いわいやま。入口にある説明板に、“足利旧市街の南東、勧農山(いま岩井山)なる独立小丘の丘頂から麓部までを占め―中略―西から南には南流する渡良瀬川がめぐり崖上に築かれたこの城は見晴しも絶好で天険の城塞である。”と書かれています。
山であることは間違いなく、「やまの町 桐生」で紹介することは何の問題もないのですが、訪れる前に想像していた姿とは大きく異なっていました。“中洲にある山”という言葉が際限なくイメージを膨らませていました。
北方謙三の水滸伝に、江州で官軍に追われた梁山泊の頭領宋江が揚子江の中洲に作られた砦に同志と逃げ込む行があります。宋江は岩上の櫓から長江の水面を見下ろし巨大な船に乗っている気分になります。水が流れているのに、島全体が動いているような錯角に陥ります。そんな気持ちを味わえるかと思って期待して向かったのですが…。
残念ながら、説明板にある通り、川は西から南に流れています。北と東は渡良瀬運動公園、足利いわい公園、河川敷ではありますが、つまり陸地です。岩井町への橋、岩井橋の下も水は流れていません。大水の際には岩井分水として水を流すこともあるようですが。
おまけに山は背丈を越す篠に覆われて川面を覗くことさえできませんでした。

桐生からは、桐生岩舟線を進み、足利市内伊勢町二丁目の信号を右折、ガードで両毛線を潜り、出た所の信号を左折、足利館林線を跨ぎ、渡良瀬グリ−ンプラザ入口の信号を左折。正面の渡良瀬川の堤防の上のモニュメントはカスリン台風の犠牲者の慰霊ということです。少し堤防に沿って走り、岩井橋をわたります。右に見える森が岩井山。岩井山の手前で河川敷に降り、テニスコートの前に駐車します。

説明板と岩井山城跡の道標があり、石段を登ります。すぐに鳥居があり、右手のお札授与所だったような朽ちかけた建物。その脇に踏み跡があるのですが、笹に埋もれています。少し行くと赤城神社の本殿。静かな佇まいは、なかなかのもの。本殿の横に史跡岩井山城跡の標柱、その脇に細い踏み跡があります。踏み跡を進み、乳房地蔵尊ヘ近道の道標に従い左折。すぐにお堂が見え、その前に何体かのお地蔵様。乳房地蔵の由緒はと、探してみましたが、由緒書きのようなものは見当たりませんでした。地蔵尊の境内を抜け、右に道なりに進むと丘頂です。丘頂の手前に栃木、岩井と読み取れる標石がありました。何の標石でしょう。どなたかご存知の方。
見る人が見、わかる人が歩けば、ここが中世の城跡であることが瞭然としているのでしょうが、門外漢の私には何が何やら。曲輪やら堀切やらもっとはっきりしていないと。
踏み跡もあちこちにあるのですが、なにせ素足にサンダル、Tシャツ一枚の姿で背丈程の笹薮に突き進む勇気は持ち合わせていません。山を甘く見るとこの体たらく。辛うじて最高地点まで行きはしましたが。
下山は乳房地蔵から住宅地に。道に出た所に水神宮の石祠と庚申塔がありました。乳房地蔵の参道でしょうか。

説明文の絶好の見晴しには恵まれませんでしたし、崖上の天険だという実感も得られませんでしたが、多少の山の雰囲気には浸れました。
ネット上には四方が川に囲まれた山登りの報告もあります。「やまの町 桐生」の周辺にそんな山があると良いのですが。
われら梁山泊の一党、義によって立つ。川の中の島の山頂で、そんな思いに耽ってみたいものです。
楚巒山楽会の旗は一清道人から受けたものですし。

2008/5/29 上記の岩井の文字が刻まれた石柱の他にあった標石を標石研究家のT沢さんが確認され、写真を送っていただきました。ありがとうございました。標石には第一區土木監督署、No.6と刻まれています。

2008/6/21 足利百名山に選定されている岩井山の標石を確認しにいったのですが、上記の土木監督署の標石は見つかりませんでした。草が強勢を誇っている間の探し物は、志の篤い人でなければ無理ですね。夏草を掻きわける勇気は、なかなか。
志といえば、若干、“われら梁山泊の一党”の気分に浸れそうな箇所がありました。山脚を渡良瀬川の流れが洗っています。小さな山ですが、草のない時だったら、いろいろ探検ができそうです。もぐってみたい踏み跡が幾つかありました。岩井山の中にある金比羅山の写真もとってきました。私が写真をとった方の標石、もしかしたら宮標石かも。宮マークがあるような。

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