ぎょうきだいらやま。両崖山に向かう途次、山かなと思って近付いたら、古墳の案内板がありました。残念、古墳かと。でも案内板には山頂古墳とあります。古墳ムーディーズという古墳のサイトにも“ただの山の一部型・古墳と認識するのは難しい”と書かれていました。やっぱり山で良いのか。足利市教育委員会の行基平山山頂古墳の説明でも尾根上の頂部にあるということで、やや反則に近いですが、足利の山の仲間入りです。反則だとしても、5カウント以内ならセーフですし。
それなら、尾根続きの機神山はどうだというと、頂部に三角点はあるし、もとは魚住山、今は織姫山と山と呼ばれていますが、見るからに古墳古墳しています。これまで山の仲間に入れるのはあんまりだと。良い子は登っちゃいけないようだし。

特に、アプローチなど書く必要のない場所に行基平山はあります。織姫公園内です。登山するにあたって、注意を喚起することもありませんが、山ですので、お気をつけてお登りください。

行基平の上だから、行基平山。行基平の行基に関しては、この尾根を辿ってゆくと、関東の高野山「行道山浄因寺」に至ります。その開基が行基上人といわれているので、そこからきたのかと思ったのですが、さにあらず。麓の徳正寺の開基も行基上人でした。出典は台一雄著『足利歴史散歩(岩下書店)』です。それによると“行基上人が、夢まくらに現れた山王権現のお告げにより、大和国(今の奈良県)から霊地をたずねて、はるばる足利の地を訪れたとき、山の中腹(現在の行基平)に草庵をつくり、虚空蔵菩薩をまつったのがこの寺の始まりで、天平三年(七三一)上人が六十二歳のときのことだった――と伝えられえいます。”足利市の寺の創建の古い順の一番から三番までが行基上人の開山と伝えられています。一番、浄因寺(七一四)。二番、徳正寺。三番、最勝寺(七四五)。ということですが、薮塚温泉の発見者も行基上人という伝説もあり、水戸黄門や弘法大師の伝説の類いかも知れません。

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