金峰山

増田 宏 

 金峰山(2599㍍)は奥秩父の盟主であり、特徴の乏しい峰を連ねる奥秩父連山の中で一頭地を抜いている。樹林に覆われている奥秩父の山の中で金峰山のみは山頂が樹林帯を抜け出してハイマツ帯になっており、遠望すると五丈岩が目印となる。深田久弥は奥秩父の山の中から日本百名山に5つ選定しているが、これは東京近郊という地理的条件を加味した結果だと思う。誰しも地元の山を優先しがちであり、私が選定すれば袈裟丸山を入れたかもしれない。奥秩父の山で地理的条件を除外して選ぶとすれば金峰山ただ一つだろう。
 甲州では昔から名山とされ、「甲斐國志」にはこの山のことが詳細に記されている。金峰山の名称は大和の金峰山(山上ヶ岳)から蔵王権現を勧請したことに由来する。金峰山は私の知る限りでも庄内の鶴岡市と熊本市にあり、いずれも大和の金峰山から蔵王権現を勧請したのが山名の由来であり、「きんぽうさん」と呼ばれている。そのほか山口県や鹿児島県など各地にあり、同じ山名由来である。桐生の唐沢山(仙人ヶ岳から派生する尾根)にも「甲斐國金峰山分地」と書かれた石祠があり、甲州の金峰山から蔵王権現を勧請したものである。
 金峰山は修験道の山だった。山頂に蔵王権現を祀っていたことが「甲斐國志」に記されているが、明治以降に編纂された新編甲斐國町村誌では山頂にある社の祭神を少名彦名命、長野県町村誌では大巳貴命としており、廃仏毀釈で神道形式に無理やり変えさせられたことが祭神名の混乱で判る。同時に修験道が禁止され、金峰山の修験道は衰退した。
 甲州側の昇仙峡から御室を経て山頂に至る道が表登山道とされてきたが、近年は交通の便が良い甲州側の増富口と信州側の川端下口が主に利用され、御室からの道は殆ど使われていない。御室の小屋は荒廃しているという。甲州側では「きんぷさん」、信州側では「きんぽうさん」と呼んでいる。金峰山の頂上付近は岩塊が広く分布している。山を構成する花崗岩が氷河期に激しい凍結に晒され、凍結破砕作用で岩の節理に沿って剥離したものである。五丈岩は周囲が剥離して残った岩塔(地形学ではトアと呼ばれる)である。

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 奥秩父は桐生からは交通が不便なので訪れることは少ないが、金峰山だけは例外で私は過去6回登っている。そのうち桐生から近い信州側から4回、甲州側の増富口と峰越林道が通る大弛峠から各1回ずつである。信州側からは残雪期、新雪期、積雪期とも訪れている。冬期も入山者がいるので厳しいラッセルを強いられるようなことはなく、雪山入門に適当である。2月には雪山が初めての同行者を伴った。その同行者は山岳マラソン(最近はトレイルランと呼んでいる)ランナーの鏑木毅君で、高校と職場の後輩である。金峰山荘の手前から積雪20㌢ほどの林道を歩き始め、踏跡を辿って金峰山小屋に着いた。付近の積雪は80㌢ほどである。小屋から上は樹林帯を抜け出ているので風当たりが強く踏跡は残っていないが、大したラッセルもなく山頂に着いた。風のない穏やかな日だったが、寒くて手袋を脱ぐとたちまち手がかじかんでしまう。金峰山小屋で休憩した際にザックから取り出した日本酒が凍っており、冬山が初めての鏑木君は寒気の厳しさに驚いていた。
 最後に金峰山を訪れたのは11月で、無雪期に訪れるのはこれが初めてだった。早朝4時に桐生を車で出発し、3時間ほどで川端下の金峰山荘に着いた。秋の大雨で大弛峠への林道は通行止めになっていた。遮断器のある金峰山荘から林道を歩き始め、終点まで1時間ほどで着いた。ここから道は電光型に付けられているので歩き易い。金峰山小屋から上は寒風が吹いていたのでヤッケを着た。山頂は寒くてゆっくり休んでいられず早々に下った。八ヶ岳が白化粧しており、山は既に初冬の様相だ。この季節になっても人が多く、百人から二百人くらいはいたと思う。帰途は大日岩を経由して旧林道終点に戻る道を採った。大日岩は3回目だが、ここは殆ど人が通らないために道が判り難く、いつも迷う場所だ。この先もか細い道が続き、大日岩から往路の分岐まで今回も誰にも会わなかった。金峰山荘に戻る頃から小雪が舞い始め、雪と雨の中を帰途に就いた。
 11月上旬に甲州側の増富口(里宮平)から登った時には瑞牆山を往復してから金峰山に向かった。この道は首都圏からの交通の便が良く、現在の表登山道である。1日で瑞牆山と金峰山、百名山2つを登ることができるので人気がある。瑞牆山は岩の塊で個性的な峰だが、金峰山の衛星峰のようであり、私なら百名山には選ばない。大弛峠から奥秩父主稜線を行く道は最も短時間で山頂に立てるが、途中の朝日岳周辺は奥秩父らしい深い針葉樹林で趣がある。次回は私が唯一訪れていない御室側の道を辿ってみたいと思っている。


金峰山遠望

初冬の五丈岩

金峰山の象徴五丈岩

五丈岩上部

西側から五丈岩

瑞牆山

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