二渡山脈(仮)その1

*昔というほど昔ではないけど、まだHPを始める前、代表幹事と梅田の護国神社から華心亭へ歩いたときに、この稜線をずう〜っと歩けば岳山まで続くと、ちょいと夢見るような目をして言っていたのが印象に残っています。自分でも書いていたようにそんな岳人にはならなかったひとなので、里近くの山ばかり歩いていましたが、そのときの言い方とまなざしがいくらか深いものだったので、できることなら歩いてみたい、もし行くことがあれば誘ってほしいとあにねこさんにお願いしていたのが叶いました。

地図で見ても長い稜線なので2度に分けて歩きます。桐生みどりさんご夫婦にもお付き合いいただいて、白鉢巻がわりに寒さ除けの帽子、襷がわりに腰にジャンパーを巻き付けどういうわけか気分は仇討ち。別に山が仇というんじゃないけど、代表幹事よりうんと軟弱なものですから道がない稜線歩きには気合いが必要です。
長い長い稜線なので長い長い記事になりそう。

一 石段を登って二渡山へ
護国神社脇に小さな駐車スペースがあり、ここから階段登り。その前にタイムスさんの「桐生の石仏」で、室町期のものと推定されている薬師三尊を拝見します。階段左手の杉林の中の古い墓地の突き当たりに、ちゃんと屋根が作ってあって大事にされています。ちんまりと三つ、彫目はすっかり丸くなって文字も読めませんが可愛い。

さて神社の石段はとても長い。のっけから膝は泣くし心臓は踊る。途中軽くカーブして数えるのも最初から諦めましたが、一段一段広目に作ってあるので危なくはない。しかし見上げても見上げても続きます。
主祭神は大山津見神。高沢村と浅部村の村社が合併したもので両村の境界上に明治の末に建てられたと「桐生市史」にあります。後戸の神さまは十以上並び、これもそれぞれの村の神さま達が一堂に集められたものでしょう。
その左手に高園寺の華心亭に続く道が下り躑躅の季節はこの先は見事です。今回は上に踏み跡を辿りますが、茨と小枝がかぶさる登りで早速桐生みどりさんがぶつぶつ下手な駄洒落混じりの文句をつけ始めます。どういうわけか神社に入れてもらえなかった石祠がひとつ右手にぽつんと建っていて、これは昔からここにある山神さまでしょうか。

薮がだんだん大人しくなりひと登りで二渡山山頂。振り返れば仙人岳がすっくりと稜線を伸ばし、眼下には梅田二丁目の人家がすぐそこに。

二 稜線を少しはずれて三角点
緩やかな稜線を辿り、ピークを一つ巻きます。この季節しか歩けないとは思いますが、ちゃんと踏まれた、所々新しそうなピンクの目印がある道が続きます。ちょっと急登があって、目の前に伐採地が見えてきたら途中から杉林の中の斜面を右に。すぐ細い尾根に出れば、樹齢どのくらいなのか、大きな杉の木が空に枝を伸ばしています。根本から3つに別れていますが、その太さはこのあたりでは余りお目にかかれない。根も両側に太く張り出し、尾根そのものを抱いているようです。

この木を過ぎて少し下ったところに三等三角点があります。ちゃんと黄色のチップが埋め込まれ、頂上も左右の尾根も伐採されて、眺めがいい。切られた枝にはオレンジや白の無数の怪しい茸が生えていて、潰さないよう腰を降ろして大休止。
さてこのピークにはどうしても名前が欲しい。尾根を下れば上ノ原の集落があるので、仮称ですが上ノ原山ととりあえず呼びましょう。おやつを食べたから十時山というよりは根拠ある名だと思うのですが。

稜線に戻り平らな広々した460mピークへ向かう。ここは○○山というより、○○平と呼びたい開放感のある頂上です。思っていたより歩きいい柔らかな道で、風の全くない薄曇りにこんな場所で大きく伸びをすれば、空に溶けてゆきそう。

三 峠と稜線をとりあえず名で呼ぶ
この稜線ですが、「桐生市地名考」に度々出てくる「二渡山脈」をとりあえずいただきました。根本山から座間峠への重畳たる山並みから桐生川の二渡に向けて、高沢川と忍山川に挟まれた高度差800mほどの緩やかな長い尾根、「山脈」は大仰だとのご意見もありますが、この長さに敬意を払いましょう。
二渡、「フタワタリ」と読みますが、本来は「ニワタリ」と読む東北地方固有の地名とか。桐生川の菱側にある塩竃神社を奉じて天正年間に東北からやって来た一族が、川の渡し場に故郷の地名をつけたのが始まりで、そのうち読みが変じたのだとか。
「桐生市地名考」は実に読みでのある面白い本ですが、地図が付いていないので小字名の現在地がわからないのが欠点です。

落葉を踏みしめて軽く下れば、1/25,000の地図で破線で示された峠に着きます。進行方向に向かって左高沢側が鍛冶谷戸、右の忍山川に向かえば碁場小路に下れそうですが、どちらも荒れた急降下。もう今は峠として歩くひとはいないのでしょう。
碁場小路の「碁場」は「木場」のこと。高沢側にも「胡麻小路」という地名があり、この「胡麻」も忍山の「木場」のことだといいますから、この峠をいちおう木場峠と呼んでおきます。実際は地元の人は峠や山をそんなにはっきり名づけておらず○○へ行く道とか、○○の上の山とかアバウトに呼んで困ることはなかったでしょうから、ピークや峠に名を欲しがるのは他から来る人ですね。高山彦九郎の書いたものに詳しい地名が載っているのは、帰る場所のあるひとの記録だからです。

四 二渡山脈を次の三角点へ
峠を過ぎ、杉の植林と雑木の間をなだらかに高度を上げてゆくと桐生市の基準点。残念ながら真鍮部分がなくなっていて、番号がわかりません。まさかコレクターがいるわけではないでしょうが、基部だけが残っているのは寂しい。

木々の間、左に鳴神桐生岳から奥へ続く山並み、後には三角山が特徴的な菱と足利の境の山並みを楽しみ、右手には野峰や丸岩岳、行手に残馬山と根本への連なり。道は小さなアップダウンや痩せ尾根はありますが、そんなに急登もなく静かな深山を満喫しながら桐生市基準点NO.123を踏みます。こちらは完全なもので、どの市も基準点はこの作りなのかしら、風格ある立派なものだと改めて感心します。

ゆったりと登り続けると細長い山頂に到着。三角点と新しい白い標柱、そばの切り株にはおなじみのR.Kさんの茶色い看板がここが651,4mピークだと教えてくれます。
いつも思うのですが、R.Kさんとはどんな方なんだろう。びっくりするような辺鄙な山頂にこの方の高さだけを記した落ち着いた看板を見るたびに、想像を巡らせます。随分昔からかなり広い範囲で黙々と、でも間違いなくこの看板を作る時に少し浮き浮きと計画を練って(代表幹事がそうでしたから)、たぶんひとりでこうやって看板を設置して歩いている。一度その現場に巡り会ってみたいものだと話したことがあります。駆け寄ったりしないで遠くから黙礼して、代行など手を合わせてしまうかも。山名に拘らないところがまた潔いような、でもやっぱり物足りないような。
どうしても名づけたい楚巒山楽会としては、この三角点、下の集落の名と点名から木品山としておきます。

ここで昼食。四方の山をひとつひとつ教えてもらい、枯葉に埋もれていつまでものんびり寝転んでいたいような気分。といって日の長い夏ではとても歩くことはできない稜線。惜しみながら軽くなったザックを背負って出発します。

五 持丸山から影入峠(仮)
正面に大きな丸みを帯びた山が見えて、これが代表幹事が索引にだけ載せて登ることができなかった持丸山です。724,8m、本日の最高峰。高沢側の下に持丸の集落があり、最近まで1軒だけのお宅が残っていたとか。
リストではこの前後の山は全くリンクがないままで、これも宿題のひとつ。楚巒山楽会の、ひとつひとつの山を紹介するというスタイルは代行には荷が重い、どうしてもいくつかの山頂を一日で歩くコースの紹介になります。近いうちにまたお願いして、残りの稜線を踏破するために連れて来てもらう心づもりですが、そのわりに精進がなく、この大きな山の急登をひとり遅れてもたもたひいひい登ります。登り切れば正面に、斜面が崩れ巨大な岩がごつごつ露な険しい山が見える。次回の二渡山脈の続編は波乱含みの予感がします。

急な斜面、鳴神山脈の大形山の下りに似て、まばらな木立を頼りに下り始めると下から機械音が。左手直下では大型の工事車両がなにやら埃をたてて走り回っています。鍋足と忍山林道を結ぶトンネル工事をしているらしい。こんな山奥にそんな計画があったなんて、しかもいずれ小平と結ぶなんて、需要があるようには思えません。太田市の里山計画を笑ってはいられない。

降りきってのこの峠、鍋足と大茂を結ぶ峠道です。実はここを検索していると一件ヒットするのが「影入峠」という名前。これは全くの出鱈目ではなく、「桐生市地名考」の高沢村「嶽入」から来ているのだと思う。少し引用します。ちなみに一つ前は鍋足の項です。

『タケイリを地元ではカケイリと呼んでいる。嶽は岸壁のある山をいう。……忍山峠沿いに東へ二渡山脈迄入り、山脈に沿って北へ向いている入り口付近に岸壁のある奥に深い山腹の窪』

なんだかいまいち判らないけれどもこの峠の忍山川側は忍山橋のたもとです。前には岩だらけの険しい山があるし、ここがカケイリの近くであることは間違いないように思います。で、若き登山者が忍山側に下りながら、逢ったひとにこの道を指差して聞くわけです。「これはどこへ行く道ですか」「カケイリだよ」「ああ影入ですか」。ね、ね、「影入峠」全く根拠のない話ではないでしょう。
実はこの「影入峠」という地名が出てくるのは昭和17年の『新しき山の旅』という古いガイドブックらしいのです。まだ余裕はあるとは言え戦雲急なるこの年、もうそろそろ学徒出陣も始まろうかという、登山どころではなくなる時代です。字面の儚さと時代の儚さの相乗効果で、代行はすっかりこの峠名が気に入ってしまい、しかもちゃんとした名が確定しているわけでもない。影入峠でいいじゃないかと力説してみたのですが、どうも同行者一同余り乗ってくださらず、忍山峠ならわかるけど、などとおっしゃる。しかたないのでこの地図上は忍山峠(影入峠)としましたが、もちろんどちらも仮称です。

六 峠道は寸断され舗装道をとぼとぼ下る
峠を後に忍山川方向に下ります。時々色んな色のテープが見えるから全くひとが歩かないわけではありませんが、道形のない杉林の急斜面。杉の小枝を踏み散らし杉落葉を跳ね散らし下り着くと、なんと途中にダンプカーが土砂を積載中の広い舗装道。峠道はここで切られて、高みを切り崩したのか谷に向かって急角度で土が落ち込んでいます。とてもこれは下れない。
しかたがないので、なんだか変に新しい立派な舗装道を辿ります。下れば下るほど道は細くなり、舗装もなくなり、これはきっと高沢側もそうに違いありません。山の上の一部だけにある立派な舗装道なんて。この先計画通りに道路が一貫して開通するのはいったいいつ?誰が使うの?いくらかかるの?どうしてトンネルから始めるの?疑問だらけの、不思議というより不気味な道です。
あら、ということは残りの稜線を歩くために鍋足から登っても峠は完全には辿れないということかしら。山容の険しさといい、峠道が無惨に切られていることといい、やはり次にここを歩く時はなかなか苦労しそう。

忍山川に着けば川は白っぽい岩床で、澄み切った水が時々小滝を作り、なかなか明るい綺麗な景色。湯本の近くに停めてあるもう一台の車に向かって、林道歩きもこの位古びた道なら苦になりません。降りて来たら地元の方に色々聞こうと思っていたのに、全く人の気配はない。朽ちた人家の跡や昔は庭だったのか緑が柔らかな竹林を眺め、湯本にはかつて営業していた旅館が玄関やガラス戸を開いていますが、黒犬が吠えるだけでひとの住む感じではありません。
この先にかつては温泉宿が七、八軒あったといいますが、古い立派な庚申塔にその面影を残すだけ。時は川の流れのようにさらさらと流れてもう戻っては来ない。午後の弱った陽射しの中に朽ちた鳥居と苔だらけの階段の温泉神社を横目に、車に乗り込んで桐生川目指して下ります。

中居橋のたもとで例によって石仏など捜し、さすがにこのあたりの方に聞いても奥の山や峠の名前はもちろん、トンネルの工事のこともご存じありません。いくつか古い石仏を写真に収め、山の空気に浸りきった身体が少しずつ下界の時間に戻るために軋みはじめ、ご紹介のこのコース、ひたすら地味ですが、藪山好きにはおすすめの稜線です。繁茂期以外なら登り出し以外は歩きやすい道、展望もまずまず、ここは是非ゆっくりと長丁場を楽しみましょう。ただ一点、峠道だけが心配ですので、体力に自信のある方は座間峠まで一気通貫でアガるのもいいと思います。(但しはにゃさんに掲示板で教えていただいたように、3/15までは木品までしか車は入れないかもしれません)

2010.2.19 山の名を地元の方にご教示いただきました。上ノ原山は作網(さかみ)山、桐生市基準点no.123のピークは高芝山だそうです。地図を訂正いたしましたが、記事はこの追加文で訂正といたします。

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