hisiyamaさんから、資料の提供を受けた。「桐生の新しいハイキングコース」として桐生市広報に掲載されていたもので、残念ながらいつ頃掲載されていたかは不明。内容から(東武バスがちゃんと営業している)昭和40年から50年のはじめ頃と想像される。
古き良き日の桐生の山の姿が、結構面白かった。駒転ばし峠越えなど、いまとなっては産廃処分場がのさばっていて、できなくなって久しいし、養明山からの展望など思いもよらないことだった。資料として掲載したが、こまころばし峠越え以外のコースは、バスを抜きにすればいまでも歩けるコースで、2は桐生の山定番コースになっている。
いうまでもないことだが、本文中のバス路線は全て廃止されている。題字は当時の物に楚巒山楽会代表幹事が色付け、写真も代表幹事。各筆者の肩書きは当時。

はじめに 人間が月世界いを歩くというのに、地球の上は公害の話に明け暮れる。幸に郷土の自然は、今も健康で新鮮、身近な風物が人々をいざなっている。さあ皆さん戸外へ出ましょう。そこで紹介したい散歩道二、三。

1、白葉峠から石尊山
 まず冬のコースとして、落葉を踏んでゆく峠の道はどんなものであろうか。菱町小友のシラッパ峠から、小俣入りの石尊山へのコース。菱町公民館を起点として、寒さの折から朝九時半出発。黒川の小橋を渡ると正面の丘が住吉台地。古い石器時代から弥生期までの遺跡であるが、今は大半消滅している。この丘の北を廻り小さい谷地に入ると、ささやかな峠にかかる。住吉峠である。上に大鷲神社(おとりさま)の石宮が立つ。寛保二年の石灯籠がある。
 峠をおりると上小友の道で北へ進むと人家が点在、いまなお静かな農山村の面影を残している。500m位ゆけば白葉峠への分岐点に達する。小さい石地蔵が岩の上におかれている。昔の人々はこのようなところに、心の安息を求めたらしい。ここから右手白葉峠までは、ゆるい登りで700m。頂上北側の小高いところに、金比羅山、三峰山、白羽山と刻んだ小石祠が三つならぶ。ここから正面に見えるのが石尊山である。ここで11時。弁当をひらくにはすこし早い。
 峠をおりると入小俣のバス道路。これを北へゆけば猪子峠から松田奥まで6km余。南へ下ると1.5kmで石尊宮に着く。おそい昼食。石尊宮はまた雨降山神社という。祠堂の中には不動尊の像がまつってある。神仏習合の名残りである。宮の前には小さい滝がかかり、修験道の行場になっている。ここから石尊山頂までは、標高差300mで約1km。岩の多い登路であるが危険はない。普通の脚力で往復2時間を予定すれば楽であろう。頂上の奥宮裏からの眺望絶佳。赤城を背景に桐生市街も手のうちにある。むかしこの山神の信者は境野方面にも及び、いまも境野町の国道ぞいに、雨降山の立派な石灯籠が残っている。
 帰途は山麓に近い叶花の春日神社前にバス停があり、足利行のバスが小俣駅に通じている。山に自信のない方は、石尊宮から1.5km、鶏足寺へ足を伸ばすとよい。千年の歴史を秘めた古寺である。

文化史談会理事 周藤隆一


2、茶臼山から黒石峠
 茶臼山は、広沢山脈の群峰中ひときわ高く、294m・戦国の末には金山城に属して物見が置かれていた。登路はいくつもあるが、北麓の古寺大雄院からの道が、目標もはっきりしているし、足場もよい。寺は太田、熊谷行きのバス停「昭和橋入口」で下車、国道122号を横切り、バイパスの下を抜けて西南約700mのところにある。
 寺の境域は広く、中世の豪族広沢氏の館趾と推定する人もいる。昔は大王院といい、開基は由良氏の重臣藤生紀伊守で、境内にその墓がある。寺の前方一体の地を寄居といい、もと茶臼山守兵の番所趾である。またこの辺は縄文文化の遺跡地として知られている。大雄院には県指定文化財の刺繍涅槃図がある。本堂前に歌碑があり「寄せてくる春見るごとし土手蔭の雪かげろうのもゆるまぶしさ」(青柳武門)と刻んである。
 茶臼山への道は、庫裏のうらを廻って墓地を抜けると松の植林となり、その終ったところから右手に、道は尾根に向かって通じている。ここから頂上までは、高差150m、距離700mの登りであるが寺から1時間を予定すれば、家族づれでも楽であろう。頂上は砦(とりで)趾で二重の腰曲輪が残り、ここからの赤城の眺望は絶佳である。
 山頂から南への路をとり400m位行くと、山脈縦走路に出る。この路を左手に150mたどると、八王子山に達する。ここも塁趾で頂上は広く密生する松の植林中に、八王子石宮と八王子山碑が埋もれている。碑は古く元禄の頃この山に、行者の籠堂のあったことを語る。ここからもとの路を戻り、今度は尾根筋を上下して、北へ1km程行けば黒石峠に達する。途中は多く松林で、風に鳴る梢の音に耳をすませていると、かすかな木の香が心にしみわたる。
 黒石峠はむかし桐生から薮塚方面への要路で、西へ下れば薮塚の滝ノ入、東はゆるい降路が南高校前の岡の上団地まで通じている。南高校の下は、昔の神明で、歴史にのこる広沢御厨の地と推定され最近まで神明宮があった。金山城の士金井某が、上杉の軍勢と戦って死んだのもこのあたりだという。ここから新桐生までは1km、高低の終わりである。途中ゆっくり昼食の時を楽しんでも、消費時間はすべてで4時間を見ればよい。

文化史談会理事 周藤隆一

3、穴切峠から皆沢
 桐生川上流には美しい谷が多い。高沢川や忍山川は古くから知られているが、個性的な穴切沢を知る人は少ない。梅田線のバスを中居橋で下車、右手の道を入ると穴切橋に出る。正面の谷が穴切沢で、橋を渡ると穴切の小集落である。つい近頃まで栃木県田沼町飛駒に属していた。ここから穴切峠を越えて皆沢(かいざわ)までは4.5km、峠の下までは2kmほどは沢の流れに沿って立派な林道がいまは通じている。
 穴切の谷は東西に走っているので、左右の山は、いつも明暗の階調をあざやかに描き分けている。沢の水は多いとはいえないが、小さい滝が十あまり、白珠をちりばめたように、古生層の岩をけずって流れ落ちている。春にはまず滝の周辺に片栗の花が咲き、やがて山つつじの花と一しょに、新緑が一斉に芽を出す。滝の高さはせいぜい1mから2m、水ぬるむ頃となれば、家族そろって沢に入り、水あそびも一興であろう。
 林道の終りに近く、4〜5基の石仏が立ち、まもなく道は急に細くなって、左右に別れる。右は足利市松田への山道、穴切峠への道は沢を渡り左をとる。100m位ゆくと前方の斜面に小さい庚申供養塔が二つ立っている。この辺はその昔、人家が2〜3戸あって峠の屋敷と呼び、飛駒方面への往来が多かったという。
 庚申の下を右に巻いてゆけば、路はやがて山にかかり、500mあまりで穴切峠の頂上にでる。頂上は広いが眺望はない。左手の高いところに山神の石祠がある。中居橋からここまで2時間前後と見る。
 峠から皆沢への下りは、はじめ100m位は植林中の悪路で踏み跡もはっきりしないが、すぐに明るい沢に出る。この沢に沿って下れば林道となりまもなく県道に出合う。峠上は田沼町であるが、ここには桐生市の標柱が立っている。皆沢はここから約1km、四方を山に囲まれた別天地で桐生と飛駒、佐野方面を結ぶ街道の要衝、ここの八幡宮は一名忠綱明神、足利忠綱の悲話を伝えている。
 皆沢から梅田の落合まで曲折2kmの道は、近来補修が行きとどいて立派な車道になっている。落合のバス停近く補修された道路の山際小高いところに立派な多仏塔が立っている。峠からここまで2時間余、総所要4〜5時間の行程。

文化史談会理事 周藤隆一

4、川内から大間々へ
 桐生天神町発川内行きまたは高津戸廻り大間々行きのバスに乗り「川内天神橋」で下車。バス停から北上わずかで道が二つに別れ、左折すると天神橋に出る。
 天神橋付近に天神様のお宮があったのでこの名があるが今は小祠二社しか残っていない。ここから600mで須永の変則十字路に出る。
 右折して北上すると、市指定文化財の石仏二体(地蔵像と弥陀三尊像)が拝見できる。左折して下っていくと、考古史上名の残る「千網谷戸」に出られる。右折40mで右に入ると養明山に登れる。
 頂上からはどちらを向いても風景が良い。北側の重畳する山々、南面の渡良瀬川を足下に遠く上信国境武蔵の連山、一大パノラマである。
 石仏類を積み重ねた石壇や五輪塔の残片は、里見兄弟の悲惨な物語を追憶させる。高津戸の要害山は目前に見える。要害山からこの養明砦へ父の仇を討とうと夜襲をかけた里見兄弟が深手を追って討ち死にや自刃した悲しい史話である。
 山を下り、元の道から50mいくと、右手に「石尊大権現・文化十一年」の石灯籠が立っている。近くの年寄りに尋ねたが、石尊のお宮はない。毎年七月二十八日に幟(のぼり)を立てたが、いまはしていないと言う。推察するに機神様前面の石尊山への道に立てられたものと思う。
 さらに進むと四丁目公民館が右にあり、その右側に鳥居とお宮が見えてくる。畑を耕している人に聞いたら、この付近森家十数戸の氏神で大神宮をまつってあると言う。また森家は里見の家臣であったとも言葉を添えた。
 このあたりから大間々町になる。しばらくゆくと左手に自音寺が見えてくる。ここには庚申類の石塔群が見られる。さらに西進すると、火の見やぐらのある十四区公民館に出る。ここが車で登れる要害山への道であるが、悪路である。
 要害山を右手に見ながら進むと、左手に赤茶色の屋根瓦の阿弥陀堂が見えてくる。この脇が里見兄弟の墓と称する五輪塔群のあるところである。入るには、高津戸の橋から100m手前を、左に100mいくと、このお堂に出られる。
 高津戸峡は、関東の耶麻渓と呼ばれる名勝の地で、高津戸城の史話と共に遊歩道が楽しめる。

市立図書館長 小林一好

5、こまころばし峠越え
 桐生駅前発、菱町廻り小俣行のバスは、7時50分、11時45分、16時20分の3本。15分で菱町曲松停留所に着く。
 バス停から戻ること数分、首なし地蔵の脇を左折。すぐに小友川の橋に出る。右に文政六年に建立された石灯籠があり、さらに進むと「駒ころばし坂・八辻の峠」と書きしるされた角柱が目に入る。
 ここから愛宕山のすそを歩くこと十数分で峠に出る。峠には石地蔵が立っている。ここを中心に、八王子・宮の谷・小谷・山腰・宿島・小友方面と風穴二方面に別れる道があるので、八辻の峠と称している。
 つい最近まで、菱町の生徒はこの道を小学校まで通ったという。いま測量の杭が打ってあるので、道が拡張されるらしい。古い道を散策するには、今をのがしては往時をしのぶことが出来なくなる。
 峠付近の展望は千変万化でひとこまひとこま異なったけしきを見せてくれる。地蔵の左は宮の谷に出る道だが、ここの両側に「十三塚」といわれる古墳が点在する。1.5mから2mくらいの高さで、むかしこの塚から土の人形が出たという。はにわであろうか。
この塚の伝説は、天正元年桐生氏滅亡のとき、佐野から援軍がこの峠まで来たが、 桐生城の落ちたのを知り、戦意を失い駒(馬)を辻々へ乗り捨て、谷底深く転ばして主従残らず自害し、その人たちをここに埋めたという。この峠あたりでは桐生城のあった柄杓山は望見できないし、当時の状況では佐野の援軍は足利を通過出来なかったであろう。
 小谷に下る道は広見公園方面に出るが、このあたりは弥生時代の遺跡や、平安時代またはそれ以後の時代のかま跡の遺跡がある。峠から十数分で宮の谷の宇都宮神社に出られる。由緒は伝えによると応永十九年の創立というが、応永二年銘の石塔婆がある。
 神社の裏手には灸点稲荷社があり、おこもりをすると翌朝灸のツボが体にしるされるといわれた珍しい小社もある。神社の前から広い道に出て左へゆくと広見橋、右にゆくと菱小学校に出られる。
 峠越え所要時間は約40分。境野方面の人は、四丁目諏訪神社横から曲松に出られる。峠の坂道は篠竹の切り跡に注意。

市立図書館長 小林一好

6、長尾根峠越え
 市内川内町五丁目麦生小路から大間々町福岡浅原に抜ける峠を長尾根峠と呼ぶ。この峠の入口は川内行バス停「八幡前」であるが、「白滝神社」まで行き、白滝神社に参詣すると良い。
 織物産地桐生近郷の信仰の社である。境内のたたずまいは白滝姫伝説を想像させる。折り返しのバスは30分後に来るが「八幡前」まで歩いても、1400mである。 八幡宮には松平定信選「集古十種」に掲載されている偏額があったが、氏子役員の家に保管されている。
 入口から800m登ると、三叉路があり、林道開設記念碑が立っている。1300mの間自衛隊の奉仕により開設されたとしるされてある。この下に大正五年に建てられた道しるべがあり、旧道と新道とが対照的である。現在自動車で全コース10分、徒歩約60分の道のりである。
 峠近くの人家が終るところに右に入る道がある。この道は小平から仁田山に抜ける桜峠の道である。新道が開設されるまでは、小平方面の人はこの峠と駒見からの十二峠や宮の沢に出る山道を利用して白滝神社や仁田山に出た。桜峠の道は木が生えて峠の両側とも途中までしかいけない。小平側には明治時代まで鍾乳洞があり、2〜3年前観光ブームで探査されたが、横穴の位置は判らなかった。
 桜峠入口あたりから長尾根峠の頂上まで、地元有志の奉仕により百本もの桜の苗木が植えられ、十年もすると桜の名所となる。
 頂上からは麦生小路を眼下に、左には仁田山城趾の石尊山谷山砦のあった山が連なって見える。向こう側は、浅原方面の集落と福岡の丘陵が望見できる。
 福岡側の下りは楽で、長尾根集落入口を右に、そしてミラーの立っているところからさらに右カーブすると福岡中学校脇の峠の出口まではわずかである。バス停「福岡中学校前」は出口を右に登るとすぐである。
 ここから桐生行のバスに乗っても良いが、前記ミラーのところを左に下る川面林道を推奨したい。小平川に沿う人家を抜けると、渡良瀬川の合流点がすばらしく、さらに高津戸渓谷に沿い、はね滝のつり橋やはるか下の急流を見下ろしながら要害山腹を歩き、高津戸橋の桐生側に出るコースである。

市立図書館長 小林一好

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