袈裟丸山の山名について

         増田 宏

 日光白根山から皇海山を経て南北に連なる足尾山塊主脈の南端に聳える雄峰が袈裟丸山である。主脈はこの山を最後に高度を減じ、やがて渡良瀬川に没する。
 1958mの奥袈裟を始め前袈裟・後袈裟・中袈裟・法師岳が当面に懸崖を掛け鋸状に峰を連ねて、周囲に大きな尾根を延ばしている。
 関東平野北部から望む山容は両毛の名峰たるに恥じない。中でも桐生と伊勢崎の間からの景観が最も雄大で、赤城山の右後方に尾根を左右に延ばした端正な双耳峰を仰ぐことができる。

 袈裟丸山の山名の由来について、群馬県側の地元勢多郡東村に次のような伝説がある。それによると、弘法大師が赤城山を開山しようとしたところ、赤城山の山神は仏教の地となることを嫌い一つ谷を隠して九百九十九谷しか現わさなかったので、開山に必要な千谷に満たなかった。大師は残りの一谷を探して袈裟丸山まで来たが、ここでも見付けることができず、着ていた袈裟を丸め山に投げ付けて開山を諦めて帰った。
 これ以外に、赤城山を開山しようとしたのではなく、はじめから袈裟丸山自体を開山しようとしたのだという伝説もある。
西麓の利根郡利根村根利にも同じような伝説がある。いわゆる九十九谷伝説である。弘法大師に因んだ同様な伝説は他にもあり、弘法大師が実際に訪れたかどうかはともかくとして、これを持って山名の由来とすることは適当ではないと思われる。この伝説は後世になって作られたものであろう。
 そこで、袈裟丸山という呼称がいつ頃から使用されていたのか文献を調査したところ、古い図書には記載がなく、この呼称は比較的新しく主に明治以降のものであることが判明した。
 一八四二年(天保十三年)発行の富士見十三州与地之全図「上野国」には袈裟丸山の記載はなく、その位置に「大ケサ山」「小ケサ山」が記載されている。一七七四(安永三年)に発行された毛呂權蔵の上野国志には、勢多郡の部に「大袈裟山」「小袈裟山」があり次のように記載されている。
  大袈裟山 小ケサ山の南、下野界にあり、下野にて二子山と云
  小袈裟山 下野界にあり、利根郡さく山の南なり、野州にて二子山と云
 さく山は、小暮理太郎の考察によって現在の皇海山であることが明らかにされているので、上野と下野の境(両毛国境)の皇海山南方に小袈裟山・大袈裟山があることになる。これは現在の袈裟丸山にほかならず、江戸時代には大袈裟山・小袈裟山と称していたことが分る。
 さらに明治以降の地図を調査したところ、明治時代においても大ケサ山・小ケサ山、あるいは大袈裟山・小袈裟山が記載されている。
 一方、「袈裟丸山」が初めて登場するのは、一八七七年(明治十年)に編纂された上野国郡村誌勢多郡小中村の中においてである。
 また、群馬県地図における山名の変遷を見てみると、明治末頃から大袈裟山・小袈裟山に替わって大袈裟丸山・小袈裟丸山になり、昭和以降は全て袈裟丸山に統一されている。
 以上は群馬県側の文献に基づくものである。
 栃木県側の資料は調査不十分だが、下野国誌には袈裟丸山の名は見られず、隣接する二子山だけが記載されている。その中で、二子山は両毛国境にあって庚申山に連なる旨が記載されており、先に取り上げた上野国志に大袈裟山・小袈裟山が「二子山と云」ということを考え合すと、栃木県側では袈裟丸山を二子山と呼んでいたのかもしれない。明治になって地図を作成した際に、群馬県側の名称を採用し、栃木県側の名称を隣接する現在の二子山に持ってきたものとも考えられるが、必ずしも断定できない。
 いずれにせよ袈裟丸山の名称は群馬県側のものであり、袈裟山が袈裟丸山になったことは事実である。

「丸」について

 では、何故「丸」が付け加えられたのであろうか。
 丹沢や大菩薩周辺では、桧洞丸・畦ケ丸・大蔵高丸など丸の付く山名が多くある。これらの地方は朝鮮半島からの帰化人が多く、「マル」は山を意味する朝鮮語系の呼称であることが明らかにされている。この呼称はこれら一部の地区だけでなく日本国内に広範囲に分布していることから、両毛地区にも山のことをマルと称する風習があった可能性が考えられる。両毛地方に直接マルが付く山名はないが、袈裟丸山周辺にマルの付く地名が幾つかある。袈裟丸山に源を発す小中川下流の東村小中に「袖丸」という集落がある。東村に隣接する黒保根村上田沢には「涌丸」という集落があり、更に東村には「枝丸」という地名がある。
 山を示すマルが集落に使用される例は各所にあるので、この地方において山をマルと称する風習があったことがこの事実から推察される。すなわち、袈裟丸山の「丸」は山を意味するマルであろう。
 古文献・古地図にはケサ山と記載されているが、おそらく地元ではケサ丸と呼んでいたのではなかろうか。その後、ケサ丸に更に山が付け加えられて袈裟丸山になったものと考えられる。古地図にはケサ山と記載されているが、地元で作成した上野国郡村誌においては「丸」が付いていることからもそれが推察されるのである。

「袈裟」について

 次に、袈裟丸山の「袈裟」の由来は何であろうか。袈裟は梵語(サンスクリット)の「カーシャーヤ」の音字であり、現在は梵語に起源を持つ仏教用語となっている。このことから仏教用語としての「袈裟山」であるとする解釈が考えられる。
 山岳信仰のあった山に梵語にかかわる名称が多いことから、仏教用語としての袈裟であるとすると、袈裟丸山と山岳信仰との関連を考慮する必要がある。袈裟丸山に山岳修験が入っていた文献や遺跡を見い出すことはできないが、寝釈迦・相輪塔や賽の河原の存在と南画風の峨々たる山容を併せ考えると、修験の対象になっていたことは十分考えられる。
 近接する日光山は奈良時代に勝道上人によって開山された史実があり、赤城山も同じ頃開山されている。袈裟丸山の属する足尾山塊の他の山については、庚申山が勝道上人によって開山され、北部の白根山・錫ケ岳・宿堂坊山及び黒桧岳は日光山の修験者によって山岳宗教の対象に去れた。(三峰五禅頂の夏峰及び黒桧岳禅頂・白根山禅頂)
 これら近接する地域における開山の状況や修験者の足跡に、いかにも修験者好みの袈裟丸山の峨々たる山容を考え併せれば、おそらく袈裟丸山も山岳宗教の対象にされたであろう。
 その後、山岳宗教が衰退し永い年月の経過によりその痕跡は全く失われてしまったのではないだろうか。中腹にある寝釈迦の作製年代については明らかでないが、江戸時代との説が有力である。そうだとすると、その作製理由は山岳宗教再興の試みであったかもしれない。
 冒頭に掲げた弘法大師の伝説は、袈裟丸山が修験者によって開山されたことを示唆しているのかもしれない。
 以上のことから、おそらく「袈裟」は山岳宗教に由来する名称であろう。

他の地名との比較

 地名を考察する際の一般的方法として、その固有の起源について調査するとともに、他の同じ地名を比較調査することが挙げられる。同じ地名は同種の起原に由来することが多いからである。
 袈裟丸という地名は、私の知っている限りでも幾つか挙げられる。まず、利根郡の湯桧曽川源流部の支流に「ケサ丸沢」があり、群馬郡倉淵村の烏川の上流部には「袈裟丸沢」及び「袈裟丸山」がある。特に、後者に至っては全く同一の名称である。この山は烏川右岸にある1142mの岩峰で、角落山の北北東に位置する。
 この付近には三ツ丸という地名があり、これが名称を考える手がかりを与えてくれるかもしれない。
 また、福岡県にも「袈裟丸」という集落がある。
 今まで古地図に記載されている「ケサ山」に着目し、名称を「袈裟」と「丸」に分けて考察を進めて来たが、以上のような同じ地名の存在から「袈裟丸」が固有の意味を持つ場合も考えられる。残念ながら以上の三例については未調査でその由来は不明であり、袈裟丸が固有の意味を持つ可能性は否定できない。今後研究の必要があると思われる。
 最後に、古文献・古地図に記載されている大ケサ山・小ケサ山という名称について考えると、一つの山を二つに分けて呼んでいるのは奇妙に思われる。袈裟丸山は南北に細長い連峰なので、これを二つに区分して現在の前袈裟方面を大ケサ山、奥袈裟方面を小ケサ山とする解釈が考えられるが、地形的には不自然の観を免れ得ない。
 江戸時代の絵図及び上野国志によると、サク山の南に小ケサ山・大ケサ山と続いている。サク山は皇海山なので、現在の鋸山が小ケサ山、袈裟丸山が大ケサ山であると考えるのが妥当ではないだろうか。
 そして、古地図に記載された大ケサ山・小ケサ山を次代以降の地図が単純に踏襲して明治時代の地図に記載されたものと思われる。以上が袈裟丸山の山名についての考察である。
 もとより、私は地名の研究者でも専門家でもないが、郷土の山袈裟丸山に関心を持つ登山者の一人として、拙い考察を試みた次第である。独断と誤謬が少なくないと思われるので、識者の叱正を得られれば幸いである。

 参考に、調べた地図の発行年と記載の山名及び直接引用しなかった文献を記す。
  富士見十三州与地之全図 1842年(天保13年) 大ケサ山・小ケサ山
  上野与地全図                 大ケサ山・小ケサ山
  上野国地図       1889年(明治22年) 大ケサ山・小ケサ山
  分県上野新図      1893年(明治23年) 大ケサ山・小ケサ山
  大日本名蹟図誌     1901年(明治34年) 大袈裟山・小袈裟山
  群馬県管内全図     1904年(明治37年) 大袈裟丸山・小袈裟丸山
  大日本分県地図     1907年(明治40年) 大袈裟丸山・小袈裟丸山
  群馬県管内全図     1928年(昭和03年) 袈裟丸山
  上毛新聞付録地図    1928年(昭和03年) 大袈裟丸山・小袈裟丸山
  群馬県管内全図     1929年(昭和04年) 袈裟丸山
  下野国誌        1850年(嘉永03年) 二子山安蘇郡足尾郷の山つづきにて、日光山より上野国へ越る山中にあり
  上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本庚申山安蘇郡足尾郷赤岩と云う所にあり、二子山の峰つづきなり、日光山より        上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本西の方にありて、七里許あり
  上野国郡村誌      1877年(明治10年)
                         勢多郡小中村
  上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本●袈裟丸山其高サ周回等不祥本村西北ノ方位ナアリ反別三百町歩官有ニ属ス嶺        上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本●上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本郡根利村ニ属シ南ハ本村        上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本●ニ属ス山脈丑ノ方下野国都賀郡足尾村庚申山ニ連ル
                         鹿流川
  上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本●水源袈裟丸山ヨリ発シ字番小屋ニテ大袈裟袈裟川落合又字コフキニ至テ野沢        上ヲり三分シ東ハ下野国都賀郡足尾村ニ属シ西ハ本●川落合三水相合シテ南方ニ流帯シテ渡良瀬川ニ入ル

1987年発行の「回峰」誌創刊号に掲載されたものである。
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