足尾の山雑感
 

増田 宏

学生時代の山

 中学生の時、父に庚申山に連れていってもらって以来、足尾の山を歩き回っている。土曜日の午後学校が終わるとすぐ足尾線に乗り、庚申山荘に泊まって翌日山頂を目指したことが中学・高校時代にはよくあった。

 大学時代も北アルプスなどに行けるのは年に1回くらいで登山対象はもっぱら足尾の山だった。当時は今と違って道が整備されているのは庚申山くらいでそれ以外の山で人に会うことは殆どなかった。山麓歩きが長いので日帰りできる山は限られており、足尾線の駅から延々と歩いて避難小屋かテントに泊まるのが常だった。小屋といっても丸太にトタン板を打ち付けて囲っただけで床もない賽ノ河原避難小屋と工事用バラックを利用した松木沢のニゴリ小屋しかなかった。

 その頃、地域研究として各地の渓谷遡行が発表され、それに刺激を受けた私は足尾の渓谷遡行を始めた。餅ヶ瀬川や小中川から袈裟丸山、上州側の泙川から宿堂坊山などに登り、探検的登山の面白さを味わった。同行したのは同級生の仲間数人である。その中の1人とは卒業後十年行をともにした。

 私に限らず在籍していた山好きの学生にとって桐生から近い足尾の山は恰好の登山対象だったと思う。賽ノ河原から見た袈裟丸連峰の勇姿、庚申山頂からの秀麗な皇海山の姿、煙害で一木一草もない松木沢の荒涼とした山肌などに誰しも懐かしさを感じるだろう。

変貌する山河

 大学卒業後、東京に就職したことがあるが、山が遠くなったということもあって1年で職を辞して桐生に戻って来た。以来、桐生から足尾の山に通い続け、これまでに通算三百数十回を数えている。

 しかし四十年近く親しんで来た足尾の山はその間に大きく変貌した。小中西山線や栗原川林道など林道の開設や堰堤の築造によって渓谷は土砂で埋まり、山肌は伐採で裸になり無残な姿を晒している。奥深くまで林道が通じ、谷沿いに僅か残っていたブナは消え、伐採後の斜面は一面の笹原になっている。そのため鹿が激増し、鹿による樹木の食害が問題になっている。もはや足尾の山に深山の面影はない。これからは失われた自然を憂うだけでなく、親しんできた山の自然を後世に継承しなければならないと思っている。

登山ブームで賑う現在の山

 一方、中高年登山ブームで足尾の山も大賑わいである。ツツジの時期には袈裟丸登山口の駐車台数は百台を超える。登山道が整備され、立派な指導標や看板があちこちに建てられてまさに今昔の感がある。笹が綺麗に刈り払われ、皇海山や袈裟丸山の笹漕ぎはもはや昔語りになった。熟達者向きとされていた両毛国境縦走路さえ登山地図に記入され、目印の赤布が過剰に付けられている。思い立って車を走らせれば袈裟丸山は半日で山頂を往復できる。庚申山を経由して2日がかりだった皇海山は利根村側から栗原川林道が延びたので2時間余りで登れるようになった。登山口の皇海橋には百名山巡りの登山バスさえ乗り入れている。以前のように駅から長い道のりを歩かなければならないのなら足尾の山の入山者は今の1割にも満たないだろう。開発と登山ブームは表裏一体の関係にある。

地域研究

 開発に伴って山村は荒廃する一方である。山の行き帰りに通った集落は離村し、山のことを知る人は年々少なくなっている。山を歩くだけでなくその歴史を記録することも必要と考え、私は集落を訪ねて地名や習俗を聞いたりするようになった。

 その集大成として袈裟丸山の地域研究を行い、自らの登山記録とともに失われていく山村の習俗や歴史を一冊にまとめ発刊した。その後、皇海山について地域研究を始めたが、すでに地名を知る人すらなく、文献に頼らなくてはならない状況である。登山ブームといっても皇海山は不動沢の最短コースに人が集中し、渓谷や積雪期に訪れる人は少ない。周辺の登山記録だけでもまとめたいと思い、現在残った課題に取り組んでいる。

inserted by FC2 system