寄稿

秋の日暮れの物語

(承前)
 都の大路をそぞろに歩き、男はこことは別の都で育った子供の頃の話をする。ありふれた話ではあるがそれがこの人の話なら興は募り、固く手を握りあい、もっともっとと話をせがむ。話の合間に、たまらぬ、共に交わりせん、男の昨夜にも増して熱い囁きがあたしの耳朶で繰り返され、暗い小路にわけいって唇を交わす。あたしはもうどうしていいかわからない。交わりなど一時の戯れ、そんなことで君を失いたくありません。今は君は病にかかったようなもの、しばらく時が過ぎれば平癒して今宵のことをいぶかしむにちがいありません。いいやそんなことはない、そなたのためならこの命惜しくはないし、そなたとなら末永く共に暮らせる、どうかこの想いを叶えよ。あたしはもう泣き出してなんとか男を思いとどまらせたい。同時に男の気持ちに応じたい。景色がくるくる回り出しちかちかと目の前が点滅する。
 君の気持ちは切なく嬉し、なれどわたくしは人に非ず。思わすあたしは打ち明ける。なんの、よもやそなたが妖かしであれど、我の想いは変わらず、朱雀門でそなたを見掛けたのがすべての定め、そなたと契れればなにもいらず。男の目から流れる涙をあたしは丁寧に舐めとる。男はあたしの髪に指を絡ませくいくいと身を押し付けながらあたしの頭をすっぽりと袖に包む。
 では明日、明日になっても君の想いが変わらなければ交わりましょう。あたしは男の替りに死のうと思う。あと一夜どうしてそなたが時をかけるか図り難し、我は今宵想いが叶えば命を落としてもかまわぬ。泣き出す男の熱い身体を受け止めかねてあたしはふらふらとよろめく。時は大切、時がほどく想いもあります。ようよう明日を約してあたしはまた橋まで送られた。

 神楽岡は夕暮れの淡い紫の光に満ちて、あたしが知ってる限り一番に輝いている。あたしは三日間人間に化けなかった。我慢した。今日も昨日も一昨日も男がこの山へ入ってぽつぽつ建つ家々を訪ね歩いているのを見掛けた。後を追い、道の途中で木を見上げてる男の髪が風に吹かれて乱れるのを千切れるような気持ちで見つめた。そして今日もあたしは一日中もう人には化けまいと思い、決して男に会うまいと誓い、それでも逢って契ったあとは男の替りに死ぬことをきりきりと願い、人と交われば相手が命を失う定めを嘆き、狐に生まれた自分を呪う。瓜生山のおばさんに秘かに別れを告げに行き、おばさんの下手な都の唄に涙をこぼす。女郎花や桔梗の花をしみじみ眺め、如意が岳にいるはずの仏に心の中で手を合わせる。逢いたし、逢いたし、いよいよ陽が落ちかかる頃胸の底深い所からそんな想いがふつふつ湧き上がり、あたしは蔦の葉っぱに向かう。一心不乱に男にふさわしい姿を思い浮かべて、あたしは袿も衣も長い裾の裳も葛を晒した真っ白な装束を着けた人間になった。髪に丁寧に紅い珠飾りを挿す。

 あくあくと踊る心臓を両手でぎゅっと押さえ震えながら橋を渡る。朱雀門の方向から底に光を溜めた白い葛の狩衣を着た男が凄い勢いで走ってくる。平静であろうと努めても男と視線があっただけで笑いながら泣いてしまう。ほとんど無言で手を取り合い、熱い息づかいだけがせわしなく、抱き合う。なぜ来なかった、悶えて絶えるかと思うた、今日来なければ神楽岡で死のうと思っていた。仰せに従い契りましょうぞ、君の命に代わりましょうぞ。そんなことはさせぬ、我の命などなにほどのものぞや。あたし達は思いのたけを囁き交わし、宿を取って身体を重ねあう。嬉しや、心地よし。男はあたしを抱きしめながら甘い声を上げ、あたしは男の下で、嬉しや、快しと切なく呻く。互いに指でまさぐりあい喘ぎあい、この世の限りとぶつかり合う。
 とろとろ眠って情を交わし、またとろとろ眠る。男を膝枕してかあさんに教わった歌を歌う。可愛や、愛おしやと言い合い、髪をなであい、身体をなぞりあい、互いを確かめあう。なれどこのわたくしは仮の姿、まことのわたくしは君の思う女人に非ず。あたしは泣く。なんのこの世にまことなぞあるものか、なにもかも仮の姿ぞ、ひとときだけの命の奔しり。あたしは笑う。されど朱雀門のわたくしが老婆であれば、はたをのこであれば、君は声をかけるはずもなし。仮の姿をまこととして恋しただけではありませんか。たしかにしかり。されどこの姿で逢ったからこそ始まる定め。そなたとて声をかけたのが翁やをみななれば共に歩くはずもなし。うつし世はなべて仮、定めで回る唐車。愛おしいのはそなたの心。可愛いのはそなたの情け。あたしは嘆く。わたくしが人でさえあれば君と添い遂げられるのに。男も嘆く。我が妖かしであればそなたと共に生きようものを。

 夜もすがら情を交わし、朝を迎える。あたしの呪文はそろそろ効き目がなくなってくる。真っ赤だった蔦の葉はもう萎びて乾き記してある文字はほとんど見えない。
 もはやこれまで。あたしは宿の窓から入る明け方の弱い光の中で男に別れを告げる。わたくしはこれで思い残すことはありません。もしもわたくしが死んだらどうかわたくしを想いながら時々神楽岡を歩いてください。いいやそなたが死ぬると決まったものでもなし、また命は必ず消えるものでもあろう、もし我が死すれば毎日我を思うて歌を歌うてくれ。いいえわたくしがきっと死にまする、明日の日暮れに武徳殿の裏に行ってみてください。あたしは男に買ってもらった髪飾りを返す。あたしの形見にしてほしいと願う。替りに男の扇を貰い受ける。これを握って死のうと思う。
 橋まで共に歩く一刻一刻、建ち並ぶ家や光を増してゆく空、川の匂いやすれ違う人、遠くに横たわる山影、みな輪郭を鋭くして瑞々しい。握り合った男の手が燃え上がるようなのはあたしの熱か男の熱か。縺れあって歩くあたし達はいま青白く発光して宙に浮かんでいるに違いない。別れ難し、今一日。橋の袂で男は泣く。わたくしも別れ難くはあれど、別れるのもまた定め。会ってしまえば別れるのはこの世の習い。では一日とは言わぬ、せめて神楽岡まで送らせてくれ。夕刻まで共に歩いてくれ。
 男と歩く山道は光に包まれ、大気は甘く香り立ち、見上げれば空から瑠璃が降り柔らかな音曲が聞こえる。途中で腰を降ろして見下ろせば川の向こうに夢のように都が霞み、そのまた向こうになだらかな山が錦に連なる。有り難し、君の情けでこの世が浄土になったような気がします。あたしはしみじみ周りを見回し、深々と溜息をつきながら横の男に語りかける。
 男の息が深くなり、男はあたしにもたれかかる。ここで君は帰られよ、この時を永劫忘れてくださるな。あたしは男を抱きとめて願う。男の返事はない。わたくしは君を忘れじ、君の声、君のまなざし、君の唇、君の指、なにひとつ忘れじ。抱いた腕の中で、男はぐったりと息をしていない。薄く微笑みながらこと切れていた。
 あたしは日暮れまでそのまま男を抱きしめながら語り続け歌い続けた。

 それからのこの狐は神楽岡で狩りをし、花を摘み、如意が岳を眺めたり都を眺めたりしながら、来る日も来る日も歌い続けている。喉が裂けても言葉が出なくても歌い続けている。もう決して化けることもないし、子を産むこともない。
 秋は日暮れ、今は昔の物語。

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