にじゅうざか。月に何度か、足利市を訪れます。ルートは決まって、坂西桐生線〜三重小俣線〜桐生岩舟線です。通七丁目の切通しを通るときに、南側に見える赤い頭巾をかぶった石仏が気になっていました。いつも切通しを覗き込むように座っていらっしゃいます。
流石にこの季節、薮を漕ぐ勇気を持ち合わせていないので、道のありそうな石仏の探究をしてみました。
尊敬する山の大先達、川崎精雄(まさお)さんは、著書『雪山・薮山』の中の「やぶをこぐ」で、“たくさんの人々が、夏のアルプスへ出かけるが、あれはいささか慨嘆に堪えない。というのは、〈中略〉登山の目的が、古くは修験道であり、近くは心身鍛練であるならば、万年雪のある(ビ−ルもある)アルプスへ夏行くなどは、本末転倒も甚だしい逃避行でなくて何であろう。厳冬のアルプスへ向うと同じく、夏は蒸されるような、汗で目がくらみ、頭の芯がぼやけるような、猛烈な薮山へ登ることこそ、正当登山道である。”と書いています。明治生まれの大登山家の面目躍如たるものがありますが、昭和生まれの若輩者としては、落葉の頃まで薮山は御免被りたいものです。アルプスは望みませんが、せめて道のある山を歩きたい。

三重公民館発行の「三重村・足利市合併50周年記念誌(2004)」に『現在の二重坂(125年前に開削された道)』として、“もと足利から桐生方面の道は、国道(旧国道50号、現桐生岩舟線)より北の台地―五十部、山下、大前などの村落を通っていたが、享保18年(1733)に六部(巡礼者)の道運が二重坂を開削したと伝えられる。時は流れて明治11年にいたり、篤志家の寄附によって更に拡幅・整備された。”とあります。頂部にある石碑の題額の「足利開鑿二重坂路記」は当時の太政大臣三条実美の筆によるものだと書かれています。

通7丁目の切通しは、皆さんご案内だと思います。適当な駐車地がないので、緑町配水場の駐車場に駐車します。出発地が、かなり高い所ですが、配水場の案内看板や様子の良いお宮を見ながら舗装道を下ってゆきます。
左に石碑のようなものが現れ、二重坂はその下の道を進みます。進んでゆくと両側が切り立った崖になり、風が吹き抜けます。この涼感。三歩前は暑さに茹だっていました。夏にはもってこいの場所です。川崎さんにあわせる顔がありません。ご近所の昔お嬢さんだったことのあるご婦人が二人涼んでらっしゃいました。左右が山だからでしょうか。暑い町中にこんな別天地があることが信じられませんでした。開鑿石碑は左側にたっています。
切通しを抜けた左側の石段を登ってゆくと、宝暦13(1763)年に岡部道雲が造立した地蔵菩薩が台座の上に座っています。なるほど、桐生岩舟線を見下ろす位置です。
桐生岩舟線と二重坂の間の山には禅の道場があり頂部まで登れますが、三方を薮で囲まれた中に石碑がたっているだけでした。二重坂の西の入口にはコンクリート製の平和の塔なるものが置かれています。若者を見守る女性ということですが、私には何のことやら。二重坂の途中に廃車が放置されています。心地よい場所だっただけにこんなものがあって残念です。

inserted by FC2 system