安吾 

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城山の桜にはまだ早く、群大の桜が咲き始めたと聞いてたまには町中を歩いてみる日曜日。代表幹事が子どもの頃は本町通りには疎水が流れ水車が回り、天満宮のお祭りには町会ごとに屋台が出てからくり人形が動いていた、綺麗なおねーさんがいっぱいいていい匂いがしていた、と知り合ったばかりの頃聞かされました。
筆者にとってはその頃は桐生は安吾のいた町で、本町通りは「桐生通信」で知っていて、「一丁目から六丁目まで、各丁目ごとに道路の幅の半分を占める屋台をすえて、まためいめいのミコシをすえる神殿を造って鳥居を立てる。鳥居から神殿まではトラックが砂をはこんできて四、五間がとこ敷きつめる。道の幅半分を占領してメーンストリートにこれができるばかりでなく、各丁目それぞれ手前の都合があって、道の右側に屋台と神社をつくるもの、左側につくるもの、入り乱れていて全然道の用をなさなくなってしまう。」
これは祇園祭りの夏の本町通りですし、荒れ狂う安吾が素裸で仁王立ちする通りでもありました。
安吾がよく行ったという「芭蕉」や住んでいた書上家の前、綱男さんを抱いている有名な写真の美和神社の階段などは桐生に来てすぐに訪れ、でも地元育ちの代表幹事にはさして面白くもないらしく、山ばかり一緒に歩いていたのでした。一度書上邸の跡をじっくり歩いてみるのも悪くない。

ちょうど春祭・桐生新町町立て祭・421年、というなんだか半端な区切りのお祭りの最終日、まずはからくり芝居で助六の桜と曽我兄弟を見物し、このからくり芝居は毎月第一土曜日には有隣館で見られるのだとか。機を扱う町ですから絡繰りはお手のもの、しかも商業で栄えた町、大店が凝りに凝って作った人形は派手やかで精巧なものだったといいます。
宝暦12(1762)年に始まった御開帳の後、資料で確認できるのは嘉永5(1852)年の各町の出し物、明治に3回、大正に1回。昭和の初めに一度あり、次が戦後の27年、代表幹事はまたその次の36年のものを見たのでしょう。その後機業の衰退とともにお祭りも桐生まつりに纏められたようで、人形も失われたものも多く、平成になってからボランティアの方々が探し出したものや復元されたものが安吾の生原稿(コピーですが)と共に展示されています。

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〈丁寧な安吾の丸文字桜咲く

「坂口安吾 千日往還の碑」の近くから脇道へ入り、突き当たれば北小学校、その手前のプールの場所がかつて安吾が住んだ場所だと「クラクラ日記」にあって、かつてはこの一帯が宏大な書上邸で幾棟もの建物が並んでいたのだとか。夜間も使えるゴルフの練習場があり、倉が建ち、二百坪ほどの花壇に季節毎に花が咲いていたらしい。安吾が桐生に来たのは昭和27年、ちょうど天神さまの御開帳の年でこの町会の人形芝居は牛若丸、一日中「♪京の五条の橋の上」と鳴り続け閉口したとも書いてあります。
プールはこの季節は消防水利の看板がある門が閉ざされ鎖がかけられ、脇の駐車場の向こうには壊れかけた倉(これは昨年の地震のせいかもしれません)に枯蔦が纏わりつき昔日の姿は全くありませんが、静かな荒廃こそ安吾に似つかわしくもあります。どういうわけか学校の敷地から道路を隔てるプールに直接歩道橋があるのが面白い。小学校の後には美和神社の緑、北側には吾妻山から鳴神山への長い山稜の一部が見えて、桜が一樹、ちょうど開き始めて、もう安吾といえば桜に決まっていてしばらく見上げていました。
 
桐生での安吾は既に売れっ子の流行作家として「夜長姫と耳男」や「狂人遺書」をはじめたくさんの作品を書き、ときどき見え過ぎる眼差しからの激情に苛まれながらも初めての平穏な家庭生活を営み、昭和30年2月、この地でその生涯を終えます。
短い期間ですが、群馬の古墳群や野山を歩き回り、天神山古墳、金山城址、赤城神社、産泰神社や石山観音、あげくの果てには本町から小俣の鶏足寺まで徒歩で往復していて、もっと長生きしていれば「安吾新日本風土記」にどんな論が生まれたのか、東毛王朝を半ば信じている筆者はちょっと残念。

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崩れかけた倉が残る
かつて安吾の住まいがあった 桜はもうすぐ満開に


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