古代の菱は鉄の里
〜地名から菱の語源と歴史を探る〜
1 はじめに
 桐生市菱地域の地名は、実に多彩で不思議な地名が多い。島田一郎著『桐生市地名考』(2000年)の菱町の字・小字の地名を何度となく見た。そのうち、菱は古代鉄生産の里だった、と仮定して地名を読めば、この地名の謎がかなり読み解ける、と考えるようになった。
 菱地域は、市内でも製鉄遺跡が集中した地域である。市内に三十カ所ある製鉄遺跡の内、二十カ所が菱にある。とくに、上小友遺跡は、関東地方でも最大規模の製鉄遺跡である。(増田修「第二回歴史シンポジウム桐生2004報告」)
 そこで、たとえば“蟹(カニ)焼沢”という地名は“カネ(金)焼き沢”のことで、そこはかつての鉄生産の場であった、と作業仮説を立てて、実際に菱町野黒川上流の現地で、鉄生産に関する証拠となるものはないか歩いて調べる、という作業を開始した。現地に鉱滓など何か証拠となるものが出ないことには、鉄生産地を立証したことにはならない。しかし、これがなかなか難しい。千年以上前の埋もれた遺物を探すのは、大変な作業である。
 菱地域におけるこの作業は、まだ継続中である。しかし、伝承されてきた地名を作業仮説として、古代の歴史を探ることも有効であることがわかった。また、今まで意味不明であった地名が、名の由来が想定できたものもあるので、ここに報告する。今回の報告の推定によれば、菱地区には、まだまだ鉄生産遺跡が存在することが予想される。
 図に、桐生市教育委員会による『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』(1994年)の鉄生産関連遺跡分布と、今報告での関連地名等を示した。
2 鉄生産に関する地名
 『桐生市地名考』(前掲)の菱地区の字・小字の地名の記述を基に、鉄生産に関すると推定される地名を拾い上げ、現地を調査した。未調査の場所もまだある。ただし、『桐生市地名考』の記述では、字・小字の地名語源は鉄生産に関連づけられてはいない。以下、鉄生産に関係が想定される地名である。
A 米沢地区
●金場(かなば) 言葉通り鉄(かね)の生産場。
●扇平(おおべら)、大平(おおひら) 扇平は小友地区にもあるので、扇平・大平は姥穴山のすそに三カ所ある。谷川健一編『金属と地名』(1998年)によると、オオダイラ、デエダラはタタラ(鑪、踏鞴)のこと。たたら製鉄に関連した名で名はないか。
●細田(ほそだ) 菱の中でもここは、広い面積のある田なのに、細い田とは。これはホト田のことではないか。ホトとは、谷有二著『日本山岳伝承の謎』(1983年)によると、たたらの火処(ほど)のことで、女陰(ほと)にもイメージしている。つまり、たたら製鉄があった田のことではないか。
●米沢(よねざわ) 『桐生市地名考』によると、ヨネとは砂のこと。だとすると、その砂とは、たたら製鉄の砂鉄のことではないか。今のところ、米沢地区から砂鉄層は発見できていない。
B 小友地区
●風穴(かざあな) カナナ(鉄穴)またはカネアナ(鉄穴)では。大蛇の住む大穴があるという伝説の地。調べてみると、この穴と呼ばれているのは、子供が立って入れるくらいの窯跡だった。『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』(前掲)には、この窯跡は記されていない。風穴地区からの製鉄跡の報告もない。
 この窯跡から100mほど北の場所では、赤く錆びた鉄滓を発見した。まだ鉄分が含まれているのが、磁石を近づけるとわかる。たたら製鉄窯があったことが想定される。カナナ、カネアナが、千年の後、カザアナになったのではないか。
●金場(かなば) 風穴のすぐ近くにある。米沢地区にあるのと同じ地名で、同様に鉄の生産場ではないか。また、金場・風穴に近接して「駒 転」(こまころばし)という地名がある。このコマは高句麗のことか、気になる地名。
●赤坂(あかさか) アカのつく地名は、金属に関する地名が類推される(前掲『金属と地名』)。赤は、酸化鉄の色を現わしている。字・小字には入っていないが、すぐ近くに「風呂の上」と呼ばれる場所がある。この風呂とは、溶鉱炉のことで、たたら製鉄の所在地だったのではないか。
●城ノ岡(しろのおか) 城は白(しろ)ではないか。白の語を使うのは渡来系(新羅)の名に多い。八坂橋のたもとには白山神社がある。白山神社も朝鮮半島の白山信仰に由来する、と大和岩雄著『日本にあった朝鮮王国』(1993年)ほか。また、やや時代が遡るだろうが、宿ノ島には積石塚古墳がある。積石塚古墳も同じく渡来系の古墳といわれている。
 これらのことから、城ノ岡や宿ノ島地域には、半島の渡来人の存在が想定される。もちろん、渡来人は製鉄の技術を持っていて、鉄生産に従事したであろう。
●金屎台(かなくそだい) 『菱の郷土史』(1970年)に記されている地名。金屎とは、鉄滓のことで、まさに製鉄場だったことを示している。桐生市文化財保護課の話では、雨乞山の下の小沼橋の近くには製鉄遺跡がある、という。
●烏ケ寝戸(からすがねど) カラスの寝場所とは、不自然な地名だ。それなら他所にも同様の地名があってもよいはずで、これは本来の名が変えられているのではないか。語感からは、「からのかねと」(韓の金人)が、もとの地名ではないかと考えられる。もしそうならば、白葉峠のすぐ下のこの地に、半島の渡来人がいたことになるのか。さらに近くには、関東でも最大規模といわれる上小友製鉄遺跡もある。そこで、地質調査をかねて現地を調べた。
 烏ケ寝戸の沢の入口に、窯の破片と思われる赤く錆びた塊を発見。この沢を入ってすぐの一帯が、鉄錆のチャート層が分布する。これほどの 鉄分を含むのは、市内他の地域ではあまり例がない。この地域は、わずかに泥岩質の所もあるが、ほとんどが熱を受けて変質したチャート層 で、隣の「細ケ入」の沢から「酸漿沢」まで同じチャート層が分布。その中で、マンガン採掘跡の穴を発見した。穴の下にはマンガンの真っ黒なズリがたくさん落ちている。当時の人たちが、製鉄にマンガンを使う技術を持っていたかは、不明。
 以上のことから、この地に渡来人がいた証拠そのものは発見できなかったが、かなり鉄くさい場所である。また、次に述べるように、この周辺に気になる地名が密集する。今後時間をかけて調査してみた居場所である。
●酸漿沢(ほおずきざわ)、細ケ入(ほそがいり)、谷ケ入(げげいり) この三地名は、前述の烏ケ寝戸のすぐ近くに位置する。酸漿沢は、上小友製鉄遺跡の谷を挟んで反対側の沢になる。この沢が、植物の酸漿が多いためについた地名ではない、ということはすぐわかる。
 酸漿とは、『古事記』で須佐之男命が退治した八俣の大蛇が、「赤い酸漿(かがち)の如く目をしていた」の酸漿ではないか。その八俣の大蛇の尾から取り上げたのが草那芸之大刀だった。この話は、鉄生産(大刀)の技術または技術集団を獲得する例え話と受け取れる。大蛇の赤い酸漿とは、製鉄炉の燃えさかる火が、夜などには赤く不気味に見えたものであろう。鉄の山地としては、注目される地名だ。
 細ケ入のホソは、前述のたたらを表わすホトではないか。ここの沢だけが細い地形をしている訳ではない。
 谷ケ入のゲゲとは、意味不明の気になる地名だが、この地域にあるということもあって、何かを物語っている。
C 小友一色地区
●蟹焼沢(かにやきざわ) “はじめに”で触れたがカニヤキザワは、カネヤキザワ(金焼沢)だったのが、千年ほど経つうちに変化したのではないか。つまり鉄生産の場が想定される。この地域は、マンガンが大量に産出する所だが、当時、マンガンを採集・採掘したかどうかは不明。  この付近一帯を調べてみたが、鉄滓などは発見できなかった。いずれは精査したい場所である。
●腰巻(こしまき)、烏兎土地(おととち) 蟹焼沢のすぐ下流域にある変わった名の地名である。コシマキは、コシキ(甑)が訛ったのではないか。また、腰巻の方がおもしろいので、故意に変えたか。甑とは、製鉄の炉のこと。烏兎土地は、意味不明だが気になる地名。
D 下菱地区
●神屋(かみや) カミヤは、カネヤ(金屋)のことかどうか。近くに「とい口」の地名があるのも気になる所。
●田福庵(たふくあん) 最初、タタラフキ(たたら吹き、吹くは精錬のこと)だったのが訛ってタフク(田福)になって、その後、田福の地に庵ができて田福庵となってのではないか。ここ文昌寺の裏山には、鉄滓がたくさん出る場所がある。『桐生市埋蔵文化財分布図・地名表』には、遺跡としての記載はないが、鉄生産の地にまず違いないであろう。
E 下菱中里地区
●金葛(かなくず) 金葛とは、金屑で鉄滓のこと。地名になるほど鉄滓がある、ということは鉄生産の地であろう。この地は、次の祖父ケ入にも接している。
F 上菱地区
●祖父ケ入(じがいり) おもしろい地名だが、『菱の郷土史』では、「椎の木が沢に生い茂っていた谷」なので「椎谷入」からジガイリになった、と。『桐生市地名考』では、「ひじのように沢口付近から曲がっている沢」でヒジガイリのこと、と記されている。
 祖父ケ入の沢にも白山神社がある。前述のように、半島渡来系の神社なので、つまり製鉄技術集団に関係がありそうなので、神社周辺を調べた。わずかだが、窯跡の一部か鉄滓と思われる塊を発見した。『桐生市埋蔵文化財分布図・地名表』には、遺跡としての記載はないが、この地もなんらかの鉄生産の地だったのであろう。
 したがって、地名のジガイリは、ガジガイリ(鍛冶ケ入)だったのが、長い年月の後に、“カ”が省かれてジガイリになったのではないか、と想定される。
●穴切(あなぎれ) 穴も切も鉱山用語である。過去の採掘跡があるのでは、と踏査した。チャート層中に、現代になってからのマンガン採掘抗はあったが、古代の採掘跡らしきものは発見できなかった。このマンガン坑の近くに、湧水を伴っているので小さな断層だと思うが、酸化鉄を多量に含んだ真っ赤な粘土層がある。『桐生市地名考』では、行き止まりにならないで東西に通じる細長い沢、となっている。
3 製鉄の材料と技術者集団
A 砂鉄の供給
 当時、菱地域での製鉄の原料は、砂鉄であろう。黒川上流地域に、黄鉄鉱の薄層を挟む泥岩質があるにはあるが、稼動できるほどの量は産出しないだろう。菱地域に供給されたであろう砂鉄層は、菱町の隣の梅田町三丁目高沢の忠霊塔の下に大量にある。およそ五万年前、桐生川を塞き止めてできた湖の堆積層で、主に赤城火山の降下軽石を供給源とし、磁鉄鉱からなる砂鉄を豊富に含有している。(『桐生史苑』第41号「桐生地域の地質5」2002年で筆者が報告)
 黒川流域には、大量のマンガン鉱があった。マンガンを含んだ石は、川底で酸化して、墨をぬったように真っ黒になる。黒川の名の由来は、このマンガン鉱であろう。ただ当時、マンガンを製鉄に使う技術を持っていたか不明である。製鉄だけでなく、マンガンの採鉱も目的として、菱地域を鉄生産地に選んだのか不明である。
B 渡来人
 宿ノ島の積石塚古墳は、時代はやや遡るが、半島渡来人の存在を示す。初期の製鉄技術集団は、渡来人の場合が多いといわれる。菱地域の製鉄技術集団も、渡来人が中心だったのではないか。半島渡来系の神社といわれる、白山神社が二カ所ある。同様に“白”の付く“城の岡”や“白葉峠”などの地名も半島渡来人との関係があるだろう。菱地域の製鉄の技術は、渡来人によるものであろう。
4 菱の起源について
A 語 源
 菱の語源については、アイヌ語説など今までにも色々議論があった。『菱の郷土史』では、「菱の語源は瓶子(へいし)つまり須恵器を焼いた窯」、となっていてヘイシがヘシ・ヒシになった、としている。『桐生市地名考』では、「菱は岸の転で桐生川は菱側の山麓を削り岸壁を作り…」、とキシがヒシになった、としている。
 筆者は、字・小字名にも鉄生産地だった名がよく伝承されていることからも考慮して、“菱”という地名自体が、鉄を表わす地名だと考える。
 真弓常忠は『古代の鉄と神々』(1997年)の中で「ヒシ、ヘシ、ペシは鉄を意味する古語」と述べている。たしかに、『倭名類聚鈔』(承平年中931〜938年)の十三巻十五表には、「比之(ヒシ)は鏃字也」と記されている。さらに、真弓常忠は「ヒシ・ヘシの語が南方系海洋民の鉄・鉄斧を意味する語である」と述べている。つまり、ヒシ・ヘシの語は、マレー半島からフィリピン、台湾、琉球弧を通って群馬の地まで、鉄生産の技術とともに伝播されてきたことになる。
 語源で気になっていたのは、菱や菱周辺では、“ヒシ”でなく、“ヘシ”という人が多かったことだが、上記の説ではどちらでも同じ起源である。また、島田一郎氏によれば、「菱村は日本で当村のみ」である。当地が“ヒシ”名の北限かもしれない。非常に貴重な“菱”なる地名である。
B 時 代
 筆者は、菱でこれら鉄生産が盛んに行なわれた時代は、奈良時代の末期から平安時代の初期だった、と考えている。想定される時代で、とくに鉄の需要が多かったのは、大和朝廷による東北の蝦夷征伐の時であろう。とくに坂上田村麻呂とアテルイの戦いに代表される三十八年戦争である。おそらく当時は、東毛地域一帯が大和側の武器・物資・人材の補給基地、中継基地となったであろう。
 桐生市広沢町の加茂神社と桐生市宮本町の美和神社が官社になったのが延暦十五年(796年)。また、桐生市新里町の山上の多重塔が建立されたのが、延暦二十年(801年)で、このことは、この地域がこの時代、中央との交流がかなり盛んであったことが想定される。
5 おわりに
 この報告は、主に『桐生市地名考』の地名の記述に基づいて調べたものである。本来の地名学的見地からすれば、『桐生市地名考』の地名語源の解釈が正統的であることは、充分承知はしている。しかし、菱地域の場合は、鉄生産地という特殊性があると考え、主観的に調べてみた。
 まだ、調査の途中ではあるが、菱地域には、鉄生産地としての地名が、比較的よく伝承されている、と考えるに至った。そして、地名を作業仮説として、古代の事象を探ることは可能であることがわかった。
 『菱町かるた』(1998年)を作成の時、編集の中心となった今西文夫氏が、「菱には宝がたくさんある」、とよくいっていた。まさに地名も宝に加えていただき、永く伝承されることを願うものである。

日本地質学会員 藤井 光男

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