煙突娘 

すっかり気に入ってこの頃毎晩寝るときのお供にしている「桐生市ことがら事典」。山名や峠名の後に標高が記されていて、ずっと判らなかった山の名が特定できたり、HPに記載した山の別名・異名を知ったり、山だけではなく寺社の変遷や遺跡の現在地が判ったりと便利です。
山とは関係ありませんが、筆者が特に心惹かれた項目が「煙突娘」。1950年の労働争議のひとこま。

「煙突男」は1930年の昭和大恐慌の時代、紡績工場の労働争議のアピールとして登場し、延々130時間滞空して注目を集め<「煙突男」の頑張り奏功して争議止むなく解決へ>なんてことになったらしく、高い場所での抗議行動は戦後になっても労働争議の度にあちこちで頻発します。煙突ではありませんが1970年の大阪万博の太陽の塔に篭城した男性や、各大学で続いた学生運動の時計台占拠なんかもその類いかもしれません。

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けれども女性が登ったのは珍しい。さすがかかあ天下の上州、女性が働いて経済の底を支えてきた機の町。早速図書館へ行き、古い新聞をひっくり返し、友人知人のツテを辿って当時を知る方を探し出します。
煙突娘が83時間も登っていた煙突は天神町の三丁目、なんと筆者が20年近く暮らした町内にかつてあったゴム工場のもので、いまはすっかり住宅街になっていますが、戦争中はパラシュートやガスマスクを生産する大規模な軍需工場で、パラシュートといえば絹布、織るのも縫うのも女性の仕事、戦後ゴムの工場になっても女性従業員は多かったのかもしれません。
桐生タイムスには短い記事がひとつと言及した論説がひとつしか見つかりませんでしたが、上毛新聞は第一報の12/3から連日記事を掲載していて、NHKのラジオニュースや全国紙でも報道された事件、地元紙なら張り切って当然で、12/6には記者が煙突に登って意気軒昂なふたりの娘さんにインタビューした記事もあります。

赤城颪の冷たい季節、対立する会社側も一晩中炉を焚いて煙突を暖めたと記事にあり、下で見守るたくさんの支援者も毛布や食糧を差し入れ、4日間に渡る篭城にも関わらず争議は実らないままに、会社もその後すぐになくなりますが、新聞を追う限り煙突娘は処罰の対象になった様子はありません。
その場所にお住まいのお年寄りに聞いてももう昔のこと、そういえば子どものときに聞いたような気がする、くらいの方が少数、ほとんどの方は騒ぎそのものをご存知ないのはTVがない時代だったからでしょう。戦前の初代煙突男が労働運動のシンボルのようになり、あちこちで講演もし、けれどもすぐに不審死されたことを知ると、地方都市だけの余り目立たない騒ぎで済んだのはあるいは幸いだったかもしれません。

この8年後、煙突に登る女性が主人公の和製ミュージカルの映画が公開されますが、かぐや姫の聟えらびをアレンジしたようなハッピーエンドの作品のようで、そこにはもう労働の汗の匂いも敗戦後の日本の状況の重い主題もなさそうです。
日本経済がめざましく発展し、一億総中流などと喧伝されるようになれば誰もが簡単に高い視点を手に入れて、もうどこかに登って何かの抗議をアピールするようなことはなくなり、まあその分時代がうねるようなダイナミズムも失われて、桐生はあるいはどこよりも先駆けてゆっくりと衰退し続けているのだとも思えますが、それを一概に悪いと感じないのは、機で古くから栄えた町並と背後の自然が美しいからでしょうか。

二人の「煙突娘」のおひとりは昨年ご逝去され、もうおひとりも静かに老後を送ってらっしゃると知り、天神町あたりはそんなに高い建物は増えないまま、かつて煙突があった敷地の一角には別の会社の当時のものよりうんと低い可愛い煙突が一本、観音山から雨降山の稜線をバックに立っていて、小道を歩けば歩くほど、ときの流れを知れば知るほど、筆者はこの町がどんどん好きになっています。

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煙突(当時の会社とは無関係です)
連日の報道記事 こちらはお風呂屋さんの煙突

参考サイト ○ハニカム構造体 煙突娘  ○ギャラリー錦 昭和の桐生写真 ○筆者のブログ(笑)

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