫻峠、十二峠を挙げている。

長尾根峠 川内村大字山田舊村より蓌生小路を經て福岡村大字長尾根に通ず。
櫻峠 蓌生小路より右に折れて福岡村大字小平字谷田に通ず。
十二峠 川内村大字山田字上仁田山字駒形より福岡村大字小平字孫に通ず。

 郡誌では赤芝と表記されているが、起点付近にある赤柴の地名から名付けられたものと思われるので赤柴の誤りと考えられる。山脈は大袈裟なので私は赤柴山稜と呼んでいる。従来山歩きの対象になっている山はなく、登山道は整備されていない。山稜上には南北朝から戦国期にかけて石尊山上の仁田山城を中心として雷電山上の谷山砦など桐生城(柄杓山城)を防御する支城群が築かれていた。山上には郭や掘切など城址の地形が残っており、歴史的に興味深い。尾根が渡良瀬川に没する先端の要害山には高津戸城があり、ここで討ち死にしたとされる里見兄弟の悲話がある。この話は大間々では大半の人が知っている有名な話である。

 里見兄弟の悲話
 里見上総入道勝広は桐生祐(助)綱に仕え、支城の赤萩城を任されていたが、祐綱の死後、親綱の代になって妬みによる讒言で謀反の疑いを掛けられ、攻められ命を落とした。越後の上杉謙信に身を寄せていた里見実勝・勝安兄弟は父の最期を聞き、謙信の援助で仇を討つため故郷に戻って要害山に城を築き、機会を狙っていた。上総入道を裏切って命を奪った石原石見守は桐生城を攻略した由良氏の家臣となって出世していた。兄弟は石原石見守の用命砦を攻めたが、察知した石見守はすでに逃げており、桐生城に兄弟の陰謀を訴えた。その結果、桐生・金山両勢の大群が高津戸城に攻め寄せ、志を果たすことなく、兄弟は非業の最期を遂げた。
 ただし、大間々町誌によれば里見兄弟の悲話は史実ではなく、江戸時代の合戦記「関八州古戦録」の記述にしか登場しないとのことである。確認したところ、関八州古戦録(関東古戦録)は享保十一(1726)年刊で、百五十年後に書かれた合戦物であり、里見兄弟の話は巻十の「里見上総入道父子始末事」及び「東上州高津戸陣事」に掲載されている。関八州古戦録の現代語訳関東古戦録(あかぎ出版)においても里見兄弟の話は同時代の史料になく、軍記中で作られた挿話であるとの考えが記載されている。

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 赤柴山稜上部 赤地山から鳴神山稜分岐
 赤柴山稜上部の十二山から南に派生する尾根の末端に蚕影(こかげ)山がある。平久保集落から蚕影山に登り、赤柴山稜に出て赤地山を往復してから山稜上部を鳴神山稜の分岐まで辿った。
 吹上バス停から平久保沢沿いの車道を辿り、平久保集落に向かう。行く手には岩場に松を配した蚕影山が見える。人家で道を尋ねると、「蚕影さんは蚕の神様だよ。右の沢伝いの道を行き、途中から左に曲がる」と答えが返ってきた。昔は左右に分かれた沢の両方から道が付いていたが、左の沢は荒れているので右の方が容易とのことである。蚕影さんは山ではなく、敬称のさんである。
 右の山道を登ったが、分岐が見付からず、そのまま行くとやがて杉林の中で道はなくなってしまった。前方に林道が見えてきたので杉林の中、左の山腹を登った。急傾斜の雑木林を登り詰めると尾根に出た。尾根を南に登ると僅かで蚕影山だ。岩の露出した山頂周辺だけ針葉樹に覆われており、石垣の上に石祠が祀られている。石祠には「明治廿三年寅旧三月 □□中」の銘文が刻まれている。
 尾根伝いに林道梅田小平線に出て西に10分ほど辿ると林道の切り通しに着く。ここから西に赤柴山稜を辿り、706b四等三角点(仮称高鳥屋山)を経て赤地山を往復した。この稜線には明瞭な踏跡が付いており、途中露岩があった。戻って切り通しの小平側から東側の尾根に取り付いた。こちらの稜線にも明瞭な踏跡が付いている。十二山(797b)には三等三角点がある。次の突起は北側に迷い込みそうになり、軌道修正して東側の急斜面を下ると明瞭な尾根になった。急斜面には殆ど踏跡は付いていない。下り切った所に針葉樹が叢生しており、石祠がある。「大正十四年一月吉日 小平中」、正面に「十二山」と刻まれている。このすぐ先が十二峠で小平側には道形が付いているが、赤柴側はすぐ下が林道で道形は確認できない。旧道を赤柴側に下ると釣堀跡に出るという。
 稜線伝いに踏跡を辿り、登り詰めると雑木の中に大きなブナが1本だけある。山田郡誌にある赤柴(芝)山は特定できななかった。赤柴山は赤柴集落の奥にある山の総称で特定の頂を指すわけではないようだ。ここから5分ほどで鳴神山稜の分岐に出た。ここから椚田、鳴神山登山口を経て吹上に戻った。

 吹上(15分)平久保(30分)蚕影山(15分)林道切り通し(1時間)赤地山往復(30分)十二山(20分)十二峠(1時間)鳴神山稜分岐(20分)椚田(1時間10分)吹上

 赤地山から雷電山
 砂防堰堤を越えて赤地沢沿いの林道を行くとまもなく終点となり、沢沿いの作業道を辿る。しばらく行くと道がなくなり、沢伝いに登る。沢の分岐を左に入ると杉の植林帯になり石垣の上に石祠と卵塔(僧侶の墓石)があった。ここには昔、墓地があったのかもしれない。沢の中が歩き難くなったので途中から右の尾根に上がり、急な尾根を詰め上げると赤柴山稜に出た。ここから北に山稜を辿り、赤地山に向かう。山頂直下は急斜面になっており、西に派生する最高点から僅かに下った所に古い石祠が三つ祀ってあった。銘文はないが、江戸時代のものと思われる。この辺が地元の人がいう赤地山らしい。
 ここから赤柴山稜を南下する。しばらく行くと三角形の山容をした駒見山が見えてくる。駒見山の最高点から西に派生する支尾根を下って登り返した突起に三角点がある。ここを高倉山と呼ぶ人がいるが、駒見山三角点の方がいいと思う。山稜上に戻って駒見峠に下り、さらに石尊山北の突起を越えて山稜を辿る。階段と石祠がある地点が三本木峠だという。山稜を登り詰めると四等三角点のある雷電山(谷山砦跡)に出る。周囲を掘割が囲み段になっているのが観察できる。ここから山稜を離れて南に向かう。篠藪の酷い尾根を行き、少し登り返すと石祠がある。銘文は刻まれておらず、いつのものか確認できないが、江戸時代のものと思われる。次の頂に雷電社と愛宕社の二つの石祠が並んでいる。地元ではここも雷電山と呼んでいる。ここからはしっかりした古い参道が付いており、八幡神社裏まで続いている。

 赤地沢入口(1時間30分)赤地山(30分)駒見山(1時間20分)雷電山(1時間)八幡神社

 石尊山から駒見山
 三堂坂から人家の脇の山道を登る。はっきりした道を登ると途中に石祠がある。石尊山(506b)の山上には石尊大権現の石祠を中心に右に大天狗、左に小天狗の石祠があり、不動尊と鐘がある。この鐘は戦中の供出を逃れた貴重なものだという。鐘には「嘉永四(1851)年辛亥歳七月吉日 上野國山田郡上仁田山村願主惣村中 奉納石尊大権現大天狗小天狗天下泰平國家安全」とあり、石祠には「文政十(1827)丁亥六月吉祥日上仁田山村中」と刻まれている。ここは地域の中心的な山城である仁田山城址で、緩い尾根を利用した城郭になっている。ここから北に連なる尾根には背後から城を防御するため掘切が3箇所設けられてある。尾根伝いに赤柴山稜に出て駒見峠を経て駒見山を往復した。山頂付近から西に支尾根を少し下って登った所に三角点(584b)があり、ここから西に百bほどの所に石祠が3つ並んでおり、中央の祠には「石尊宮小平山正福寺寄進邑中」と刻まれ、左右の祠には大天狗、小天狗と刻まれている。ここは小平側では高倉山と呼ばれている。駒見峠から峠道を下ると林道になり、棒谷戸で県道に出た。
 棒谷戸の赤城神社から石尊山に登る道もある。神社の裏から尾根に取り付くとすぐ巨岩の下に石祠があり、「享和三年(1803)亥十二月吉日上仁田山村」と記されている。このすぐ裏の平地に木造の神社があるが、周囲がトタンで覆われているので中は見えない。雑木林から檜の造林地になると右から作業道が登って来る。作業道の終点から稜線を登り切ると石尊山の頂上に着く。

 三堂坂(50分)石尊山(40分)駒見山(15分)駒見峠(30分)棒谷戸  
 赤城神社(40分)石尊山

 雷電山から長尾根峠
 長尾根峠の登り口近くにある八幡神社から参道と思われる道を雷電山に登った。参道の終点(320b)に二つの石祠が並んでいる。雷電社と愛宕社でいずれも同じ時に建てられたものだ。雷電社には「明治二十四年十一月吉日建之 山田郡川内村大字山田村甲組信者中」と刻まれている。ここが皿久保砦で長方形に削った平で土塁が残っているという。ここから尾根伝いに雷電山に向かうが、篠藪が酷い区間がある。途中に金毘羅山(377b)があり、頂上部は削られて平坦になった砦址になっている。ここにも石祠が祀られている。
 雷電山(450b)は谷山(やつやま)城址で山頂は三角形の削られた平坦地で三方向に連なる尾根に掘切を設けてある。石祠があり、「奉造雷天神宮 中仁田山村中 正徳六(1716)丙申天三月吉祥日」と刻まれており、約三百年前のものだ。この谷山砦は里見上総入道勝広最期の地と伝えられ、石祠のある場所は塚のように小高くなっている。
 稜線を西に辿り桜峠にでた。峠まで小平側から車道が延びている。稜線を辿って長尾根峠まで行こうとしたが、稜線の曲りで針路を誤り、林道に出てしまた。長尾根の集落を経由して長尾根峠を経て川内側に戻った。

 八幡神社(1時間30分 )雷電山

 赤柴山稜下部 要害山から桜峠
 赤柴山稜が渡良瀬川に落ち込む末端にあるのが高津戸の要害山である。ここは高津戸城址になっており、大間々の人にとっては馴染み深い場所だ。ここから赤柴山稜を辿り桜峠まで残った区間を縦走した。
 要害山の駐車場から要害神社を経由して老人ホーム下り口までは遊歩道として整備されているが、その先はゴルフ場に取り込まれてしまった。初めはゴルフ場との境界を行ったが、藪が深いので途中からゴルフ場内を歩いた。場内はどこから高速の球が飛んでくるのか判らないので恐い。危険なので場内を歩かないでくださいと言われたが、ほかに選択肢はないので強引に場内を突き進む。クラブハウスの裏から急斜面を這い登ってようやく山稜上に出た。山田郡誌に載っている岩久保山(394b)は気付かないうちに通り過ぎてしまった。
 稜線上の踏跡を歩いているうちにいつの間にか東に派生する尾根に入り込んでいた。山稜に戻って少し行くと長尾根峠に出る。山田郡誌に載っている角山はどこだか判らなかった。長尾根峠で会った川内の老人は、岩久保山は知っているが角山の名は聞いたことがないと言っていた。車道を西に回り込んで擁壁の切れた場所から反対側の稜線に取り付く。稜線上の踏跡を辿って小さい上り下りを繰り返すが、尾根が東に曲がる地点を通り過ぎてしまった。戻って分岐を探したが、地形が不明確でどうしても判らなかった。低山の針路選定は難しい。やむなく藪に突っ込んで強引に下って林道に出た。林道を北に少し行った所から右に取り付いて山稜上に戻った。この取り付きは篠藪が深い。尾根を少し辿って斜面を下るとやっと桜峠に出た。小平側は鍾乳洞から林道がここまで登って来ている。川内側の峠道はしっかりした道形が残っており、15分ほどで長尾根峠に向かう車道に出ることができた。この区間はゴルフ場と藪の稜線で歩く価値は全くない。赤柴山稜の縦走は桜峠で打ち切るのが無難である。

 要害山駐車場(1時間30分)長尾根峠(1時間30分)桜峠(30分)川内みやま園入口

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蚕影山 蚕影山石祠
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十二山頂上 十二峠石祠付近
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赤柴山稜分岐付近の大ブナ 赤地山の石祠
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駒見(高倉)山石尊宮石祠 石尊山の本地仏不動尊
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石尊山の梵鐘 雷電山(谷山砦)石祠

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