桐生地域の地質(2)


手前の大きな石は赤城火山の安山岩、丸い石は当時の渡良瀬川に流されてきた石、角張った石は火砕流・土石流で運ばれてきた石


右の二基が凝灰岩、左の一基は安山岩でできている

(4)新生代
(ア)古第三紀
 桐生周辺では、中生代が終わって新生代になっても、およそ六千万年間の地層の分布が欠如しています。その理由として、この期間現在の日本列島あたりは、中国大陸の一部になっていて、地層を作る堆積作用がほとんどなかった、と考えられています。今からおよそ二〜三千万年前頃になると、現在の日本海あたりがようやく陥没し始め、海が入り込み、日本列島の原形ともいえる島々ができ始めました。
 今からおよそ三千万年前かそれよりも古い時代の新生代古第三紀の地層が、桐生市の茶臼山、笠懸町の鹿田山と荒神山、太田市の金山などに分布しています。これらの地層は、金山流紋岩類と命名されています(須藤定久 1976)。流紋岩類といっても溶岩そのものではなく、流紋岩質マグマが噴出したときに、軽石や火山灰が堆積(凝灰岩)したり、高温の溶岩・軽石・火山灰が押し流され(火砕流)堆積したものです。化石がほとんど産出しない地層なので、年代は推定でしかありません。三千年前かそれよりも古いというのは、推定です。
(イ)第三紀中新世…グリーンタフの海
 今から一〜二千万年前の新生代第三紀中新世の地層は、桐生周辺では各所で確認されています。この時代の岩石の特徴は、緑色した凝灰岩が多いことです。この岩石は、だいたいが海底火山の火山灰や軽石が海底に堆積してできたもので、地層から取り出されてすぐは緑色しているのでグリ−ンタフ(緑色凝灰岩)と呼ばれています。なぜ緑色になるのか、詳しいことは解明されていませんが、海水の作用ではないか、といわれています。グリ−ンタフでよく知られているのは、宇都宮市から産出する大谷石でしょう。大谷石は、みかげ石などの他の岩石に比べて、軟らかく加工しやすく、火に強いので建築材としてよく使われています。
 この中新世のグリーンタフが分布する地域は、桐生市内では八王子丘陵の籾山峠付近、新里村、笠懸町、薮塚本町、太田市、岩舟町、大平町、鹿沼市、宇都宮市、と足尾山地を取り巻くように広範囲に及んでいます。これは何を意味しているのでしょう。海成の堆積岩層が、足尾山地の周辺だけに分布し、足尾山地のいわば本体からは発見されない。これは、当時すでに足尾山地が存在していた、ということではないでしょうか。ちょうど、中新世の海に現在の足尾山地ほどの大きさの島が、存在していたのではないでしょうか。以下、この「古足尾山塊島(さんかいとう)」ともいえる島の周辺の、陸と海との境界付近の地層に書かれた記録を見てみましょう。
1)新里村の貝化石
 1970年前後、新里村の新里駅のすぐ南の石山で化石がたくさん産出して話題となりました。休日などには小高い丘の石山は、子供からお年寄りまで化石採集の人々で賑わっていました。この石山もグリーンタフで、およそ一千万年前の海性生物の化石と植物化石がたくさん採れました。産出した化石は、現在のホタテ貝によく似た海や赤貝の仲間など各種の二枚貝類、巻き貝類、ウニやフジツボ、木片や木の葉やアシなどでした。木の葉の化石が出るということは、当時は陸に近い海だったことを物語ります。つまりこのあたりが、古足尾山塊島と中新世の海との境界だったことになるでしょう。
 同じく1993年、新里村野地区の桐生広域清掃センター建設工事中に、ゴミの埋設予定地を掘っていたら、変わった地層が出てきたので見にこい、という連絡があり見に行きました。露出した地層は、かつて渡良瀬川が流れた跡に、赤城火山が噴火したときの土石流・火砕流の地層と、その下位に成層し一部粘土化したローム層でした。そして、帰るときにグリーンタフがころがっていたのを偶然見つけました。よく見ると、白い貝の化石が入っていました。ローム層の下から、ほんのわずか中新世の海の地層が顔を出していたのです。おそらく岩相から見て、新里村の石山と同じ地層でしょう。これは、赤城山南部の扇状地の下を何十メートルか掘ると、グリーンタフが基盤岩として存在している証拠でしょう。赤城山をそのまま除いてみれば、おそらくその下は、グリーンタフと足尾層群の地層でしょう。
2)笠懸町の馬見岡凝灰岩
 笠懸町の天神山も、グリーンタフからなる山です。ここでは、地名をとって馬見岡(まみおか)凝灰岩と呼ばれています。この馬見岡凝灰岩は、風化面とも言える地表に現れている部分は、不純物の少ないきめの細かな、灰白色がかった淡黄色をしています。万葉集の東歌に「しらとほふ小新田山の守(も)る山のうら枯れせなな常葉にもがも」と詠まれているのは、どこの山のことか論議されているようですが、白砥(しらと)とは馬見岡凝灰岩のことでしょう。馬見岡凝灰岩からも浅海性生物の化石が発見されています。ホタテ貝によく似た貝を始めとして、普通の二枚貝類、サメの歯、ピソライトなどの化石が発見されています。産出される化石や岩質から、馬見岡凝灰岩層と新里村石山の凝灰岩層とは同じ地層と考えられます。
 馬見岡凝灰岩層で珍しいのは、ピソライトという化石が産出されることです。この化石の発見は、筆者が桐生少年科学クラブの子供たちと見学に行って、偶然に見つけたものです。ピソライトというのは、豆石とか火山豆石といい、雨滴が球状の化石となったものです。馬見岡のピソライトは、きめの細かなパウダー状の火山灰に、降雨時に大粒の雨がしみ込み、そのまま化石化したものでしょう。つまり、一千万年前の雨の跡です。ということは、陸でできた地層ということになります。このように、当時ははここで陸と海が入れ替わる地域でした。
 馬見岡凝灰岩のもう一つの記すべき点は、古墳時代の石室や中世の石仏・墓などの石材に使用され続けてきたことです。馬見岡凝灰岩は、中世の重要な石材であり、東毛地区をはじめ埼玉県・栃木県にまで流通していたことが確認されています(笠懸村史 1985年)。菱町の文昌寺にある細川内膳(1544年没)の墓も、岩質から馬見岡凝灰岩が使用されたものでしょう。
3)薮塚石
 薮塚本町の八王子丘陵は、グリーンタフがたくさん分布しています。薮塚本町のグリーンタフは、薮塚石という名で採掘されていました。当時の採掘跡がスネークセンターや北山古墳の奥で見られます。薮塚石は、主に建築材として利用され、耐火性に優れているというので竈(かまど)としても売り出されていたようです。外見上、薮塚石は大谷石とほとんど区別がつきませんが、薮塚石の方が小石などの不純物がやや多い感じです。薮塚石の採掘は、昔から行なわれていましたが、明治の終わり頃から近代化され、大正時代に最盛期を迎え、昭和30年頃に閉山したと伝えられています。最盛期には、採掘に携わる労働者が300人いて、薮塚駅までトロッコが敷かれていた、と伝えられ、いかに盛んに採掘されていたかがわかります。ちなみに、大正の始め頃、薮塚石一本の工賃が5銭で、酒一合と同じ値段だったそうです。採掘が閉山に追い込まれたのは、薮塚石が風化しやすく利用が激減したため、といわれています(薮塚本町史 1995年)。
 薮塚石の地層は、大部分が海底に火山灰や軽石が堆積してできた地層です。一部は陸に堆積したと考えられるものもあります。湯の入の温泉神社の少し北の露頭で、中学生が小さな植物の化石を発見しています。それは、一千万年ほど前の陸の植物化石です。また西山古墳近くに、溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)と呼ばれる陸でしかできない地層があります。溶結凝灰岩とは、火山が噴火し、火口近くのため、火山灰に混じって噴出した溶岩が、まだ冷えきらない高温の液状のまま堆積したもの。堆積してから冷えて固まったため、重さでレンズ状に潰れ、急に冷えた部分は黒曜石みたいなガラス質になっています。ちなみに温泉神社の石段の両側にある石の灯籠(とうろう)は、この溶結凝灰岩で作られています。黒いレンズ状のガラス質の様子がよく見られる灯籠です。
 このように、溶結凝灰岩が噴火口近くでできるということから、この時代、薮塚本町もしくは笠懸町あたりのどこかに、大きな火山が存在していた証拠となります。これらのことから、当時の薮塚本町あたりも海になったり陸になったりしていた、と考えられます。
 この他の古足尾山塊島時代の地層として、岩舟町岩舟山の採石場の木の葉化石、鹿沼市東部山地の貝化石、宇都宮市の大谷層の貝化石などが知られています。
(ウ)三境山
 桐生市と東村の境にある三境山(1088m)は、桐生周辺では珍しく独立した火山性の山です。周囲の古い時代の海成の堆積岩の山々の中で、ちょうど海の中に浮かぶ火山島のように、ぽつんと首を出している山です。三境山を形づくっている岩質は、石英安山岩という火山岩です。実は三境山は、ほとんど調査されたことがなく、それほど詳しいことはわかっていません。おそらく、一千万年ほど前、足尾方面の火山のマグマの一部がこちらで噴出したものでしょう。このマグマは、グリーンタフを噴出したマグマと源が違っていたのではないでしょうか。
 三境山で特筆したいのは、写真のように球状になった石英安山岩があることです。この存在を最初に発見し教えてくれたのは、桐生山野研究会のAさんでした。どうして球状になったのか未だに謎です。珠の中もまわりの岩質と同じ組成の石英安山岩です。マグマが噴出するとき、他の岩石を取り込んで、冷え固まったわけではありません。かつて、地学団体研究会の連絡誌に写真入りで紹介し、全国の会員に成因を尋ねましたが、誰からも解答がきませんでした。

(5)地形と地質
(ア)吾妻山の成り立ち
 桐生地域の人々に親しまれている吾妻山は、地形と地質の関係が理解しやすい山です。また吾妻山は、ハイキングなどで訪れる機会も多いので、身近に観察できる山ですので“吾妻山はなぜ高いのか”紹介しておきましょう。
 吾妻山の地質調査は、主に1985年から1991年の間、筆者と市内の小中学生からなる桐生少年科学クラブでかなり詳しく調査しました。小中学生が中心となってのこれほどの調査は、全国的にも珍しいものと自負しております。この報告も、その時の調査結果に基づくものです。
 標高481mの吾妻山は、足尾山塊が関東平野に没する位置にありながら、比較的高く急峻な地形をしています。吾妻山は地質の分布の仕方から見ても足尾山地に含まれます。吾妻山の地質は、1砂岩層、2溶岩層、3チャート層の三つの地層からなり、足尾山群の典型的な地質分布をしていて、それぞれの地層の性質が地形の特徴を現わしています。吾妻山の地質を簡単に述べると、軟らかい砂岩層地域は、浸食されて低くなだらかな地形をしています。固い溶岩層とチャート層の地域は、浸食に強く飛び出た地形をしています。またチャート層は、地層面がそのまま、地形の斜面を作っている場合があります。それでは、吾妻公園からトンビ岩を通って頂上に行くコースの順で見てゆきます。
1)砂岩層区域
 吾妻公園から登って、海抜約250mまでのなだらかな区域。この区域は、砂岩層が主体です。公園内の道脇などに見られる、薄茶色のザラザラした感じの地層が、この砂岩層です。やや火山灰が混じった感じの砂岩で、大小のチャートが礫として含まれている場合もあります。この砂岩層は、軟らかいため削られやすく、なだらかな地形を作っています。
 この区域の砂岩層ができたのは、推定で、今からおよそ一億五千万年前頃の中生代ジュラ紀の海洋底です。砂岩層が主体ですから、陸からそれほど離れていない、比較的浅い海底に積もってできた地層です。それに対して、チャートは深海でできた地層です。深海でできたチャートが、浅い所の砂岩層に含まれているのは、チャートが移動したため、と考えるしかないでしょう。おそらくチャートは、プレートと呼ばれる海洋底の地層の移動に乗って、何千kmか移動して、最後は大規模な“海底地滑り”によって、砂岩層の中に入り込んだものでしょう。そんな地層撹乱の理由もあってか、この砂岩層からは、化石が発見されません。この砂岩層は、全般的に北から約60度東の方向にのび、約80度南に傾斜しています。
2)溶岩層区域
 砂岩層区域から急斜面を登って、トンビ岩を含む海抜約350mまでの区域。この区域は、全て溶岩層です。暗い緑色が特徴の玄武岩質の溶岩です。この溶岩層は、場所によっては“枕状溶岩”になっています。トンビ岩は枕状溶岩の出来損ないで、枕状らしき所も見ることができます。トンビ岩の周辺では、はっきりした枕状溶岩を何カ所かで見ることができます。この溶岩層は、見るからに固い感じですが、実際に吾妻山周辺でも最も固い地層でしょう。これだけ固いと、雨風の浸食や風化にも強く、周囲の軟らかい砂岩層が削られても、溶岩層は残ります。遠くから吾妻山を眺めると、この溶岩層の部分が飛び出ているのがよくわかります。この溶岩層がいつ頃できたかは、よくわかりませんが、おそらく今から二億年ほど前のことでしょう。枕状溶岩のでき方は少し変わっています。枕状溶岩は、海底火山のマグマが噴出するのに、深海のため海水の強力な水圧で押さえつけられて、マグマが自由に噴出できないで、少しずつ細切れに噴出したものです。やっと噴出して、今度は急に冷えて固まるため、枕や俵のような楕円体になります。枕状溶岩ができるためには、水深が一千m以上必要といわれています。しかし、一千何百度もの高温の火の玉のようなマグマが、暗黒の深海で噴出するのはものすごい景観です。枕状溶岩ができる様子は、現在でもハワイ近海などでよく観察されています。
3)チャート層区域
 溶岩区域より上の頂上までの区域。この区域は、ほとんどチャート層で急峻な山頂地形を形成しています。このチャート層は、厚さ2、3cmから10cm位の層が積み重なっている層状チャートです。チャートは、一層一層がはっきりと区別できるのが特徴です。このチャート層は、全体が熱を受けて焼けています。何の熱を受けたのかよくわかりません。
 チャート層の表面を見ると、山の斜面の傾きと地層の傾きが、ほぼ一致している箇所が多いのに気付きます。また、チャート層の伸びている方向と、吾妻山の尾根の方向がほぼ一致していることもわかります。このチャート層は、全体的にほぼ東西方向に伸び、40〜50度南に傾斜しています。つまり、吾妻山の山頂地形は、チャート層が形づくっていたのです。そして、チャートは緻密で固いので、トンビ岩の溶岩と同じように、雨や風の浸食・風化に強いので、山頂部分も削られずに残ったのです。これが吾妻山が高い理由です。このチャート層がいつ頃できたか、正確にはわかりませんが、おそらく今から二〜三億年前の大洋の深海でできたものでしょう。
 このようにして、砂岩層、溶岩層、チャート層の三地質の特徴を見てくると、吾妻山の周辺のこともわかってきます。たとえば、現在の堤町一丁目の東堤沢の地域が、ずっと奥まで平地になって入り込んでいますが、過去にはそこが吾妻山の裾の一部だったはずです。しかし、そこが砂岩層の地域だったため、浸食で削られて、平らになったのです。
 さらに遡ると、丸山は水道山と繋がっていました。今は、ぽつんと独立している丸山ですが、過去には吾妻山の裾の一部だったのです。丸山は、北側に砂岩層があり、南側がチャート層になっています。丸山のこの地層の構成は、吾妻山の地層そのものなのです。堤町一・二丁目と宮前町一丁目の上毛電鉄が走っているあたりも、かつては、吾妻山の一部だったのですが、地層の分布が砂岩層だったため、浸食されて平地になったのです。この事実も、1991年に桐生少年科学クラブとの調査で発見しました。(桐生タイムス 1991年1月12日号)。また、吾妻公園入口の御嶽山や水道山が、地形として飛び出ているのは、チャート層の山のため、浸食されずに残っているのです。
 最後に、吾妻山調査のもう一つの成果として、堤町三丁目小倉峠付近での断層群の発見がありました。青葉台の地質はチャート、小倉峠付近は溶岩の地質で、本来はどちらも固い地層なのですが、とくに小倉峠の地層は、断層のためもろい地層になっています。ここでは一定しない方向の五本の断層が確認できました。小倉峠の道路が、崖崩れで不通になることがあるのは、このためです。ただし、この断層は、新しい時代の断層ではないので、地震などの心配はありません。しかし、断層運動で破砕帯ができたりして、地層が脆くなっているのです。
(イ)茂倉のお釈迦様の断層崖
 吾妻山とは反対に、菱町五丁目茂倉沢釈迦ノ窪のお釈迦様の像の存在は、意外と市民に知られていません。さらに、そこに見事な断層地形があることは、ほとんど知られていないようなので、見学案内をかねて報告いたします。
 菱町五丁目上菱浄水場から、桐生川にかかる跳滝橋の横を通って、さらに100m足らずで右へ入ると茂倉沢です。茂倉沢を300mほどいって、最初の分かれ道を左(東方向)へ曲がります。曲がった所の南に飛び出た崖の地層は、チャート層です。チャート層に接する東側は、泥岩層になっています。自動車は、ここまでしか入れません。この後は、しばらく沢の上流方向への一本道です。さらに200mほど歩くと砂岩と泥岩が混ざったような地層が見られます。この地層は、海底地滑りなどで再堆積した地層です。さらに少し歩くと、所々に赤茶色の石が落ちています。これは頁岩(けつがん)ですが、このような赤い頁岩には、よく放散虫の化石が含まれています。
 さらに進むと、標高300mくらいで道が消えます。水流の少ない沢を歩きます。地元の人はここを「なめり沢」と呼んでいます。実際良く滑りますので注意。なめり沢から200mほど行くと、沢が二つに分かれます。標高は約350mです。この沢の南側の崖は、チャート層です。この崖は、何かに切断されたように、表面が平になっています。これは実際、断層運動で切られたもので、崖が断層面です。この断層は、北から30度西方向に伸び、80度北に急傾斜しています。大規模な断層面で、この先に何かがあるのを暗示しているようです。ここから先は、露出する地層の岩種はチャートばかりになり、チャート帯に入った感じです。二つの沢は、左側の沢を行きます。人の歩いた跡がほとんどないので注意が必要です。
 最後に、200mほどで目的地の釈迦ノ窪に到着です。標高は450m弱。沢がなくなり、広々とした地に出ます。少々高くなっている南側の崖に洞窟があり、その中に、ほぼ等身大のお釈迦様の像が安置されています。現在のこの安山岩でできた石像は、明治時代に桐生の佐羽吉右衛門という人が奉納した、と伝えられているそうです。見るからに新しそうな石像です。この地には昔、お坊さんが住んでいて、お寺も建っていた、という「釈迦の湯」伝説が伝えられています。今でも、毎年五月の第二日曜日になると地元の人々が、お酒や赤飯などを持って、ここをお参りしています。
 この崖もチャート層が断層運動で切断されてできました。ここのチャートは、厚さ2〜3cmの地層が積み重なった層状チャートです。大規模で見事なこの断層面は、ほぼ垂直で北から60度〜70度西の方向へ伸びています。この断層面に垂直方向の亀裂が生じて、削られて、自然の大きな洞窟ができているのです。この洞窟の入口の北はしに、チャートが白く変質した部分があります。この白い部分は、断層運動の時摩擦の熱で溶けて、再び固まってできたもので、厚さ5〜6cmの石英の脈になっています。この白い脈は、チャートを溶かすほどの、激しい大規模な断層運動があったことを物語る証拠です。よく見ると、崖の他の場所でもチャート層の中に、糸のように細く白い石英の脈があるのがわかります。この断層が、いつ頃生じたものか気になりますが、おそらく、このチャート層がまだ海底下にあった時代の断層運動でしょう。活断層といよりは、はるかに古い時代の断層でしょう。しかし、ほぼ垂直に切断されている点では、意外と新しいのかも知れません。
(ウ)桐生のカレンフェルト地形
 桐生市にもカレンフェルト地形がるので報告いたします。この調査も、1989年に桐生少年科学クラブの会員たちと調べたものです。吾妻山の山頂から、尾根づたいに、鳴神山へのハイキングコースを3kmほど行ったところで、カレンフェルト地形を発見しました。西方寺沢と鳳仙寺沢を登り詰めた中間点あたりの地形です。当然、川内町一丁目と梅田町一丁目の境にあたります。標高でいうと、およそ560m地点です。尾根上ですので、ごく小規模なカレンフェルト地形です。
 カレンフェルトというのは、墓石地形という意味のドイツ語です。カレンフェルトは、石灰岩が雨や地下水で溶かされるとき、その石灰岩の不純物の含まれ方や、ひびの入り方などの違いによって、部分部分で溶かされる速度に差が生じて、凹凸ができたものです。つまりカレンフェルトは、石灰岩の浸食形態の一種ということです。この桐生のカレンフェルトも、写真のように、石灰岩が墓石のような形をしています。一般にカレンフェルトは、カルスト地形の発達過程における初期の段階と考えられています。国内では山口県秋吉台のカレンフェルトがよく知られています。桐生のこのカレンフェルトは、尾根の少々広いテニスコ−トほどのところに、古い墓が埋まったような感じで、小規模にあるだけです。したがって、秋吉台みたいに今後ドリ−ネ地形などに変化する、とは考えられません。
 この桐生のカレンフェルトの石灰岩は、川内町五丁目名久木(なぐき)にある石灰岩層の延長と考えられます。この石灰岩が作られたのは、おそらく三億年ほど前の古生代石炭紀の浅い海底でしょう。もちろん、カレンフェルトになったのは、陸になってからの話ですから、ずっと新しく新生代になってからのことです。一般に、石灰岩には化石がよく含まれているのですが、このカレンフェルトの石灰岩からは、化石が見つかりませんでした。したがって、三億年前というのは推定です。
(エ)金沢の鏡岩
 梅田町一丁目の金沢を西の方向に登った峠に、鏡岩があります。反対の西側に下ると、川内町五丁目の名久木沢に通じます。標高でいうと、およそ560m地点。ここの尾根はほぼ西北に伸び、4kmも北に行くと鳴神山です。当然、峠は尾根に直行する形で、ほぼ東西に伸びています。この峠の北側の大きな岩が、切り通しのようになっているのが鏡岩です。伝説では桐生城の城主の奥方の鏡だったそうです。
 鏡岩と呼ばれる岩は、全国各地にありますが、桐生周辺ではこの金沢の鏡岩だけです。鏡岩というのは、岩肌が鏡のように平で光沢のある岩のことです。鏡岩のほとんどが、断層運動で地層が切断されたときにできたものです。ここ金沢の鏡岩もチャートという固い地層が、断層で切断されてできたものです。よく見ると、ほぼ水平方向で峠の方向に沿って、条線という断層運動の時にできたこすれた跡が残っています。さらに表面がやや白っぽく瑪瑙(めのう)化しているのがわかります。このことは、断層運動による摩擦熱で、平に切られた表面が一度溶けて再び固まった、ということを現わしています。チャートの成分というのは、ほとんど二酸化ケイ素で、瑪瑙の成分とほとんど同じなのです。したがって、チャートが溶けて固まって、瑪瑙のようになっているのです。一般には、地層が断層運動で切られると、その部分は脆くなり、風化や浸食が進むためになくなって、なかなかその場に証拠を残さないことが多いのです。
 この鏡岩を作った断層で地層が動いた方向は、条線の方向です。つまり東西方向に動いた断層でした。この断層運動がいかに激しかったかは、周囲を見てもわかります。峠のすぐ下では、チャート層が熱で溶かされて白く変質して、一部水晶になっている所もあります。後から摩擦熱でできたと思われる2〜3cm大の水晶が、玄武岩質溶岩の表面にたくさん付着しているのもあります。
 このように見てくると、断層の上を金沢の峠が通っていることがわかります。さらにいうと、峠近くの沢地形は、断層運動の結果脆くなった地層が、浸食されてできた断層地形だったのです。このように、断層が谷地形を作っているのは、桐生周辺では珍しいことではありません。ただしこの地層は、古い時代のものなので、現在では地震の心配などは不要です。最後に、地名の金沢ですが、金と鏡が関係している気がするのですが、どうなのでしょうか。
(オ)ポットホール
 写真のように、川底にポッカリと穴が開いているのが、ポットホ−ルです。日本語としては、“かめ穴”とか“おう穴(甌穴)”といいます。ポットホ−ルは、流れの激しい川底だけに発達する、といわれています。木曽川上流の“寝覚めの床”や荒川の長瀞のポットホールは有名ですが、だいたい全国にあって、国・県の天然記念物に指定されたりしています。また、珍しい例では、海岸に発達したのもあります。
 桐生地域では、梅田町五丁目蛇留淵(じゃるぶち)の桐生川と、梅田町四丁目忍山(おしやま)川の二カ所で知られています。蛇留淵のポットホールは砂岩とチャートの岩の数カ所にあります。その中で一番見事なのが、写真のポットホールでした。しかし、大変残念なことにこのポットホールは、道路の拡張でアスファルトの下になってしまいました。おそらく、工事の関係者の誰もが、ポットホールの存在は知らなかったでしょう。このときほど文化財の意義を感じたことはありませんでした。
 この潰されたポットホールは、固い砂岩の上に直径60cm、深さ45cmのすり鉢状の形をしていました。現在の流れの水位より2mくらい高い位置にありました。穴の形から、このポットホールが作られたときの水流は、現在の流れとは反対側の方向だったことがわかりました。
 忍山川のポットホールは、県道から3km余り入った地点にあります。ここのポットホールは、固いチャートの岩にできています。直径2.4m、深さ1.6mと大きなものです。近くにも幾つかポットホールがあります。この大きなポットホールの発見者は、当時梅田町に住んでいた高校生でした。彼は、高校の地学の授業でポットホールの話を聞き、それなら自分も見たことがある、ということで先生に話し、その先生から筆者に話があったのです。写真は、その連絡を受けて、筆者と桐生市文化財保護課の職員とで調べたときのものです。
 さてポットホールのでき方ですが、川底の岩の割れ目に小石や砂が入り込み、水流によってその小石や砂が動き回って、割れ目を削り、長い時間をかけて割れ目が拡大してゆき、ポットホールができます。削られた穴は、次第に円形になり、過流で回転して削る方の小石や砂は、適当に入れ替わり、穴の成長が進みます。このようにポットホールは、水流による浸食作用の特殊な例です。

(6)第四紀
ア.赤城火山と桐生地域
 桐生地域の地質をおよそ三億年前に遡り、古い時代からみてきましたが、いよいよ地質時代最後の第四紀です。第四紀は、別名で氷河時代とも人類時代とも呼ばれます。第四紀は、数度に及ぶ寒冷な氷河期があり、人類が活躍する時代なのです。最初は、人類の出現をもって第四紀の始まりと時代区分したのですが、最近はアフリカあたりから四〜五百万年前の猿人(前人)の化石がよく発掘されています。そこで現在のところ、およそ二百万年前から現在までを第四紀としています。さらに第四紀を分けて、最後の一万年ほどの期間を沖積世(または完新世)と呼び、沖積世以前の期間を洪積世(または更新世)と呼びます。人類の歴史でいうと、新石器時代が沖積世に、旧石器時代が洪積世にほぼ対応します。
 第四紀の桐生地域は、赤城火山とのかかわりが大きくなります。赤城火山は、およそ五十万年前に火山活動が始まり、標高2500mほどの富士山によく似た形の成層火山になりました。しかし、およそ三十万年ほど前、山体頂部に大崩落がおこりました。この崩落によって大規模な岩なだれ(岩屑流)が生じ、それが赤城火山の南東麓を下り、そこに堆積しました。(1986年 守屋以知雄)。このときの岩なだれの地層は、梨木岩屑流堆積物と呼ばれます。とくに、黒保根村梨木地域にこの地層が大量に堆積しているので、そう呼ばれます。実際、黒保根村本宿で、国道122号から梨木温泉へ向って進むと、道路の脇に見える地層は、ほとんど全て梨木岩屑流堆積物の地層です。とくに、梨木温泉周辺は山全体が、梨木岩屑流堆積物の感じです。
 このときの岩なだれは、桐生にも達しています。筆者が桐生でこの岩なだれの地層を確認しているのは、川内町四丁目の相川橋上流左岸、相生町一丁目桜木小学校西の“お滝様”、広沢町二丁目の競艇場の東の3カ所です。笠懸では、鹿田山の北部、阿左美沼から南の地域でこの岩なだれの地層を確認しています。大間々町では、当時ほぼ全域がこのときの岩なだれに覆われました。早川貯水池下や高津戸峡では、この地層の断面が見事に露出しています。このときの岩なだれは、渡良瀬川を一時堰止めて、塩原から浅原まで埋めました。
 一般に岩なだれは、大きな岩石群を先頭にして山麓の斜面を勢いよく下りますので、岩なだれが止まった先端が小さな山になることがあります。これを“流れ山”といいます。阿左美沼すぐ南の浅海八幡宮や東邦病院が小高い所にあるのは、およそ三十万年前にできた赤城火山の流れ山が、そのまま保たれているためなのです。かつて東邦病院が大規模な建築工事をしたとき、相当大きな赤城火山の赤い安山岩が露出していました。広沢町二丁目、阿左美沼貯水池東に、ちょうど古墳のような形をした円形の小山があり競艇場の建物が建っています。これも流れ山で、やはり赤城火山の安山岩を見つけることができます。
 桜木小学校すぐ西の“お滝様”では、写真のように直径2mもあるような大きな石がごろごろしています。岩質はもちろん赤城火山の安山岩です。渡良瀬川の流れによって運ばれた岩石でないことは、かなり角張っていることからわかります。岩なだれは、短時間で到達しますので、角がそれほど削られる暇がなかったのです。お滝様の名のとおり、ここの岩石の下からかなりの水量の泉が湧いています。一年中涸れることがなく、真冬でも手を入れると温かく感じられます。以前は飲料用にこの水を汲みに来る人をよく見かけました。この岩なだれの地層の岩屑流堆積物は、岩石と砂の層なので隙間が多く水を通しやすいのです。たまたま土砂が洗い流されて、安山岩が露出したのです。また、ここは小さな崖になっていますが、ここは渡良瀬川によって作られた河岸段丘崖なのです。かつて渡良瀬川がここまで流れてきて、流れで削ってできた崖です。
 お滝様から段丘崖に沿って北へ500mほどいった地点にも泉があります。大清水の泉といって、かなりの湧水量の泉です。やはりお滝様と同様、河岸段丘崖の下から湧き出ています。ここでは、赤城火山の大きな安山岩の岩石は見えませんが、やはり岩なだれの地層を通って出てきた湧水でしょう。つまり、水を通しやすい岩なだれの地層が帯水層となっていて、さらに渡良瀬川の流れに削られた帯水層が地表に出たため泉となったものでしょう。
 これらのことから類推すると、このお滝様や大清水の湧き水は先ほど出てきた阿左美沼あたりで浸透した水が、岩屑流堆積物の層を伝わって湧き出ているのではないでしょうか。阿左美の地名の由来は、浅い湿地→浅水(あさみ)→浅海→阿左美のことで、現在でも湧水の多い場所です。もしそうだとすると、このお滝様の西側に小高く続く段丘は、梨木岩屑流堆積物によって作られた土地ということになります。つまり、新桐生駅あたりから足仲団地に及ぶ小高い段丘は、およそ三十万年前の赤城火山の岩なだれがもとでできた段丘と考えられます。
 三十万年前という時代は、氷河時代とは言え、氷期と氷期の間の間氷期といってそれほど寒冷でなく、むしろ現在に近い気候の時代だったと考えられています。人類の歴史では、北京原人の時代で中期石器時代です。今、桐生地域でも、泉が涸れてしまったり、開発でつぶされたりしています。三十万年の歴史をもつこれらの泉をぜひ涸らさずに残したいものです。
 赤城火山による流れ山は、他の場所としては、前橋市下大屋町の産泰神社、赤堀町下触の石山観音、伊勢崎市の華蔵寺公園などです。皆こんもりとしていて、赤城火山の安山岩からできています。
 赤城火山が影響したもののもう一つに、渡良瀬川の流れの変遷があります。おそらく赤城火山が噴火し成長する度に、山麓に押し出される種々の火山性物質によって遮られ、渡良瀬川の流れは東側に変えられたことでしょう。推定ですが、およそ五十万年前の赤城火山が誕生する前まで、渡良瀬川は前橋方面へも流れていたでしょう。赤城火山が活動するにつれて、やがて伊勢崎方面を中心に流れるようになったでしょう。およそ5〜2万年前になると、渡良瀬川は笠懸から薮塚を流れるようになりました。さらにその後、現在のように桐生方面に流れるようになりました。とはいっても、詳しく見れば実際の流れ方は、かなり複雑な変遷を辿ります。渡良瀬川の変遷の詳しいことは、私見も入るので稿を改めて述べたいと思います。
イ.古梅田湖
 梅田と菱に湖がありました。およそ五万年ほど前までのことです。桐生川が堰止められ、今の桐生川ダムの2倍ほどの大きさでした。現在の梅田南小学校や梅田中学校のあたりが、すっぽり入る大きさです。この湖を古梅田湖と名付けました。この古梅田湖の湖底の地層は、現在でも梅田町三丁目高沢入口の県道脇で、はっきりと見ることができます。ここでは、湖の地層特有の砂や粘土や軽石からなる細かい縞模様の地層が、ほぼ水平に堆積しているのがわかります。川底と違って、湖の底は水の動きが少ないので写真のように整然と堆積します。
 ところで1977年2月、この高沢入口の県道の大規模な拡幅工事で、写真のごとく見事な湖の地層が露出しました。忠霊塔の下から高沢へ少し折れた所まで、この湖の地層の連続という大規模なものでした。当時これを見て、この湖はかなり大きな湖だ、と確信しました。実は、それまで露出していた地層の観察だけからでは、高沢川が堰止められた小規模の湖か、桐生川が堰止められてできた大きい湖か、わかりかねていたのです。写真で黒く見える部分は、砂鉄の層です。この砂鉄を顕微鏡で見ると正八面体のきれいな磁鉄鉱の鉱物です。地元の人から聞いた話では、以前この砂鉄を専門の業者が採掘していた、ということでした。そういえば、対岸の菱町などこの周辺に古代の製鉄所の遺跡が多いのは、この大量の砂鉄が関係しているのではないでしょうか。
 さて、この湖の地層の上には、水が退けた後の地層が堆積しています。およそ三万年前に赤城火山が噴火して降ったオレンジ色の鹿沼軽石(鹿沼土)層と、およそ四万年前に榛名火山の噴火で降った灰白色の八崎軽石層が堆積しています。したがってこれらの軽石層よりも下にある湖の地層は、それよりも古いことになります。これらのことから判断すると、古梅田湖の地層は、五万年前頃までに堆積した、と考えられます。
 鹿沼軽石とは、植木栽培などでよく使う鹿沼土のことです。鹿沼軽石と呼ぶのは、赤城火山が噴火したときに降った軽石で、栃木県鹿沼市あたりの層厚約 1m、と一番厚く積もったのでそう呼んでいます。このときの噴火は大噴火で、鹿沼軽石の降下分布を追っていって、大平洋にまで降ったことがわかっています。ちなみに、桐生砂もやはり植木栽培などに使いますが、こちらはおよそ四万五千年前、赤城火山が噴火したとき降った軽石のことです。
 高沢入口に大規模な湖の地層があることは確認できましたが、それでも桐生川が堰止められた確証としては、対岸の菱側からも湖の地層を見つける必要があります。そこで桐生少年科学クラブに呼びかけて、1991年7月に調査をしました。そして、予想どおり菱町五丁目朝日沢入口の塩之宮神社の裏山で、湖の地層の一部を発見しました。ここ塩之宮神社と対岸の高沢入口の海抜は、どちらもほぼ180mと一致していて、同じ湖と考えて間違いないでしょう。
 かくして、明確となった古梅田湖は、高沢入口から桐生川ダムまでの広がりで、北北東から南南西に約4km、平均幅約500m、平均の深さ約20mということがわかりました。さらに湖があった地域の現在の地形をみると、まさに湖底の地形だということがわかりました。それは湖底の中心地だったと思われる現在の梅田南小学校と梅田中学校は、500mも離れているのに、海抜ではどちらも174mと全くの水平です。梅田南小学校から約2km上流方向に離れている中居橋は海抜183mで、梅田南小学校とは9mしか高低差がありません。これは、湖の状態が比較的長期間存続したため、湖底が埋められて広範囲に平坦化したもの、と考えられます。ところが逆に、梅田南小学校から下流方向に約1km離れた、湖から外れた位置にあたる観音橋は海抜約150mで、梅田南小学校とは24mもの高低差があります。このように、古梅田湖の消滅はおよそ五万年前の比較的新しい地質事件だったので、証拠が残りやすかったのでしょう。
 古梅田湖の堰の位置が、どこにあったのか、正確にはわかっていません。しかし地形からみて両岸の狭まる忠霊塔のすぐ西と菱側の茂倉の山の出っ張ったあたり、または観音橋のやや上流あたりに、堰があったのではないでしょうか。そして、桐生川が堰止められた原因の一つは、やはり赤城火山の噴火が考えられます。噴火で軽石や火山灰が大量に降り、川の流れを塞ぐ原因になったのではないでしょうか。赤城火山の軽石には、鉄分が比較的多く含まれています。古梅田湖の地層に砂鉄層が多いのは、このためではないでしょうか。そして、五万年前にこの湖の堰が決壊したときは、大洪水となって、かつての桐生の原野を押し流したことが想像されます。
 五万年前頃のこの時代、やはりそれほど寒冷な時期ではなかったようです。おそらく、ナウマン象やオオツノ鹿が古梅田湖の周辺にも来ていたことでしょう。これらの象や鹿を追って岩宿人の先祖達も来ていたでしょう。…真っ赤な夕日を背に、長い影を湖面に落して、オオツノ鹿が古梅田湖の水を飲んでいる。ナウマン象の群れは、もう帰路につき遠く小さく見える。さらに遠くでは赤城火山が白い煙を棚引かせている。岩宿人の先祖達は、もうキャンプの準備をはじめたのか仮テントのそばでは煙が立ち上っている。古梅田湖の一日もまもなく終わろうとしている。

日本地質学会員 藤井 光男


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