大明神山

*ーこの国ってえのは合理的と申しますか便宜的と申しますかいっそいい加減と申すべきか、例えば富士山にお詣りするのは大変っていうんで各地の神社の裏に石を積んで富士と呼びます。お祭りの日にそれに登りますってえともう本家本元の富士山に登るだけのご利益あり、と喧伝いたしますと皆さんそこにお登りになる。
ーご隠居、そういえば暑い盛りの功徳日にお詣りすれば46,000日分のご利益なんてえのもありますね。
ー熊公や、よく知ってるねえ、普段の功徳日は千日分、夏のその日はなんと126年分、子々孫々の分まで功徳があるといつからか大流り。
ー他にも三回廻すと6,956巻のお経を全部唱えたことになるというありがてえ仕組みのある経蔵もありやす
ーありゃ熊公、本場西蔵にもあって、まああちらでは手に持つ車になって廻しながら聖地へ旅するらしい。寺の裏の石山ってわけにしないのがさすが密教のお国。
ーじゃあ一粒で二度美味しいとかひとつでも五徳のナイフなんてえのはどうでげしょう

長屋のご隠居と熊さんのつまらぬ会話をでっち上げていて、そういえばと気づく百庚申、あるいは千庚申。ひとつの石に百だの千だのと彫ればそれが百になり千になるというのは一種の言霊ではないかなんて思っていたら、高崎の倉渕にはちゃんと百体の青面金剛が彫られた百庚申があるとの情報。一石百庚申というとても珍しいものだそうで、それを拝見旁々上の大明神山も征服して、と一回で二度楽しむためにあにねこさんと出発する日曜日です。

右手に烏川の瀬音を聞きながら山沿いの道を長野方面へ、権田地区のその名も明神橋の先左手の山肌に古めかしい石碑が見えたらその真上が浅間神社。冒頭のご隠居のいう富士山にお参りするのと同じご利益をいただくべく本家本元から勧請された神社です。
国道から見上げれば濃くなり始めた緑の間にちらちらと拝殿の屋根がのぞき、参道の石段の登り口すぐ左手にお目当ての一石百庚申が。遠目には立て筋の入った石柱に見えますが近寄れば一面25体、それぞれが六本の腕に宝輪を持ったり弓を持ったり、あるものは合掌しあるものは印を組み、三列八段、最上に一体と日月が刻まれてこの石ひとつに手は600本、けれども下段の頭の上にいる金剛たちはまさか同輩を踏みつけるわけにはいかないのか足がなく、足は最下段に全部で24本、なんだか難しい鶴亀算です。寛政六年(1794)と台座にあり、でもこのトーテムポールのような配列はなかなかモダンで200年以上昔にはとても斬新ではなかったかのかしら。初めて見る一石百庚申をあちらから、こちらから眺め、近寄ったり撫でたりして表情の違いを楽しみます。

石段を登りきると木花咲耶姫と磐長姫がご祭神のしっかりした拝殿と本殿。
その裏の遊歩道登り口の先には古い石祠が並び、役行者らしき石像がありますがここが圧巻。崩落防止のためにがっちり鎖で留めてある垂直の岩壁にはいくつか洞があり、いかにもなにかがおわす雰囲気で、見上げる岩肌の途中にも観音さまらしきお姿が。この大岩壁を見ればここが真田昌幸の砦城であったのも素直に頷けます。上から石など落とされたら怪我はおろか絶命も不思議でない高さ。

諸々の神さま仏さまに手を合わせ、猪の足跡がたくさんついた遊歩道を明るい緑に向かって登ります。最近は猪の方が通行量が多いような落葉の深い道ですが、ほぼ全てに擬木で階段状に道がつけられ、手摺もあり、堀切を二本越えてほんの少し息を切らせれば平坦な天辺へ。駒形砦城本丸との白い柱、大きな石碑、大明神山砦やのろし台の説明板が二枚、三日月と日輪のついた石祠、岩壁の真上にあたる東側には展望板やベンチがあって、樹木に遮られて展望はありませんがちょっとわが町の城山に似た如何にも城址らしい頂上です。重なる新緑から木漏れ日が透けて、水を渡った風が吹き上げてきて実に気持ちよく、ベンチでぼんやりと大休憩をしてもまだまだお昼まで時間は長い。

この辺りは信玄が上州を攻める道筋、他にも権田城や天狗山砦など戦国時代の山城がいくつも残っているのだとか。烏川沿いは低い山々が続く明るく開けた谷地なので昔からひとが住みやすい場所だったのだと思います。
往路を戻り神社参道の入口の樹齢三百五十年という大楓を眺め、この後近くの高尾山へと向かうのですが、その道沿いにはたくさんの古い墓地や、道しるべの石像が点々と続くのでした。

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参道入口
青面金剛の連続体
一石百庚申全体
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本殿裏の石祠・石像
斜面は岩壁
遊歩道を登る
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頂上の石祠
石碑や看板が立つ城址
参道入口の大楓

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