石鎚山

増田 宏 

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石鎚山概念図

 石鎚山(1982b)は西日本の最高峰であり、日本七霊山の一つに数えられている。古来、伊予の高嶺と呼ばれ、山部赤人や西行の歌にも詠まれている。山の風格と歴史から私は西日本随一の名峰だと思っている。石鎚山の開祖は役小角(役行者)とされているが、改めて修験道の本を見ると意外なことが分かった。伝承を記録した奈良時代の「日本霊異記」に寂仙という人物が記載され、開祖であることが窺われる。
 伊予国神野郡部内に山あり。名付けて石鎚山と号す。是れ即ち彼の山に石鎚神あるの名なり。其の山高崒にして凡夫登り至ることを得ず。但、浄行人のみ登り至りて居住す。彼の山に浄行の禅師ありて修行す。其の名を寂仙菩薩となす。
 寂仙の死から三十数年後、弘法大師空海が山伏として石鎚山で修行した。このことは空海の自伝三教指帰(さんごうしいき)に記載されている。以後、空海が石鎚山の開祖とされ、石鎚神は修験道の本場である大和大峰山の蔵王権現に置き換えられ、中宮に蔵王権現が本尊として祀られた。さらにその後、蔵王権現を祈り出したという役行者(えんのぎょうじゃ)が開祖とされた。
 明治維新の廃仏毀釈、修験道禁止令によって石鎚山修験の本拠常住の奥前神寺は成就社と改められ、本尊の蔵王権現は麓に下ろされた。現在、成就社のすぐ下標高1400bまでロープウェイが通じており、毎年7月1日から10日まで山開き(石鎚大祭)が行われ、白装束の信者で賑わう。主な登山道は3方向から付けられている。西条からロープウェイで成就社を経由する表参道、松山から石鎚スカイラインで土小屋を経由する道、南面の面河渓谷から登る裏参道があり、登山者の大半は最も容易な土小屋からの道を辿っている。

 厳冬の石鎚山
 私が初めて石鎚山に登ったのは二十代後半で、厳冬期の2月上旬に頂を目指した。まだ瀬戸大橋は開通しておらず、寝台特急瀬戸で宇野まで行き、宇高連絡船で四国に渡った。夕方、ロープウェイに乗ったのは私1人だけで、30分ほど歩いて成就社の旅館に泊まった。厳冬期なので宿泊客は私1人だけだった。翌日、冬山完全装備で山頂を目指したが、ほかに登山者はいなかった。成就社の積雪は50aほどで途中まで写真を撮る人の踏跡が付いていたが、前社ヶ森を巻き終えたあたりで踏跡は消失した。強風が顔面を打ち付けて痛い。一ノ鎖下で積雪が深くなった。二ノ鎖は途中で氷瀑状になったので引き返し、巻き道を辿った。三ノ鎖も巻き道を辿り、氷結した雪面にピッケルを打ち込み登高した。硬い雪面にアイゼンが効いて心地よい。ザックの中のジュースが凍るほど気温が低く、樹木には一面霧氷が着いていた。弥山(みせん)から見る天狗岳は北壁が一気に切れ落ち、頂は鋭く天を突いている。岩の露出した痩せ尾根にアイゼンを効かせて一気に登り詰め、最高点の天狗岳に立った。風が去来する厳冬の頂にただ一人立って充実感に浸った。四国は南国と思っていたが、山頂の積雪は1bを遥かに越え、厳冬期の厳しさは想像以上であった。休むことなく登ったので厳冬期とはいえ、成就社から2時間半で山頂に着いた。
 10年後の5月下旬に再び1人で同じ道を辿って石鎚山に登った。季節がいいので登る人が多く、前回巻き道を辿った二ノ鎖、三ノ鎖を直登したが、太く立派な鎖は信徒に威圧感を与えるに十分であった。この鎖場での修行を鎖禅定と呼んでおり、さすが山岳宗教の霊地であることを感じさせた。弥山と天狗岳間の岩稜から下を覗くと垂壁が何百bも切れ落ち、凄い高度感である。軽装なのでロープウェイから山頂まで2時間もかからなかった。

 秋の石鎚山系縦走
 過去2回の山行では石鎚山を表参道から往復しただけで山の一面を知ったに過ぎず、物足りない気持が残った。以来、違った道を辿って石鎚山系を縦走することが懸案になっており、今秋二十年ぶりに石鎚山を目指した。10月下旬、思い立って寝台特急サンライズ瀬戸に乗り、四国に向かった。今回は堂ヶ森から石鎚山に登って石鎚山系を縦走する計画で初日は壬生川(にゅうがわ)からバスで保井野に行き、堂ヶ森(1689b)を越えて避難小屋に泊まった。ところがあるはずの小屋がない。小屋が稜線上にあると思い込んで通り過ぎてしまい、戻って探したが見付からない。荒廃して解体されたのだろうと諦めてテントを張ろうとしたところ稜線を外れた山腹にある小屋が偶然目に入った。登山道からは樹林の陰で見えなかったのだ。また、ここまで水を背負い上げたが、小屋の脇に水場があり、余計な労力を費やしてしまった。登山道が整備されている山でも事前に調べておくことが必要だと改めて感じた。
 翌日、雲に覆われて視界がない中、稜線伝いに石鎚山に向かった。稜線はササとシコクシラベの亜高山帯の植生になっている。氷河期に進出してきたシラベ(シラビソ)は気候変動による温暖化で生育域を狭め、現在は石鎚山と剣山の山頂付近にのみかろうじて分布している。石鎚山近くなって雲が上がって視界が開けてきた。道は三ノ鎖下で表登山道に合流する。岩が濡れているのに加えて荷物が重いので鎖場の登りは楽ではない。太く大きい鎖なので滑らないよう鎖の環に靴を入れて登る。弥山から見る天狗岳はいつもながらの迫力だった。
 縦走路はいったん二ノ鎖下まで戻って北側を巻いているが、地図に天狗岳から稜線伝いに行く破線(難路)が記載されていたのでそのまま稜線を辿った。ところが南尖峰を越えて下った先で断崖に突き当たってしまい、登り返した。下降路が判らないで戸惑っていたところ偶然下から登って来る3人組と出会い、ここから方向を転じて北寄りの崖を下ることが判った。2つのボルトを手掛りにして岩を下ったが、下りでルートを見付けるのは至難だ。登山地図に記載されていたとおり本当の難路だった。
 土小屋からの登山道は遊歩道なみに整備され、次々に人が登って来る。土小屋で石鎚スカイラインと合流するが、ここは観光地で大きなザックを背負った私には場違いだった。ここから石鎚山系の稜線伝いに舗装された観光道路(瓶ヶ森林道)が続いている。私は昔の登山道を辿ったが、通る人が殆どなく笹に覆われて歩き難い。その後、登山道はいったん車道に出るが、シラサ峠で登山道に入る地点を見過ごし、瓶ヶ森まで殆ど観光道路を歩くはめになった。この稜線は車で辿る観光地であり、もはや縦走の対象ではないことを思い知らされた。この日は何とか明るいうちに瓶ヶ森に辿り着き、倒壊した瓶ヶ森ヒュッテの近くで幕営した。氷見二千石(ひみにせんごく)原から見る石鎚山の雄姿は有名で、代表的な写真の構図になっている。今回の山行は一人なのでいつも暗くなるとすぐ寝袋に入ったが、この時期は明るくなるまで12時間あり、夜中に目が醒めて長い夜になるのが常だった。
 瓶ヶ森(1896b)には男山・女山の2峰があり、いずれも山頂の石祠に蔵王権現が祀られている。修験道の主尊ではあるが、これまで奈良の大峰山以外で蔵王権現を見たことはなかった。石鎚山系を始め四国の山は樹林が少なく、稜線は四国ササに覆われて展望が開けている。瓶ヶ森から先も稜線伝いに車道が続いており、ほかには縦走者を見かけなかった。西黒森を越えて伊予富士(1756b)に向かうが、車道から伊予富士を往復する人が多い。梯子で岩場を越えて寒風山に立つと笹ヶ峰(1860b)が大きく聳えている。ササに樹林が点在する稜線を登り詰め、日が傾く頃やっと山頂に立った。積石の上に笹ヶ峰大権現の石祠があり、不動尊ともう一体石仏が祀られていた。早々に北面の急斜面を電光形に下って丸山荘に向かった。山荘は施錠され、すでに営業を終えていた。小雨が落ちてきたので軒下にテントを設営した。
 当初は赤石山系まで縦走する計画だったが、雨の予報なので諦めてここで縦走を打ち切ることにした。翌日、1時間ほどで登山口に下ったが、交通機関がないので小雨の中さらに車道を2時間半歩いて下津池のバス停に着いた。バスは出たばかりで次のバスまで3時間半もある。雨の中、待つ場所もないのでそのまま国道を10`歩いて石鎚山登山口から来るバスに乗った。西条から特急しおかぜに乗り、岡山で新幹線に乗り換えその日のうちに帰宅した。赤石山系への縦走は果たせなかったが、これで石鎚山をひととおり知ることができた。

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雪雲に覆われる厳冬の石鎚山 厳冬の天狗岳(弥山から)
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厳冬の弥山山頂(天狗岳との鞍部から) 厳冬の弥山(天狗岳から)
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堂ヶ森避難小屋 堂ヶ森から二ノ森・石鎚山
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三ノ鎖 弥山山頂の石鎚神社
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弥山から天狗岳 天狗岳山頂部
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難所南尖峰の下り 瓶ヶ森登山道から石鎚山
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氷見二千石原から石鎚山 瓶ヶ森から氷見二千石原と石鎚山
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瓶ヶ森男山の蔵王権現 瓶ヶ森東面
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伊予富士 寒風山と笹ヶ峰
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笹ヶ峰 笹ヶ峰大権現の石祠
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笹ヶ峰山頂の不動尊 丸山荘

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