想い出の六林班峠

増田武豊

 昭和15年5月下旬、桐生市内で知り合ったばかりの友人と二人で、六林班峠越え砥沢・源公平にハイキングに出掛けた。ともにその年徴兵検査を終り、来春入隊を予想される二人である。当時、私は古河鉱業足尾鉱業所工作課に勤めていたが、この紀行も何せ古い話なので記憶も薄く、その時のことをまとめてくれと云われても、二の足を踏まざるを得なかったが止むなく、間違い、勘違いを承知の上で、ペンをとった。

 月末の土曜日、早引きし昼過ぎに通洞合宿(寮とは呼ばず合宿と呼ばれ、職階制の厳しい古河では通洞合宿には中等学校卒業の18歳から27、8歳位までの職名雑夫・実地見習員と云う階層が住んでいた。他に職員の合宿、鉱工員の合宿、組に所属する飯場的合宿もあった)を出発、定時と云う狭軌のガソリンカーに乗り小滝に向かった。その頃の足尾は、衰退期を迎えていたものの、人口2万余り、福祉も充実、物価も安定、人情も豊かで、精錬の亜硫酸ガスの公害、冬の寒さ、夏の南京虫、これらを考慮しても大変住みやすい町であった。
 定時は、時速10km前後で小滝まで6km位をコトコトと進む。小滝は煙害も少なく樹木も茂り、庚申川の渓流も清らか、額を突き合わせたような狭い川辺に町並みが続き、階段状に通称ハーモニカ長屋と云う社宅が立並んでいる。小滝で下車、いよいよ出発。道は銀山平から庚申川に沿った低い所を通っている。
 一の鳥居付近から右庚申道を分け、左本道を六林班峠に進む。道は緩やかで歩き良く、庚申山中腹を巻き蜿蜒と続いている。根利林業所閉山後一年、鉄索は撤去されていたが、その跡地はところどころ望見され、静寂の台地に眠っている。その後の深い渓谷を隔てて荒々しい袈裟丸の山容が迫っている。進むに連れて庚申側には大木も少なく樹林帯が縞模様のように整然と区分され明るく、道は熊笹の中を縫うようにと続く、快調に飛ばし予定より早く六林班峠の頂上に立つ。
 突然群馬県側に大展望が開けてきた。正面に幾条かの残雪を残す上州武尊山の雄大なる山容、白銀に輝く上越国境の連山、ここで大休止、心ゆくまで展望を楽しみ一応目標を達成した。六林班峠は皇海山から続く鋸連峰と袈裟丸山の鞍部にあり、栃木・群馬の県境海抜1800m、かなり高い峠で足尾町と追貝を結んでいた。峠は、明治末期古河鉱業が砥沢・源公平・平滝を中心に広大なる根利林業所の操業を開始、爾後三十数年昭和14年閉山に至るまで二、三千人の人達が住んでいたので、この道は生活道路として重要なものであった。
 私が六林班峠の存在を知ったのは、当時鉄道省東京鉄道局管内の一泊二日健脚向特選ハイキングコースとして紹介宣伝されていたからである。コースを詳述した大きな地図を持っていたので、いつか行ってみたいと考えていた。コースの良さは、深い渓谷・美しい樹林帯、山の深さ、それにも増して峠の大展望と変化がある。しかし古河鉱業根利林業所の閉山で拠点を失い、急速に群馬県側が荒廃し、とても追貝まで歩きおおせるものではない。宣伝された割り合いに人も入らず、幻のハイキングコースと終ってしまった感もある。
 大休止後、下降開始、砥沢に向かう。足尾側の明るい緩やかな斜面と打って変わり栗原川を巻いて下る道は急勾配で、閉山後一年しか経っていないのに崖は崩れ、橋も落ちておる所も多い。何度か浅い渓流を渡渉し、難行の末、やっと砥沢に到着。部落は栗原川両岸に建物跡が点在し、何棟かは完全な形で残っていた。人跡絶えつい一年程前まで数百人住んでいた所とは思えない静寂の中である。家の中から今にも人が出てくる感じだが、人気も絶え鬼気迫るものがある。良く区画された狭い斜面の庭先には、家人の帰りを待つかのように名も知らぬ草花が咲き競っている。異様なるあたりの雰囲気に恐怖感を覚え一刻も早くその場を去りたかったので、歩を速め源公平に向かった。川は幾つか支流を合わせ滝となり深い釜が続き、どの位歩いたか、明るいうちに宿営予定の源公平に到着した。
 源公平は川の右岸に長屋風の建物が何棟か残っており、広く明るい印象。建物の一角にただ一人残務整理のため管理人として村上(昭和61年にこの人の名前を根利山の会の人から偶然聞いた。それまで神山と記憶していた)さんという人が住んでいた。来意を告げ一夜の宿を頼んだ。その人は片腕だがなかなかの人物、心よく泊めて戴き大変世話になった。むしろの上には山で採ってきたと云う天然と思える椎茸が沢山あった。
 夜カンテラを点け魚を捕りに出掛けた。建物の左に川は瀬になって流れ、深さも膝位で浅い。私は生まれてこの方、ざるやかい掘りでどじょうや鮒を捕ったことはあるが、釣りをしたことは無い。魚捕りは不得手である。何匹捕ったか記憶も無い。勿論私は駄目だった。夕食は管理人村上さんの好意の山の幸で膳が賑わった。風呂もたてて貰い一日の疲れを癒し、暖かい布団の中で川のせせらぎの音を枕にぐっすり眠った。
 翌朝も又快晴、恵まれた山旅だった。
 朝食後村上さんにお礼をし、桐生の友人は追貝方面に下り、私は足尾に向かった。行きは良い良い、帰りは怖い。二人でも淋しかったのに一人ではまた大変、砥沢を通過する時は生きた心地がしない。飛ぶように脇目も振らず駆け登った。やっと高い所に来て今通ってきた道を振り返る余裕ができた。再び訪れることのないであろう砥沢に最後の別れをし、六林班峠に向かった。
 軽装で年も若く足に自信があったので、六林班峠に早く到着。そこで小休止。下りはのんびりとヤッホ−ヤッホーと連呼、大声で歌を唱いながら足尾に向かった。この二日間源公平の村上さん以外誰にも会わなかった。遅くならないうち、通洞合宿に帰着した。
 以上がおぼろげなる記憶を辿りやっと書き綴った六林班峠の想い出である。

後 記
 昭和61年7月26日、長男と二人で46年振りに砥沢を訪れる機会を得た。今は、根利から栗原川林道が追貝まで通じ、かつての秘境旧砥沢部落のすぐ上まで車で行ける。
 砥沢に皇海荘と云う山小屋が建設され、多くの人に利用されている。かつて根利林業所に働いていた人々・家族の方々にとって、この地には三十数年の歴史が刻み込まれて、多くの忘れ得ぬ思い出とともに、先祖の霊も眠っているので、とくにその人達のため墓参用として建設が許可された建物である。名称は朝夕仰ぎ見た名峰皇海山にあやかり命名された。
 再訪した砥沢は、すっかり変わり、私の記憶も方向感覚まで失われて、何の役にもたたなかったことを思い知らされた。しかし今回の再訪は、意義深いものであった。

 昭和62年11月30日「回峯」創刊号に掲載。

 根利山の開発に伴い、林業所のある砥沢を始め平滝・源公平・津室・円覚などの集落を結ぶ歩道が整備された。それらの大半は六林班峠・延間峠・八丁峠などの峠越えの道であり、閉山によってほとんどが廃道になった。現在、六林班峠から樺平の区間が唯一登山道として残っているだけである。
 亡父増田武豊は根利山閉山の翌年1940年に六林班峠を越えて砥沢・源公平を訪れている。当時の峠道及び根利山を知る参考となるのでその紀行を掲載する。  増田宏著「皇海山と足尾山塊」より

写真は「回峯」創刊号“足尾山塊・六林班峠への道”

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