苗場山

増田 宏 

 「絶頂に天然の苗田あり、依て昔より山の名に呼ぶなり、峻嶽の巓に苗田ある事甚だ奇なり」と越後・塩沢の文人鈴木牧之は江戸時代末に著した『北越雪譜』の「苗場山に遊ぶ記」で苗場登山のことを記している。文化八(1811)年旧暦7月上旬、彼は友人4人と従者を伴って塩沢を発ち、途中三俣に一泊してから案内者を雇って山頂に登り、仮小屋に泊まった。山頂では自然の神秘に驚嘆し、酒を酌んで詩を賦し、歌を詠んで夜を明かした。
 「千勝萬景、応接するに遑あらず、雲脚下に起こるかと見れば、忽ち晴れて日光眼を射る、身は天外に在るが如し」と高山の景観に驚き、「寒気次第に烈しく、用意の綿入にも凌ぎ難て、終夜焼火にあたりて夢も結ばず、東雲の空待わびしに、晴れ渡りたればいざや御来迎を拝み給へ、と案内者が言ふに任せ、拝む所に至り日の昇るを拝し、支度整へて山を下れり」と寒さで眠れなかった山頂の一夜を記している。私もこの紀行のような山旅をしてみたいと思うが、便利になりすぎた現在の山登りはそれにほど遠い。

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苗場山周辺概念図

 私が苗場山(2145㍍)に初めて登ったのは三十数年前の学生時代である。友人2人と夜行列車で湯沢まで行き、朝のバスで登山口まで入った。神楽ヶ峰からいったん下って最後の急登で山頂に着いたが、初めて見た山頂の広大さは想像以上だった。山頂で幕営し、翌日、昌次新道を赤湯へ下った。温泉に浸かってから清津川沿いに下山したが、元橋までの長い林道歩きにはうんざりした。
 次に登ったのは3月の彼岸である。久しぶりに訪れると神楽ヶ峰頂上近くまでスキー場になっていた。急斜面をよじ登り頂上に立ったが、頂上は一面の雪原になっていた。下りの急斜面は雪壁のように感じ、大変恐い思いをした。ザイルを使用して友人と交互に下りやっと難場を切り抜けたが、神楽ヶ峰に戻った時には既に夕闇に包まれていた。下山用にスキーを持参したが、慣れないスキーで暗闇の中を滑ることができず、苦労して神楽ヶ峰まで持参したスキーを担いで下った。途中でスキー場の除雪車に乗せて貰い、何とか最終のロープウェーに間に合った。
 その後、越後側から清津川の支流赤倉沢を遡って赤倉山を経て山頂に登り、赤湯に下ったことがある。信州側の秋山郷から初めて登ったのは後年のことで、小赤沢から歩いて山頂を往復した。三合目まで車が入れることが判り、この道が山頂に最も近いことを知った。登山道は上信越自然歩道としてよく整備されている。妻と両親を伴いこの道を山頂まで登り、降り出した雨の中を下山したこともある。びしょ濡れになったので和山で宿に泊まろうとしたが、どの宿も空いておらず、自炊で休業中の民宿に泊めてもらったことなど懐かしい思い出である。
 十月中旬に訪れた時は人が多いことに驚いた。前日、小赤沢に泊まり、車で三合目に向かった。早朝にもかかわらず数十台の車があり、駐車場は喧噪の中にあった。百名山ブームで新しく丸太造りの綺麗なトイレが設けられていた。ぬかるみには丸太の輪切りが置かれ、急な場所には木の階段やロープが取り付けられていた。頂上台地への急斜面の登りでは人が渋滞していた。山頂の混雑ぶりは更にすさまじく、ゆっくり展望を楽しむ気にはとてもなれなかった。現在では牧之の時代のような静寂は望むべくもない。山頂の喧噪から逃れ、大赤沢への道を下山した。小赤沢道は登山者が多いために土が露出したぬかるみの道になっているが、この道は落ち葉を踏み木の根を跨ぐ昔ながらの道だ。猿面峰を越えて長い下りを終えると古い林道に出て、まもなく大赤沢集落に着いた。下山中は一人の登山者にも会わなかった。紅葉は集落の周辺が盛期で、山頂は日陰に新雪が残り既に晩秋の様相だった。
 小赤沢から5月連休に登ったことがある。頂上台地の登りは急な雪面になっていたものの、雪壁のような神楽ヶ峰側の斜面と比べれば容易で、登下降とも全く心配なかった。5月とはいえ積雪が多く、山頂の山小屋は屋根だけ出ていた。苗場山にはこのほか和山からの道がある。9月中旬に百名山を目指していた知人に同行して小赤沢から登った帰途、私だけこの道を辿って上ノ原林道に下りた。道は刈り払いされており、ほかには誰にも会わなかった。小赤沢道のように抉れてぬかるみになっておらず、静かでいい道だった。
 私が唯一辿っていないのは小松原湿原経由の道である。次回訪ねる時には小松原湿原にある小屋に泊まってみたいと思っている。苗場山を巡る渓谷には清津川水系の熊ノ沢やサゴイ沢、北面の釜川など沢登りで有名な渓谷があるが、私が登ったのは赤倉沢だけである。これらの渓谷に踏み込むことと、広大な山頂部を探る楽しみが残っている。苗場山は私にとって依然として未知の魅力を秘めた山である。

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神楽ヶ峰から苗場山本峰(6月) 神楽ヶ峰から苗場山(3月下旬)
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苗場山頂 山頂の池塘
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秋の苗場山頂 苗場山頂の広大な雪原(3月下旬)
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春の苗場山頂(5月上旬) 積雪で屋根だけ出ている山頂の山小屋
(5月上旬)

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