昭和8年に発行された岩澤正作さんの「赤城山唯一之神秘境銚子伽藍探勝記」の冒頭に“我上毛三名山の優、赤城山中古來人跡未踏の神秘境ありと云へば、人或いは言はん、赤城山は其最高峰黒檜山に於て、漸く海抜一八二八米で、他の峰巒は一六〇〇米を昇降し、其の地域は漸く十方里に過ぎない。而も關東平野の一角に突出して、帝都より日歸行程を以て登攀し得られる。されば此山は獨上毛のみならず、實に關東の名山たることは、世人周知する處なるも、未だ大山高嶽として數ふ程のものではなく、漸く中山性の域に入るべきものであらう。さうした赤城山中古來人跡未踏の神秘境ありとは、直に信ぜられぬ處なりと言や當に然らん。而も夫れが地形上此山の大手口なる南腹に存する處が、當にまた一の奇蹟とも言ふべきであらう。
 其神秘境は、標式的な二重式複火山である赤城山の外輪山、即ち舊火口壁の南部の一角に存在する銚子伽藍である。
 赤城山中唯一寄生火山の噴火口に、天水を湛へた小沼火口湖は、其南壁の一部を缺壊して、小沼川となつて南流し三途川其他二三の溪水を入れ、舊火口壁の南崖の一部を浸蝕して、火口壁外に出で粕川火口瀬となる處が所謂銚子伽藍である。
 銚子伽藍の位置は、大間々町及梨木鑛泉方面よリの登路に當る茶之木畑峠の西方舊火口壁の堤防状をなして連れる、所謂躑躅嶺の西端と、此山の山頂諸峯最南に聳ゆる荒山の東腹にある輕井澤峠及其の東に在る牛石峠の東に連なる、所謂牛石連嶺の東端との間に介在し、其深刻なる浸蝕作用を受くる山中第一で、縣下に於ても亦稀に見るものである。從つて其鬼斧神鉞の妙を極めたる勝地たること推して知るべきであるが、昭和の今日迄人跡未踏の神秘境として取殘されてゐたことは、實にまた一の奇蹟と云ふべきである。”と書かれています。

岩澤正作さんは昭和7年11月13日に滝沢不動から粕川を遡行し銚子の伽藍に向かいます。川口浩探検隊もかくやと思わせる紆余や曲折の後に、銚子の伽藍の下部、銚子平に至ります。
“銚子平は、銚子伽藍の下方に在つて、右岸崖脚の露出せる小平地と云ふより、岩盤と稱するを適當とする。其全面上流に高さ三丈ばかりの瀑が懸り、瀑頭深潭をなし、これより落下する状恰も銚子口の如きを以て、瀑を銚子瀑とし、深潭を前銚子とした。これ銚子伽藍の背後即ち舊火口壁内の河底にある、甌穴に對稱して呼んだもので、後者を裏銚子とし、其中間を伽藍と稱するものと想像したものである。”

ですが、“是より尚東北に下り、銚子伽藍部の外壁を攀ぢて内部に下らざれば、眞の人跡未踏の神秘境たる伽藍部を窺知ることは出來ない。眞に其處を窮めるには決死の勇氣と、瀧澤から約二日の時間とを要するであらう。さうして内部に入るも所々に瀑布懸ると云へば、必ずや瀧壷も存在するであらうから、上流裏銚子まで通過し得ざることは當然と想像する。〈中略〉此處迄來て尚其の神秘境を窺い得ざりしことは遺憾であつたが、時間の關係や其他の事情に煩はされ、名殘惜しくも從來の神秘境は尚當分其儘保留して歸途につくことにした。”

要するに勇気ある撤退をされたということです。76年前の記録です。通過されていたら、暴挙か快挙か、この後、銚子の伽藍の中を通過しようとした人がいたかどうかは寡聞にして聞きません。

「赤城山花と渓谷」の著者青木清さんも『銚子の伽藍南壁』の項で“左岸の崖際をよじ登り、伽藍の中に入ってみると、両岸の崖が頭上にせり出すようにそそり立ち、わずかに見える空には雲が流れている。空を見ていると崖が動きだし、今にも押し潰されるような感じを受けるので怖くなる。谷底の大きな岩から落ちる滝があり、これより奥へは行けず引き返すことにする。”と書いています。

ついに銚子の伽藍は人跡未踏の地だったのでしょうか。青木清さんは牛石峠から伽藍右岸の展望台手前の尾根を下り、伽藍平に行かれているようです。尾根には踏み跡のようなものが認められますが、粕川の底の辺りは地図を見ると断崖絶壁のようで、谷底まで下るのは人間技とは思えません。
左の写真は銚子伽藍探勝記からの引用です。青木清さんは見えている滝の落ち口まで行かれたようです。惜しい人を亡くしました。ご冥福をお祈りします。

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