阿寒岳

増田 宏 

 深田久弥の『日本百名山』には阿寒岳と書かれているが、阿寒岳という山はなく、雌阿寒岳(1499㍍)と雄阿寒岳(1370㍍)の二つの山を指している。阿寒湖は日本を代表する観光地の一つであるが、車がひしめき観光船が走る現在の阿寒湖にはもはや神秘の片鱗さえない。だが、阿寒には湖を挟んで対峙する雄阿寒岳、雌阿寒岳の2つの山が品格を添えている。深田久弥は湖面に端正な円錐形の影を映している雄阿寒岳を阿寒岳の代表としているが、知名度では今も噴煙を上げる活火山の雌阿寒岳が凌駕している。アイヌの人々は古来ピンネシリ(雄阿寒)、マチネシリ(雌阿寒)として一対で呼んでおり、二つの山が調和融合して特有の景観を形成している。どちらか一方が欠けても風格は半減してしまう。阿寒岳という呼称は当を得た名称だと思う。
 阿寒岳が初めて記録に表れたのは幕末の蝦夷地探検家松浦武四郎によるものである。彼は登山家としても知られ、蝦夷地探検の際にもいくつかの山に登っている。著書「久摺日誌」には安政五年三月二七日(新暦五月八日)の阿寒岳登頂記が記載されている。この紀行では阿寒岳とあり、雄阿寒岳か雌阿寒岳か記していない。深田久弥の『日本百名山』では雄阿寒岳だと断定しているが、記述と挿絵から雌阿寒岳であることが判る。雌阿寒岳登山について、調査日誌では同日に舟で阿寒湖巡りをしていることから武四郎研究家は事実でないと述べている。
 しかし、調査記録の「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌(戊午日誌)」第八巻「東部安加武留宇智之誌」に前日二六日のマチネシリ(雌阿寒岳)登頂の記載がある。久摺日誌の紀行とは内容が異なるが、この登頂記から雌阿寒岳登山は事実であることが明らかになった。以下に戊午日誌の登頂記の要約を掲げる。

 ルベシベ(アカン越の頂上)からアイヌ三、四人を連れて山へ向かった。ゴヨウマツが青い絨毯を敷いたように少しの隙間もなく一面に生えていた。その美しさは例えようもない。松の下には氷雪がうず高く積もってまだ少しも消えていない。それからいよいよ山は険しくなり、十丁(一㌔)ほど登ると風が厳しくなって休むこともできない。山もさらに険しくなり、それから二十余丁(二㌔余り)辺りで雪路になって足が凍るほど冷たかった。その雪路を七八丁登ってマチネシリ(雌阿寒岳)頂上に着いた。ここから東を見るとアカン沼(阿寒湖)を眼下に、その先にピンネシリ(雄阿寒岳)が見えた。ピンは雄、マチは雌の意味であり、合わせて雌雄の山と呼んでいる。山頂から雪路に尻を突いて滑り下りた。アイヌの人は十丁(一㌔)もあるところを一気に下ったが、自分は恐ろしくて転びながら時間をかけて下り、やっと雪路を離れた。それからしばらくしてルベシベ(峠)に下り着いた。

 5月連休頃は残雪が一面に残り、道のない山を登るには最適の時期である。登山家の武四郎が阿寒岳を見て登らないではいられなかった心情はよく分かる。登頂の翌日、武四郎は小舟で阿寒湖を巡った。その際に詠んだ次の漢詩が登頂の感銘をよく表している。

水面風収夕照間、小舟撐棹沿崕還、忽落銀峯千仭影、是吾昨日所攀山
(要約)
風が収まり夕日の照る水面に小舟を浮かべ、岸沿いに還って来る。千仭(千尋)の影を水面に落としている銀峰は吾が昨日登ったところの山である。

 雄阿寒岳の登路のうち南側から登る道は廃道になり、現在は阿寒湖畔から登る道が唯一のものである。雌阿寒岳の登路は西側の雌阿寒(野中)温泉及びオンネトーからの道、それに東側の阿寒湖畔からの道の3つある。

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阿寒岳概念図

 私が初めて阿寒岳に登ったのは夏で、雄阿寒岳と雌阿寒岳の両方を登った。釧路から乗ったバスを阿寒湖畔手前の滝口で降り、妻と2人で雄阿寒岳を目指した。道は針葉樹林帯に電光形に付けられている。この山は合目を示す道標が不揃いで六合目が八合目くらいの位置に付けられている。六合目からいったん下り、ダケカンバ帯を登ると森林限界になる。ハイマツ帯になり、頂上付近はコケモモがびっしり生えていた。山頂は霧の中で知床はもとより阿寒湖さえ見えなかった。下山後、阿寒湖畔でバスを乗り換えてオンネトーまで行き、湖畔の野営場で泊まった。
 翌日、雌阿寒岳を目指した。初めは青空が見えていたが、雌阿寒岳と阿寒富士の鞍部に出ると急に霧混じりの強風が吹き出した。寒いので阿寒富士を割愛して雌阿寒岳に向かった。噴煙で息が苦しく、咳が出る。登るに従い風はさらに強くなり、山頂では何も見えず、早々に雌阿寒温泉に下った。
 その次は山仲間と2人で厳冬期に2つの山頂を目指した。まず、滝口から輪かんを履いて雄阿寒岳を目指した。積雪は思いのほか深く、六合目(実際の八合目)までようやく達したものの、そこから先は軟雪で踏み抜きが多く、頂上到達は不可能なことを悟って撤退した。雄阿寒岳は積雪が多く、日帰りではとうてい登れないことが判った。次回は三合目付近に幕営して山頂を目指そうということになった。やっと滝口まで戻ってバスを待ったが、真っ暗な中で私たちがいるのに気付かず、停車しないでバスは行ってしまった。
 この時はアイヌの人が経営する阿寒湖畔の民宿に2泊し、中日に雌阿寒温泉から雌阿寒岳を目指した。雌阿寒岳は雄阿寒岳より樹林帯の積雪が少なく、ラッセルは容易だった。森林限界から上は積雪が風で飛ばされており、快適にアイゼンを効かせて山頂に立った。噴煙の音が凄まじく、冬の活火山の厳しさを体験した。下山後、雌阿寒温泉で入浴し、阿寒湖畔に戻った。往き帰り無償で登山口まで長い道のりの送迎を引き受けてくれた民宿の主人には大変お世話になった。
 その後、夏休みに家族で阿寒を訪れた際に一人で雌阿寒岳を訪れた。オンネトーから登って阿寒富士(1476㍍)を往復してから雌阿寒岳に登り、雌阿寒温泉に下った。阿寒富士は典型的な富士形の山容で名峰の貫禄がある。旧盆で1軒しかない雌阿寒温泉は満室だったが、訪ねた時に偶然取り消しがあり、宿に泊まることができた。
 頂上に到達できなかった積雪期の雄阿寒岳とまだ歩いていない阿寒湖畔から雌阿寒岳に登るのが次の課題である。

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阿寒湖畔から雄阿寒岳
雌阿寒火口と阿寒富士
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雌阿寒岳山頂から阿寒湖方面(8月)
雌阿寒岳山頂と火口
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冬の雌阿寒火口
冬の雌阿寒岳から阿寒湖方面
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冬の雌阿寒岳から雄阿寒岳・阿寒湖 冬の雄阿寒岳中腹から雌阿寒岳

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