足尾山塊主脈縦走

増田 宏

白根山〜錫ケ岳〜国境平〜松木沢
 袈裟丸山・皇海山から北に三俣山・宿堂坊山を経て日光白根山に連なる足尾山塊主脈、この縦走は1968年に初めて皇海山に登って以来の課題だったが、国境平以北については関心を持つ仲間がいないため同行者が得られず、なかなか実現できないでいた。その機会は1975年の秋になってようやく訪れた。この年は私にとって学生生活最後の年であった。1973年の石油危機に端を発した経済の混乱は75年に入ってさらに激化し、インフレと不況が同時に進行するスタグフレーションに見舞われた。未曾有の経済危機のため企業の求人数は激減し、厳しい状況下で友人達は就職活動に忙しかった。当時の私は、選択すべき職業が決められないために卒業後の進路が定まらず、就職活動にも無縁で、落ち着かない毎日であった。
 そんな中で十月の十日から十二日にかけて飛び石連休になったので、同級の友人を誘い、長年の宿願だった足尾山塊主脈の縦走を行なうことにした。私の山登りは足尾山塊に始まったが、それはこれらの山々が地理的に近いことが理由であり、その後関心は谷川岳や北アルプス・越後の山などに移っていた。しかし、後に足尾山塊で一般コースを離れて、袈裟丸山や泙川に入渓したことが契機になり、未開の稜線や鬱蒼とした原生林の存在など足尾山塊の真価を認識することになった。そのため、一時遠ざかっていた主脈縦走の熱意が蘇り、一層強まってきたのである。
 縦走の行程は、登りが少ないことから白根からの南下コースとした。白根山頂へは最も体力的に楽な菅沼からの道を選択した。列車とバスを乗り継いで行くと登山口に朝着くことは不可能なので、菅沼まで同級の友人二人に車で送ってもらうことになり、まだ夜が明けきらない早朝に桐生を出発した。

白根山から錫ケ岳北方まで
 友人二人に見送られ、菅沼茶屋の脇から登りだす。二人ともこの道は初めてだが、白根沢から前白根への道に比較して、標高差の小さいこと、傾斜の緩いこと、そしてみごとな針葉樹林に覆われている点で優れている。針葉樹林帯の緩登をしばらく続けると、たいして疲労を感じないうちに弥陀ケ池に着いてしまった。
 歩き出した時から十月上旬にしては肌寒い陽気だったが、弥陀ケ池から奥白根の登りにかかると、頗る寒さが増して霰が落ちてきた。風が強まり、水分が岩の間にある樹々に付着して霧氷となっている。予想外の寒さに震えながら岩と砂礫の道を登り詰めて、奥白根の岩の頂に立った。天候は良くないが、有名な山だけに山頂付近には登山者の数が多い。休憩もそこそこに寒風の吹く山頂を辞して、避難小屋に向かう。小屋で小憩の後、再び寒空の中に出る。前白根の手前から南方に錫ケ岳の稜線に入れば、登山者の姿は全く無くなり、静寂境に入ったことを感ずる。指導標は無いが、道は明瞭で快適に進むことができる。暫くは奥白根の豪快な岩峰を仰ぎながら疎林帯の稜線を行くが、進むにつれて笹の下生えが現れ、林相も密になり出した。白根隠しの頂上は気付かず通過してしまう。ここは同じような峰が続いており、見落としやすい場所である。この先は、足尾山塊に相応しい笹と針葉樹の交錯する稜線が続いている。
 この先は幕営適地が無いので、鞍部で露営することにした。水場は日光側の三右衛門沢源流で、往復15分程である。露営の準備をしていると、意外にも単独行の女性がやってきた。明日中にここから皇海山を越えて足尾へ下るという。察するところ、足尾山塊は初めてのように見受けられた。私は、一日で皇海山を越えて足尾へ下るのはかなり難しいので、遅くなったら無理をせず国境平から松木沢に下るよう話した。彼女は私たちの近くにテントを設営したが、それ以後言葉を交さなかった。深山の縦走を一人で行なうのは心細くないのだろうか。一時、雨がぱらついたが、まもなく止み、夜半、周囲は霧で包まれた。この日は暖かく、午前三時まで快い睡眠をとった。

国境平から松木沢下降
 明るくなって空を見ると、高曇りだ。雨になるかと心配していたが、予想より良いので安心する。露営地から三俣山までは良い道で、まずは順調な歩きだしであった。
 三俣山は主脈から松木連峰を派生する重要な位置にあるが、遠望したその山容は皇海山北方にある稜線上の高みにしか過ぎない平凡なものである。山頂部は北東から南西に連なる平坦な地形で、樹林に覆われているため頂上がわかり難い。三角点は南端の高みにあった。ここで偶然反対側からやってきた四人組に会う。縦走中に人に会うのは珍しいが、おそらくこの日が秋の飛び石連休だったからだろう。彼らは北へ主脈を縦走し、宿堂坊山から東に派生する尾根を西ノ湖付近へ下山するのだという。行く手には皇海山のどっしりとした山容が迫っている。
 三俣山は五万分の一地図には名称が記載されていない。稜線が三方に分岐する地点という意味で登山者が付けたものと思えるが、三俣沢上流に位置することから付けられたということも考えられる。この山の初期の記録では三笠山となっているが、この名称はおそらく宗教に由来するものだろう。このことを含めて、さらに検討して見る必要があると思う。
 三俣山から南へも良い道が続いていたが、国境平との中間にある1820m峰で道を失い、一時間近く浪費してしまった。この峰で主稜線が右に急曲しており、真直ぐの方向に顕著な尾根が延びているので、この尾根に入り込んでしまったのである。この尾根上にも縦走路と間違いやすい踏み跡がついているので、注意しないと迷いやすい場所である。折しも道を失い笹を漕いでいる最中に、とうとう雨が降り出した。覚悟を決め、雨具を身に着けて笹に突入する。まもなく道を見つけ、ほっとした。ここから先は疎林と低い笹の稜線となり、爽快な縦走路だ。五万分の一地図(1968年版)には記載されていないが、釜ノ沢源頭の崩壊壁はかなり顕著なものである。三俣山からシゲト山・黒桧岳にかけての松木連峰が背後に見えていたが、次第に霞み、ついには雨雲にかき消されてしまった。
 これに対し、南方の展望は開け、日向山(1691m峰)からは行く手の皇海山から庚申山への稜線がはっきり見える。一気にかけ下り、懐かしい国境平の笹原についた。国境平を初めて訪れたのは松木沢から皇海山を往復した1969年のことだったが、白い砂地に笹原が調和して別天地のように感じた。今回が三回目の訪問だが、その時に比べると笹原の美しさが損なわれたような気がする。短期間のことなので、景観が変化したのではなく、私の受け止め方が変化したのかもしれない。
 当初の計画では皇海山・庚申山を越えて原向へ下る予定だったが、第二日目の行程が思いのほか進まなかったので、この日のうちに下りきるのは難しいように思えた。私たちには当日中に下らなければならない理由があった。それは、友人が願書を出していた会社からいつ面接の通知があるかわからなかったからである。そのため、ここで縦走を打ち切り、松木沢に下ることにした。俗塵を離れた山中にあっても、身辺の制約から逃れることはできない。自然を求めて山に入っても、結局のところ私たちは自然の構成員ではなく、束の間の通過者でしかないのだった。
 国境平から初めて松木谷を見下ろした人は、その下流が一木一草もない荒涼とした非情の世界であることを想像できるだろうか。逆に足尾・赤倉の製錬所付近の煙害による無惨な山肌を見て、その荒涼たる世界が渡良瀬川の源流にまで及んでいることを知っている人がどれだけいようか。松木谷の印象はかくも強烈である。私は、最初に受けた強烈な印象を未だに忘れることはできない。
 小雨の中、私たちは松木沢に向かってモミジ尾根をかけ下った。モミジ尾根では前年にその名に相応しい鮮やかな紅葉を見たが、今回は残念ながら期待外れに終わった。やはり、残暑で紅葉が遅れているのだろう。見事な紅葉は数年に一度程度で、しかも盛期はわずか数日のことであるから、それに遭遇するのは案外難しいものである。
 河原の石が濡れていたので、先の単独行の女性もここを下ったらしい。降雨中なので、増水を心配しつつ足早に谷を下る。両岸は険しい岸壁が続くが、溪底は広い河原で、その中を水流が蛇行している。ここが初めての友人は登山靴を履いたままの徒渉に戸惑っているので、この先数十回の徒渉があるため、そのまま水に入るようにいった。
 ウメコバ沢出合の先で砂防道路上に出た。両岸の岸壁は、上部が霧と雨に煙って陰険な感じがする。とくに右岸側は一の倉沢のような凄惨な印象を受けた。それでも初めてこの谷を遡行した時に比較すると、治山事業の緑化により徐々に緑が蘇ってきている。三川堰堤を杉、赤倉の製錬所を右に見ながら、一路間藤駅に向かった。
 帰宅してみると、案の定、友人に翌日の面接通知が届いていたのだった。

記録
1975年10月10日
菅沼8.50、奥白根山11.30〜12.15、避難小屋12.55〜13.15、前白根山分岐13.30〜13.45、幕営地16.05
10月11日
幕営地6.15、錫ケ岳7.55〜8.20、柳沢水場9.53〜10.38、柳沢の頭10.43、林道下降点12.05、宿堂坊山13.45〜14.20、ヤジの頭15.00〜15.15、幕営地16.15
10月12日
幕営地6.00、三俣山7.10〜7.30、1820m峰8.23(1時間浪費)、国境平11.00〜11.20、ウメコバ沢出合14.40〜14.55、間藤駅17.20

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