関東大震災と桐生の地震 ―そのとき市民は―

藤井光男


1 はじめに
 主に、1982年から1983年、桐生市、大間々町、笠懸町、薮塚本町の住民にアンケート調査を行なった。アンケートの目的は、1923年9月1日発生の関東地震における、桐生地域での地震の揺れ具合を調べることであった。この揺れ具合から、桐生地域の地震の特性を知るためであった。
 今まで、桐生地域での関東地震・関東大震災についての参考となるような記録が非常に少なかった。しかし、今回のアンケート調査により、ほぼその様子がわかった。関東地震における震度も、桐生地域では、5〜4であったことが判明した。また、桐生地域でどこが強く揺れたかも、ある程度わかった。
 一方、当初予想していなかった収穫もあった。それは、アンケートに関東地震及び関東大震災における桐生地域の興味ある出来事や小事件が、数多く併記されていたからである。多くの人の記述を総合すると、桐生地域での、大地震発生後の混乱の一日の様子が、手に取るようによくわかる。また、大正時代末期における、桐生地域の庶民の生活史の一ページを垣間見ることができた。

2 アンケート
(1)アンケートの対象者

 アンケート調査は、公民館利用者を対象に行なった。その対象者は、桐生市内全域、大間々町、笠懸町、薮塚本町在住者で、関東地震発生当時に尋常小学校在学以上の年齢であったもの808人。その中で、地震発生時に他地域にいた者、回答内容が不自然・不正確・抽象的過ぎるもの394人は不採用とした。
 回答後、内容について電話で再確認した人85人、同じアンケート内容で直接面談で回答した人17人。結果として、本報告に利用したアンケート総数414人分であった。なお、本報告での回答者について、原則として、本人のそのときの住所ではなくて、体験時に居た場所を記した。地名は、できるだけ現在の地名を用いた。当時の小学校は、尋常小学校と尋常高等小学校であるが、単に小または小学校と記した。
(2)アンケートの趣旨
 1923年9月1日発生の関東地震における桐生地域での地震の揺れ具合、つまり震度等についての記録は何も残されていない。他の歴史地震でも、弘仁9年(818年)の赤城山南面地域の被害(『類聚国史』)以外は、桐生地域の地震被害の記録は、ほとんどない。
 しかし、歴史的に地震被害がないから、今後も、桐生地域では地震被害が起きない、という保証はない。むしろ、今まで地震が起きていない空白域こそ、要注意なのだ。まして桐生地域は、渡良瀬川断層(筆者が推定して呼称)の不気味な存在がある。
 そこで、桐生地域の地震の特性を知るためには、関東地震での揺れ方を調べるしかないと考え、アンケート調査を実施した。アンケートは、最初は河角の震度階を用いて答えて頂いたが、震度で答えるのは、多くの回答者にとって難しいことが判った。そこで、震度階では尋ねないで、まず簡単に“立っていられる程度の揺れか”、“立っていられなかったか”、で答えてもらった。そして別欄にはそのときの具体的な事例・様子を書いていただいた。

3 桐生地域の地震
揺れの特徴…平地震度5、山間震度4
 桐生地域を地質の違いから、二分すると、主に渡良瀬川、桐生川の堆積層からなる平らな地域と、多くの面積を占める山間地域に分けられる。渡良瀬川、桐生川の堆積層は、いわゆる沖積層と洪積層で、砂礫がその主体である。そして洪積層よりも、より新しい時代に堆積した沖積層の方が広く分布している。山間地域の地質は、足尾層群で、中生代の付加体を中心とした砂岩、泥岩、チャート、溶岩を主体とする固い地質である。
 アンケート調査の結果、関東地震時の桐生地域の地震動について、以下のことが判明した。桐生地域の震度は、ごく大まかに見て、渡良瀬川、桐生川の堆積層上の平らな地域はおよそ震度5、揺れの少ない山間地域はおよそ震度4。この平地の揺れを震度5とするが、墓席が倒れたり、地割れができたりするほど強く揺れた地区と、それほどでない地区がある。勿論、人家の多い場所は、ほとんどが平地である。
 今回のアンケート調査だけでは、震度5と4の境界線を、明確に引くことはできない。平地と山間地域の揺れの違いを以下に記す。
 山間地域の揺れの少ない例として、梅田町台地区のN口さん「お昼を食べていたら、地震になった。外に出るほどでないので、そのままいたら、二階で寝ていた兄が、地震だと降りてきた」と緊迫感はない。
 大きく揺れた平地と、揺れの少なかった山間地の例を挙げてみる。地震のとき平地と山間地で荷車を引いていた人が二人いた。平地の方の一人は、相生町二丁目下新田のS田さん「荷車を引いていたら地震になって、倒れそうになった。動けないので、しゃがんでいた。近くの家の人が外へ逃げ出した」。
 もう一人は、山間地の川内町五丁目白瀧神社近くのO畑さん「荷車を引いていた人が、家の前まで来て立ち寄ったので、今地震があったと話をしたら、全然気づいていなかった」と。
 平地と山間地の川で魚捕りをしていた人が二人いた。平地は、境野町と菱町にかかる両国橋のすぐ上流、M原さん当時16歳「桐生川で膝まで入って魚を捕っていたら、喉のところまで水がきた。ドブンドブンと揺れて、モコモコ泉のように下から水がきた。泳いで帰った。川原に地割れができていた。近くのわが家では、壁にヒビが入った。家の庭にもヒビが入った」と、強い揺れだ。
 山間地では、梅田町高沢川の高橋橋上流、釣りをしていたK島さん当時9か10歳「川の中にいた。土手の泥がパラパラ落ちてきた、水が少し波立ったが、逃げないでそのままいた」と、いかにも、こちらは揺れが少ない。

4 桐生地域での被害
 墓石の転倒と地割れの起きた場所は、桐生地域でも特に揺れの激しかった場所と考えられる。
(1)墓石の転倒
 墓石の転倒は次の7件。
 ○境野町一丁目の本然寺のわが家のお墓が倒れた I田 浜松町
 ○広沢六丁目の共同墓地の石塔がほとんど倒れた N島 広沢六丁目
 ○墓石が倒れた 大間々町諸町内で位置不確か  T沢 大間々町
 ○墓参りに行ったら、すわりの悪い石塔が倒れていた 川内南小の近く Y木 川内町 これは(2)地割れの場所の井の上の近く。
以上が平地での転倒。
次の3件は、平地ではあるが、やや山間地に入った平地の場所。
 ○渭雲寺の石塔が倒れた 梅田町一丁目居館のあたり A木 梅田町一丁目
 ○墓石がほとんど倒れていた 川内町二丁目の崇禅寺の近く S訪 川内町二丁目
 ○大日様の石塔が倒れた 川内町二丁目の小倉川上流 I泉 川内町二丁目
墓ではないが、
 ○広沢町四丁目の夏保の地蔵様の頭がころげ落ちた H江 広沢町四丁目 現在この地蔵様の頭は、再びきちんと付いている。
(2)地割れ
地割れの回答は、次の6件。全て平地の地域。
 ○川内南小のすぐ西、井の上 K方 川内町三丁目
 ○川内町三丁目 聖クララ修道院のすぐそば M下 川内町三丁目
 ○宮本町の光明寺温泉へ行く道が、少し地割れした K島 宮本町
 ○菱町三丁目 二州橋近くの機神社の下の道路に地割れ、周囲は竹やぶ S永 菱町三丁目
 ○東小校庭 O田 高砂町
 ○両国橋近く 前掲
(3)建造物被害
 ○三吉町の江原精錬の大きな煙突が、大きく揺れてヒビが入った A川 三吉町
 ○桐生警察署の北側の壁が、全部落ちた K林 本町三丁目
別に 警察の壁が崩れたのを見に行った が一件あった。
 ○田中の質屋の蔵の壁が落ちた M田 泉町
以下被害だけ記す。
 ○広沢小学校の壁にヒビが入った
 ○家の前の石垣が崩れた 川内町五丁目
 ○土壁が落ちた 大間々町諸町
 ○電柱が傾いて、電線が垂れ下がった 相生町二丁目交番の近く
 ○壁が落ちた 川内南小学校すぐ西
 ○電柱が半分くらい傾いた 本町一丁目
 ○帯戸がねじれた 広沢町三丁目
 ○桐生中学校の小使室の壁が半分ほど落ちた 小曽根町
 ○北小校門前の土蔵の壁が落ちた 宮本町
 ○市内で、建築中の建物が一軒倒れたと聞いた

5 その日の桐生地域
 1923年9月1日、大地震のあったこの日は、「台風の通過で午前10時頃まで強い雨が降っていた」。その後、「各所に水たまりができ」、「川が増水し」、「蒸し暑い日となった」。「夜は、晴れ上がったよい天気」となった。この日は、「大間々町諸町はお盆だった」。新宿では八木節大会、錦町では雷電様のお祭り、本町五丁目では夜店が準備されていた。梅田では、青年を対象に「軍事教育」をしていた。また「大間々町では、代議士の武藤金吉の演説会が午後に予定されていた」。
(1)地鳴り
 ほぼ正午に地震が発生した。桐生地域のほぼ全域でかなり多くの人が、地震で揺れる直前に地鳴りを聞いている。「重戦車がくるときのドドド−という音」、「ゴ−」、「ガガ−」という音だという。揺れているときに地鳴りを聞いた、という人も多い。特に広沢地域の人は、よく地鳴りを聞いている。梅田町では、居館でも聞かれている。川内町では崇禅寺の近くでも、地鳴りが聞かれた。
(2)そのとき市民は
 本震は、「一分間くらい続いた」、ようだ。余震が収まるまでは、2〜30分ほどかかった。このときの市民の対応を見てみると。
 「学校から帰宅。姉は昼食の用意。小生は、水車の撚糸の仕事を手伝っていた。地震で、父は長火鉢の火に灰をかけた。姉の声で外に飛び出し、水車を止め、前の墓地へ避難した」S永 14歳 菱町三丁目
 当時小学四年生は、「買場の雨戸がすごい音でガタガタしているうちに、揺れてきた。お鉢を抱えた人や、子供を抱えた人が、道路に飛び出して来た。私は、立っていられないので、四つん這いで逃げた。揺れが収まり自宅へ帰ると、家の者が畳を立て掛けて、その中にいた」M原 本町一丁目
 「西桐生駅方面から本町通りへ向かって、自転車に乗っていた。地震になると、市役所の職員が皆、窓からあわてて飛び出して来た」M山 宮前町
 山間地以外の揺れが強かった地域では、ほとんどの人が屋外に逃げた。逃げた場所として、「竹やぶ」が最も多かった。地割れが怖いから竹やぶへ逃げたという。「近所の人たちと、地震が収まるまで路上にいた」人も多い。「電柱につかまっていた」、「松の木の下に避難した」、「樫ぐねの根元に行った」人もいた。「木につかまっていた」という人も多数。「戸板を出して、家族でその上にいた」人もいた。また、「逃げようとしたが、揺れていて、すぐには家から出られなかった」人も多い。
 一方、この地震に全く気づかない人もいた。「本町一丁目の北川織物工場で、工場自体の振動もあったろうが、ジャガ−ドの入れ替え作業をしていて、地震を知らずに後で聞いた」E原 本町一丁目
(3)学校では
 学校での避難の様子を見る。この日は、二学期の始業式で、どの学校も半ドンだった。笠懸小や薮塚本町小は、帰宅していた子が多かったようだ。桐生地域では、帰宅したクラスと、まだ授業中のクラスが各学校にあった。授業中のクラスではほとんど、担任が生徒を机の下にもぐらせて、本震が収まってから校庭へ避難させた。
 広沢小学校の例で見る。本震が収まると「先生の指示で校庭へ出る。階段が混雑していて、足をつかずに押されて一階へ降りた。余震が何度もあったが、校庭で『校舎がひっくり返るぞ』と見ていた。余震が終ると帰された」T田 広沢小5年生
 「担任の先生は、生徒の避難誘導しないで、窓から飛び出した。生徒もまねして、窓から出た者もいた。私は、鉛筆と当番日誌を持って、舟のように揺れる廊下を走って外に出た。校庭では、揺れで立っていられなかった」O川 広沢小6年生
 広沢小の校舎は、特によく揺れたようで、「校舎の敷居がネジれ、障子がはずれた」K塚 広沢小4年生 と被害もあった。
(4)生活
 地震直後に、停電、電信電話は不通となった。新聞も幾日か来なくなった。「本町四丁目の電々公社で、市外通話中に地震となり電話が不通になった」人がいた。「機を織っていたが、地震でしばらく停電したので、仕事が休みになった」人が二人いた。
 「小川の水が、揺れた道路にあふれ出た」という回答が多数あった。同様に「雨後の水たまりが、あふれ出た」との回答も多数あった。「風呂くらい大きい、四角いコンクリートの防火用水が、水までの深さが二尺もあったのに、あふれてこぼれた」 I毛 大間々町諸町 とか、「四斗樽にいっぱいだった水が、揺れて、半分くらいこぼれた」O田 錦町 などの溜め水が溢れた例も多数あった。
 「時計の振り子が止まった」と「棚の物が落ちた」が非常に多い。「神棚から榊やお神酒すずが落ちた」の類いも複数あり。
 銀行では、「新宿の足利銀行で勤務していたが、地震のとき、金庫へ現金、帳簿書類等を押し込むのに懸命だった」S藤 新宿一丁目 と、大変だった。一方、本町五丁目の八十一銀行では、「預金係にいた。地震だと皆声を出して、時計を見ると11時58分、机につかまって、皆顔を見合わせた」O部 本町五丁目 と、あまり混乱はない。
 「お昼なので、茄子を取りに行った。畑の境のカラタチの柵の穴をくぐろうと四つん這いになったとき、地震になって、すぐそばの茄子がなかなか取れなかった」Y田 東小学校近く 「お昼で茄子と葱の油みそを作ろうとしていた。茄子とまな板を持ったまま、外へ逃げてしまった」M田 笠懸町
 「地震のとき、火の見やぐらの鐘がガンガン鳴ったので、見上げてみたら、誰もいないのに揺れて鳴っていた」K松 高砂町 「本町五丁目の金善ビルの屋根から、40cm位の石が路地に落ちたが、何事もなかった」K池 本町五丁目
 「新宿では、大きな煙突はこれくらいだったが、呑竜様西の木芳工場の煉瓦の煙突が、木が風に揺れるようだった」K和田 新宿三丁目 「山田郡役所の小使いさんは、庭の青桐の木につかまっていて、揺れが収まると、被害状況を見に出かけ、本町四丁目の瀬戸物屋がくずれて被害があった、と報告した」T所 永楽町
 「兄嫁はお七夜で、ちょうどお湯に使っていた。驚いてその後、お乳が出なくなった。」N羽 広沢町三丁目 という人もいた。「弟が大腸カタルで寝ていたので、母が抱いて外へ逃げた。大根畑のさくが波のように揺れていた」S原 菱町一丁目 と、いかにも情景が目に浮かぶ。
 「家の中いっぱいに養蚕していた、父母も祖父母も私も、お蚕のコノメ(蚕カゴをのせる棚)が倒れないように、大騒ぎをしておさえていた」U田 笠懸町 「蚕の秘密飼いでランプを使っていたので、ランプを抱えて外に出た」O沢 梅田町二丁目
 用便中の人がいた「便所の屋根の杉皮を押さえている石が、落ちるといけないと思い、外に出ないでいた」と、川内町五丁目の揺れが少ない地区。
(5)号外・回覧板
 東京が震災で大変だったことを、桐生地域の人の多くは、二日の号外で初めて知る。「二日に、半紙半分くらいの紙に、『東京大地震』とだけの見出しの号外が出た」K島 境野町 しかし、一日の夕刻には、桐生駅に東京からの罹災者が到着している。また、一日夜の新宿八幡様での八木節大会が、東京が地震だから、という理由で中止になっている。だが、多くの桐生地域の人は知らないので、一日の夜、南東の空が赤く見える理由がわからない。アンケートの回答の中でも、この赤い空のことの記述が最も多かった。
 その後は、「本町三丁目の警察では、東京の情報を毎日掲示していた」Y崎 本町四丁目 震災地への救援物資の提供を呼びかけた回覧板も廻った。「朝鮮人が、井戸に毒を入れるから、寝ずに番をするように」A木 清水町 という回覧板もあった。
(6)桐生駅では
 アンケート回答者の中に桐生駅勤務の職員が3人いた。「地震後、時間の経過とともに列車の運行も乱れてきた。午後六時頃より、列車は避難の旅客で満員で、大混雑。桐生駅止まりの列車も随分遅れて来、汚れがひどく清掃に時間がかかった」K子 末広町
 「三日目くらいになると、駅に着く列車には、鍋、釜、バケツなど持った避難民で非常に混雑した。機関庫でも、機関車用水確保のため、貯水池を昼夜監視した」K池 巴町 
「地震で電話は、ほとんど不通。夕方には、東京大火の情報あり。徹夜で駅構内を警戒」K暮 堤町
 一方、足尾線は普通に運行していた。「末広町を桐生駅へ向かって歩いているとき、地震になった。乾物屋の缶詰めがガラガラ落ちる音がした。足尾線は、普通に動いて、上田沢の自宅へ帰れた」F倉 末広町
(7)赤い夜空
 ほとんどの人が、一日から三日までの夜、南東の空が赤く見えた、と回答している。「その夜、広沢山の方が赤く見えた、煙も見えた。太田が火事だと言うので、広沢山に登ったら、今度は熊谷が火事だ、ということになった」T田 広沢町四丁目 「吾妻山に登って南東の空を見た」人もいた。盛運橋の上も、人だかりになって見ていた。
 太田方面、足利方面が火事だろう、と自転車で見に出かけた人が多かった。行けども行けども火事は見えない。多くの人は、途中であきらめて引き返したが、熊谷までいった人、大宮までいった人、東京までいってしまった人も何人かいた。
 昼間も煙がよく見えた。「宮本町から、菱の浅間山と広沢山の間にものすごく煙が見えた。広沢山の上の方は、入道雲のように流れていた。夜は、月より大きい火の玉が見えた」N岸 宮本町
 笠懸町では、「太田方面が火事だ、というので消防士が、手引きのポンプを引いて駆けて行った。いくら行っても火事場に近づけないので、その夜の内に帰ってきた」I川 笠懸町 「岡部校長先生は、東の方が明るいのは、山の神の盆踊りかと出かけたが、まだ東が明るいので、太田まで行ったが諦めて帰ってきた」K村 薮塚本町
 まだ震災の情報が伝わっていない人々の間では、赤い空の原因として諸説が飛び交った。足利が火事だ、太田が館林が火事だ、熊谷が火事だ、筑波山が爆発した、東京かなたの海の島で噴火したと、様々だ。しかし、東京が火事だと推定した話はあまり伝わっていない。
(8)八木節大会と祭
 震災のその夜、新宿の八幡様では八木節の大会が、錦町の雷電様では夜祭があった。「その夜は、明るい秋晴れのよい晩で、夕食後、新宿の八幡様の八木節に出かけた。歌や踊りで賑やかだったが、八時頃になり、交番の黒板に『あの明かりは東京が火の海』と書き出され、お祭りは中止となった」W田 錦町
 「その晩、八幡様で八木節をやっていたが、警察から中止にされた」Y田 錦町 「八幡様で八木節があるというので、梅田の居館から出てきたが中止だった」O沢 梅田町 「八幡様で八木節があるというので、広沢の肥土から行ったら、警察が来て『東京に地震があったから』、と中止にさせられた」H部 広沢町 この八木節に行った、いう回答は他に二人。
 その晩、雷電様のお祭りに行く途中で交番の前が黒山の人なので、聞いてみたら『山火事だ』と言っていた」S山 境野町 「夜、雷電様のお祭りに行くと、盛運橋の上で沢山の人が、南東の赤い空を見ていた」Yぎ 錦町 他に、清水町からも雷電様のお祭りに行った人もいた。
 この夜は、夜店も出ていた。「一日の夜は、本町五丁目の夜店に行った帰り、盛運橋から南東の赤い空を見た」O田 錦町
 なお、この一日の月齢は、19.7で月の出は10時頃で遅いのに、人はよく出ていたようだ。

6 その後の桐生地域
(1)自警団

 “不逞鮮人が放火する”、“鮮人が井戸に毒を入れる”などの流言蜚語が早々桐生地域にも伝わると、桐生地域各地に自警団、もしくは似たような集団が作られた。普通は、二日目あたりから、自警団ができだした。梅田町、川内町、大間々町の山間地域では、自警団をつくる必要がなかったようだ。
 「朝鮮人が、井戸に毒を入れるので、竹ヤリを用意しろ、という触れが廻ったので用意した」M田 笠懸町 「朝鮮人が、井戸に毒薬を入れるからと、毎晩、厳重に井戸にフタをした」N岸 宮本町
 「朝鮮人が来るというので、男たちは日本刀、大和づえを持って夜警した。夜警の人同士が行き合うと『山』と『川』の合い言葉を交した。女たちは、いつでも逃げられるように、エプロンを着て寝た」A海 広沢町六丁目 「朝、豚に水を与え、異状がなかったら飲んだ」K村 薮塚本町 「近所にヘイさんという人がいた。朝鮮の方から帰ってきたばかりだった。ヘイさんは朝鮮人に間違われて大変な目にあった」M原 境野町 「夜警の人たちに弁当運びをしたが、怖かった。明け方、小俣方面で鉄砲の音がしたが、脅しで撃っただけで何もなかった。太田では、朝鮮人が殺された、と聞かされた」N島 広沢町六丁目
 「岩宿駅に青年団が張り込んで、朝鮮人と見たら下車させて、警察に突き出せ、と物々しい騒ぎだった」U田 笠懸町 この岩宿駅の件の回答は複数あり。 「警察が来て、劇毒物を販売してはいけない、と注意された」Y崎 染料店 本町四丁目
(2)受難の朝鮮人
 他地域ほどではないが、桐生地域でも朝鮮の人は、被害を受けた。「家の近くに、朝鮮人が7〜8人住んでいた。全員が飴を作っていたが、その中の17、8歳くらいの男子の何人かが飴売りに出ていた。地震の後は、誰もいなくなって、とうとう帰ってこなかった」T村 桜木町 この飴について別の人からは、「朝鮮飴といって、七五三の飴を太くした感じ。十銭でクジをひかせ、ハズレで一本だった。当ったら全部の飴をやる、というのだが、誰も当たったことがなかった」T田 広沢町四丁目
 「天王宿の機屋に朝鮮人がいて、皆が殺すといって騒いだが、機屋の人が、しばらく蔵にかくまっていたので無事だった」S田 相生町 「西場織物に朝鮮人が働いていて、皆にたたかれた」A海 広沢町
 なお、『桐生市史』別巻には、『東毛立憲同志会で、市内の砂利採り人夫5世帯19名(朝鮮人)を警察署に連行し留置所内で保護した』との関連の記述がある。
(3)桐生への避難
 身内の者が東京にいるので、家族の誰かが案じて、東京に出向いた回答が多い。二日、三日には上京している。だいたいが、米、餅、布団などを持って行く。汽車ではなかなか行けないので、自転車で東京まで行った人が多い。東京へ行って、身内の罹災者を汽車で桐生に連れ帰った人も多い。
 「三日、本所に行った。焼け出された親戚の親子3人を、汽車の屋根の上に乗って、着の身着のままで連れて来た」I上 本町三丁目 「早速おむすびを背負って、父は東京へ出かけた。叔父達3家族を連れて戻った。大家族になり、母が大変でしたが、また次々に上京して、一ヶ月くらいでもとの生活に戻った」S瀬 梅田町
『桐生市史』別巻には、このとき桐生市に避難した罹災者は、3,200人と記している。
(4)桐生からの救援
 梅田青年会の責任者だったO塚さんからは、東京への救援の様子を、便箋の別紙12枚添付で回答をいただいた。その要点を記す。
 「二日、梅田で杉林の刈り払いをしていると、三時頃に父が来て、郡役所から直ぐ来いと連絡があったと伝える。役所へ急行すると、青年会の山田郡連合緊急会議だった。
 郡長から東京が混乱の渦中にある、という話があり、山田郡内の町村各団体から1〜2名選出して救護団を結成し、明日三日、東京に派遣することになった。派遣される梅田班は、青年会2名、在郷軍人会2名、消防団3名の計7名、班長はO塚。村長が、旅費、白米、にぎり飯、切り餅を団員のために用意した。
 三日、梅田班7名は、救護団本部に合流できぬまま、午前9時、桐生駅発の列車で出発した。列車は混雑でノロノロ運転、各駅毎に東京からの避難列車が優先で、通過を待ってから出発。時折、誰かが『朝鮮人は乗っておらぬか』と怒鳴ると、車内が総立ちになって周囲を見回した。終着駅の川口へついたのは、午後6時半過ぎだった。
 梅田班は単独行動なので、駅員の手伝い、炊き出しの手伝い、被害の見学をして、五日遅く列車の満員の屋根上に乗って帰って来た」
 このとき山田郡役所職員だった人もいた。「二日夜、救護隊編成の会議が開かれ、三日に30人位が東京へ出発した。救護事務で毎日が忙しかった。災害救護米が大量に集まって、会議室に積んで置いたので、床が落ちそうになって、大騒ぎをした。私は雇員なので、給料は二十円でしたが、翌年に救護事務活動慰労金が九円出た」T所 永楽町
 桐生市では、「二日、桐生市の青年会の役員会を開き、青年会で50名、消防で50名、在郷軍人で50名の計150名で、東京へ救援に行くことになりました。三日桐生を発ち、川口までしか行けず、荒川は赤羽の工兵さんに舟で渡らせてもらい、その日は、日暮里で町の夜警に加わりました。その後は、桐生の消防・在郷軍人とは別れ、青年会は食料運搬をしました。七日に帰って来ました」T所 宮本町
 笠懸町では、「私の父は、笠懸消防団の組頭か何か上役をしていました。まだ36歳くらいの元気者でしたので、早々皆を引き連れて救護班に加わり、東京へ行きました。芝の増上寺内の救護班で、毎日お粥を作って配り、長い行列の人たちに、手を合わせて喜ばれたと、よく死ぬまで言っていました。一週間振りに、団員一同が疲れ切った姿で帰って来たのを、今でも覚えています」U田 笠懸町
 菱村役場書記で税務主任だったS山さんは、「菱の青年団長をしていたので、二日朝に栃木県から指令があり、団員約60人を引率して上京し、都内を警備した。戒厳令が四日に(発令は三日)出たので、軍隊と交代して六日に帰って来た」
 桐生の地でも救援活動は活発だった。「組長さんが、梅干しを出してくれ、東京への炊き出し用だと、大きなカゴを持って廻って来た」S原 菱町一丁目
 青年団の地元での活動は、「青年団は、小山・高崎間で罹災者輸送列車で、お茶の接待をした。婦人会の人たちも一緒だった。夜は、夜警と井戸周り警戒の指示があった。また、在郷軍人は、輸送部隊を作り、住民から物資を集め、荷車で東京へ運んだ」N瓶 新宿
 「増山作次郎さんの立憲同志会が、白い襷をかけて、震災地へ送る物資を集めて廻った」Yぎ 錦町
(5)その他
 「荷物の運搬が仕事だったので、十日頃に警察の許可をもらって、麺類・缶詰などの食い物を、東京の問屋に運んだ。四人で、自転車リアカーを引いて、太田、熊谷経由で行った。朝6時に出発して、夕方の6時に上野に着いた。被災の情況を見て帰った」K原 小曽根町
 「踏切のそばの機屋に奉公していた。11歳、糸つなぎの仕事をしていた。二日目あたりから、来る列車、来る列車、真っ黒い顔に包帯した人たちが、山のように乗って通過していった」K島 境野町
 「家の前が荷車を作る家だったので、その後仕事が忙しくなった」K池 本町三丁目 「手織り機を織っていた。横浜の商館がつぶれたので、仕事がなくなり、毎日畑で輸出のユリ掘りをしていた」S藤 梅田町四丁目

7 おわりに
 アンケートを読み終えて、自分なりに納得して、気にかかりながらも、長い間公表する必要性は感じていなかった。しかし、今年度は関東大震災後80年、全国で地震展や災害史展など各種の催しがあった。
 歴史地震研究会(事務局・東大地震研究所)も、九月に佐倉市の歴史民俗博物館と九十九里町を会場として研究会があった。私も参加した。その研究会では、一地方のわずかな資料でも、その積み重ねが大事であることが強調されていた。これに啓発されて、私も今回のアンケートを公表することにした。
 このアンケート調査は、実施後20余年が経過した。アンケートに答えて下さった多くの方は、既に他界されている。今再び、お名前を見ると面影の浮かぶ方々が多い。遅きに失したが、アンケートの回答者に心から御礼を申し上げる。

 

桐生史苑(桐生史談会)に掲載されたものを採録したものです。採録に当たり実名は伏せました。楚巒山楽会代表幹事

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