蟻ヶ峰・大蛇倉山

*上野村とぶどう峠を結ぶ神流川沿いの道はくねくねとカーブしながら高度を上げ、「御巣鷹の尾根」の標識に従って左折して、まだ新しい螺旋のようなトンネルを長短四つほど抜ければ、日航機墜落のあったスゲノ沢沿いの斜面、御巣鷹の尾根の取り付きに着きます。既に高度は1300mほど、駐車場には何台もの車が止まり秋の三連休、始まりが雨に祟られた最終日は空真っ青の好天で、四方を囲む山々は頂上付近が赤や黄色に彩られて今回の山行2000m弱の天辺へ秋をお迎えに参ります。

・蟻ヶ峰まで
沢沿いにしばらく緩やかな階段を上り木橋を渡り、正面から左手に見上げる急な斜面には事故直後つけられたのでしょう、大惨事を物語るように四方八方に延びながら幾本も。鉄製の階段もあちこちに設置され、番号を振られた案内図があり、広い範囲に名前を刻まれた墓標がたくさん建っています。トイレが設置された山小屋風の建物の補修工事の槌音が響く中、分岐のたびに左を選んで登れば「昇魂之碑」の広場。碑の他に鐘やベンチがある小広く開けた明るい場所で、山を背にたくさんの鮮やかな色の風車がからからと音をたてていました。
振り返ればジャンボ機がかすったという向いの尾根が見え、広場の先にも石像や慰霊の小屋や墓標がたくさん並んでいます。整備をされているという地元の方が何本もの杭を持って路肩を補修していて、この先の登山道はちょっと荒れ気味だと教えてくださる。

「大蛇倉山・高天原山」の標識からシャクナゲの茂る尾根道は、色づき出した落葉松の中を抜けてどんどん急になります。薮が枯れていくらか歩きやすいとはいえ道というよりは踏み跡といった方がいいようで、木に掴まりながら細い灌木の茂みを抜け、木漏れ日に美しい苔がびっしりとついた倒木を跨ぎ、何種類かの食べられない茸を観察しながら着く稜線には長野県側に落葉松の高い木々が黄色に輝く。ここが県境の尾根でしっかりした道標があり、落葉松の梢を風が吹き上がって急登の汗が一気にひきます。
まずは左の蟻ヶ峰を目指しますが、この山は高天原山・ショナミの頭・神立山と四つの名を持ち、ここでは二等三角点名の蟻ヶ峰を使っていますが、見上げる場所それぞれで山は色んな名を持つのが当たり前かもしれません。

稜線上尾根が細くなるあたりに東西に眺めが開ける場所があり、目的地蟻ヶ峰がすぐそこに、三国山の向うに奥秩父の山並みがはっきりと浮かび、反対方向には八ヶ岳が雲を従えてくっきりとした、本日は山日和。道は一カ所ロープを伝う大岩以外は起伏も少なく、シャクナゲの中や羊歯の中を歩けば燦々と陽が照りつける頂上へ到着です。
1978mという高さのわりには長野側のすぐ下に集落に金色の田が広がり、三国山の方から登ってきた方に聞けばそちらからはそんなに急登もないということで、同行のあにねこさんと増田さんは奥秩父への大縦走など夢見ているようです。

・大蛇倉山へ
たっぷりと休憩した後は来た道を稜線分岐まで戻り、絶景だという大蛇倉山へ。大蛇が棲んでいたわけではなく、下から見ると雪崩れ落ちるように見えるのがどうやら語源らしく、だいたくらやまと読みます。
分岐から次のピーク1922m(日航の頭の標識あり)までは稜線上の明るい落葉松の道。県境標をいくつか過ぎ、1922mピークには黄葉した木を前景に秩父武甲山方向や御座山方面が望める小さな岩場があり、真鍮の自治体の基準点らしき丸いプレート、これは大蛇倉山頂にもありましたが、残念文字が読めません。

ここから道は趣を変え、しっとりした苔むすコメツガやシラビソの倒木の道です。少し薄暗くひんやりとしている。大岩を巻いて少しの急登で大蛇倉山1962m。頂上看板のある山頂は木に囲まれて展望はありませんが、少し西側に大きな白い岩場がありここは絶景!
突端に立てば左手に白峰三山が雲を従え、正面には奥三川湖が青く空を写し、山並みの向うに長々と八ヶ岳、右手には浅間山がふんわりと浮いて、近くには御巣鷹山や御座山、天狗山、例によって何度教わっても憶えきれない。けれどもこの展望、見飽きません。
この岩場、下から眺めれば急激に山が雪崩れ落ちているように見えるに違いなく、大蛇倉山の名は長野側からの名付けのように思います。

ゆっくりしていれば秋の陽射しはあっという間に弱くなる。帰路は来た道を忠実に辿り、群馬に下る御巣鷹の尾根は急峻で急げばひとり転んだり滑ったり。下り着いた慰霊の斜面はどの道を選んでも切ない墓標だらけで、改めて日航機墜落事故の悲惨さを感じます。
午後遅い時間ながらまだ花を手にした慰霊の方々が登ってくるのに何人もすれ違っては目礼し、目にする墓標の驚くほど若い行年に瞑目し、それぞれの祈りの形に心痛みながら駐車場へ着けばもう陽はすっかり傾いて、山の夕暮れはほんとうに釣瓶落とし。

帰ってからあにねこさんにお借りした横山秀夫さんの「クライマーズ・ハイ」、眠らず一気に読みました。当時上毛新聞社にいた作者の、未曾有の事故での大混乱、事故の悲惨さ、当時は人が入れなかったこの山の佇まい、山へ登ること、書くこと、ひとが死ぬということなど、実に広範囲に考えさせられる本でした。
死を含めての自然というものに対して、科学でも神仏による救いでもなく、ほんのちっぽけですが敬虔にできるだけの祈りを捧げずにはいられません。

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